バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
2011.02.10
20世紀最大の天才作曲家
人は常にいくつかの感情を同時に抱え込んでいる。心が喜びだけで満たされる瞬間があったとしても、その状態は長く続いてはくれない。嬉しさの中には少しのわだかまりがあったり、安堵感の中には拭いきれない不安の影があったり、達成感の中には説明のつかない不満があったり......と相反するはずの感情が胸の内に共存しているものである。人間とは割り切れない生き物なのだ。
ハンガリーの作曲家ベーラ・バルトークの音楽は、そんな人間の真実の感情を表現している。ひとことで言えば、暗い。しかし、深く肉体に響き、背骨の芯まで揺さぶる力がある。多くの西洋音楽は喜怒哀楽を分割し、それぞれをドラマティックに誇張し、時に美化しているが、それも度が過ぎると嘘臭くなる。バルトークはそういうことはしない。彼の作品と向き合っている時、私たちは言葉にできない自分の内面が音楽の中に映し出されていることに気付き、ある種の戸惑いと興奮を覚える。不安定な旋律、調性も無調性も取り込んだ様式、荒れ狂う原始的な打音ーーそれがどうにも説明のつけようがない矛盾だらけの自分の感情のテーマのように感じられてくる。自分だけのために書かれた作品であるかのように思う人もいるかもしれない。モーツァルトとはまったく違うやり方で、これほどまでに音楽が不安定な感情を中和させてくれる例はそうそうない。
バルトーク作品の根幹にあるのは東欧の民族音楽である。その誇張のない感情表現、無造作だがバランスを失わない構成、複雑なリズム、五音音階の旋律に魅せられた彼は、実際に各地の農村へ行き、農民の音楽を採取した。そして、それらを自分の音楽性と融合させることにより、誰も聴いたことのない、現代人の胸に突き刺さる革新的な芸術を作り出すことに成功したのである。生前のバルトークは大した理解も栄光も得られなかったが、彼こそはまぎれもなく20世紀最大の天才作曲家だった。弦楽四重奏曲第5番、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」、「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」、「管弦楽のための協奏曲」のどれかひとつでも聴けば、それはすぐに分かるはずだ。
中でも、とびきりの傑作とされているのが、作曲活動の最盛期(1936年)に書かれた「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」(通称「弦チェレ」)である。ここにはバルトークのエッセンスのほとんどが濃縮されている。緩-急-緩-急の全四楽章。感情のエネルギー総合体のようなものが、たえず流動し、うごめき、ぐらつき、のたうちまわり、鼓動し、噴出する。その緊迫感とカタルシス。全体の構成は、それ以前の彼の作品に比べると簡潔でわかりやすく、様々な作曲法を駆使してきた悩める芸術家の音楽的総決算といった趣がある。バルトーク未体験の方も、これなら入りやすい。楽器編成は、2つのグループに分かれた弦5部と、小太鼓、大太鼓、シンバル、タム・タム、ティンパニ、木琴、チェレスタ、ハープ、ピアノ。一風変わった編成ではあるが、これらの楽器群が放つ驚異の表現効果をぜひ体験してもらいたい。
難曲のため、文句がつけられないほど完璧な演奏にはなかなか出会えないが、特筆すべき録音はいくつかある。まずはフリッツ・ライナー&シカゴ響による1958年の録音。リズム処理が非常に巧みで、ダイナミクスの表現も明快、録音状態も良く、愛好家には名盤として昔から親しまれている。レナード・バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニックが1961年に録音したものは、第1楽章が素晴らしい。これ以上感動的な演奏が望めるとも思えない。それだけに第2楽章、第3楽章と進むにつれてどんどん表層的な表現に堕していくのが残念。
エフゲニー・ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の1967年のライヴ録音は、あたかもジャングルの中を鉈一本で切り開き、迷いもなく突き進んでいくような鬼気迫る演奏。録音状態はあまり良くないが、ここではそれがかえって有利に働き、贅肉を削ぎ落とした凄み溢れる音を堪能できる。ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1969年の録音は、緻密なアンサンブルと妖しい色彩感が魅力。バルトークと相性のいいカラヤンの面目躍如といったところ。入門盤としても最適だ。
人は常にいくつかの感情を同時に抱え込んでいる。心が喜びだけで満たされる瞬間があったとしても、その状態は長く続いてはくれない。嬉しさの中には少しのわだかまりがあったり、安堵感の中には拭いきれない不安の影があったり、達成感の中には説明のつかない不満があったり......と相反するはずの感情が胸の内に共存しているものである。人間とは割り切れない生き物なのだ。
ハンガリーの作曲家ベーラ・バルトークの音楽は、そんな人間の真実の感情を表現している。ひとことで言えば、暗い。しかし、深く肉体に響き、背骨の芯まで揺さぶる力がある。多くの西洋音楽は喜怒哀楽を分割し、それぞれをドラマティックに誇張し、時に美化しているが、それも度が過ぎると嘘臭くなる。バルトークはそういうことはしない。彼の作品と向き合っている時、私たちは言葉にできない自分の内面が音楽の中に映し出されていることに気付き、ある種の戸惑いと興奮を覚える。不安定な旋律、調性も無調性も取り込んだ様式、荒れ狂う原始的な打音ーーそれがどうにも説明のつけようがない矛盾だらけの自分の感情のテーマのように感じられてくる。自分だけのために書かれた作品であるかのように思う人もいるかもしれない。モーツァルトとはまったく違うやり方で、これほどまでに音楽が不安定な感情を中和させてくれる例はそうそうない。
バルトーク作品の根幹にあるのは東欧の民族音楽である。その誇張のない感情表現、無造作だがバランスを失わない構成、複雑なリズム、五音音階の旋律に魅せられた彼は、実際に各地の農村へ行き、農民の音楽を採取した。そして、それらを自分の音楽性と融合させることにより、誰も聴いたことのない、現代人の胸に突き刺さる革新的な芸術を作り出すことに成功したのである。生前のバルトークは大した理解も栄光も得られなかったが、彼こそはまぎれもなく20世紀最大の天才作曲家だった。弦楽四重奏曲第5番、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」、「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」、「管弦楽のための協奏曲」のどれかひとつでも聴けば、それはすぐに分かるはずだ。
中でも、とびきりの傑作とされているのが、作曲活動の最盛期(1936年)に書かれた「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」(通称「弦チェレ」)である。ここにはバルトークのエッセンスのほとんどが濃縮されている。緩-急-緩-急の全四楽章。感情のエネルギー総合体のようなものが、たえず流動し、うごめき、ぐらつき、のたうちまわり、鼓動し、噴出する。その緊迫感とカタルシス。全体の構成は、それ以前の彼の作品に比べると簡潔でわかりやすく、様々な作曲法を駆使してきた悩める芸術家の音楽的総決算といった趣がある。バルトーク未体験の方も、これなら入りやすい。楽器編成は、2つのグループに分かれた弦5部と、小太鼓、大太鼓、シンバル、タム・タム、ティンパニ、木琴、チェレスタ、ハープ、ピアノ。一風変わった編成ではあるが、これらの楽器群が放つ驚異の表現効果をぜひ体験してもらいたい。
難曲のため、文句がつけられないほど完璧な演奏にはなかなか出会えないが、特筆すべき録音はいくつかある。まずはフリッツ・ライナー&シカゴ響による1958年の録音。リズム処理が非常に巧みで、ダイナミクスの表現も明快、録音状態も良く、愛好家には名盤として昔から親しまれている。レナード・バーンスタイン&ニューヨーク・フィルハーモニックが1961年に録音したものは、第1楽章が素晴らしい。これ以上感動的な演奏が望めるとも思えない。それだけに第2楽章、第3楽章と進むにつれてどんどん表層的な表現に堕していくのが残念。
エフゲニー・ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の1967年のライヴ録音は、あたかもジャングルの中を鉈一本で切り開き、迷いもなく突き進んでいくような鬼気迫る演奏。録音状態はあまり良くないが、ここではそれがかえって有利に働き、贅肉を削ぎ落とした凄み溢れる音を堪能できる。ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1969年の録音は、緻密なアンサンブルと妖しい色彩感が魅力。バルトークと相性のいいカラヤンの面目躍如といったところ。入門盤としても最適だ。
年代の新しいところでは、1994年に録音されたピエール・ブーレーズ&シカゴ交響楽団の演奏が貫禄の出来。ここでは刺激や衝撃は全く狙われていない。「この作品は斬新でもないし、奇抜でもない」と言わんばかりの余裕のあるアプローチで聴かせる。初演から50年以上経てば、こういう演奏が出てきても不思議はない。
(阿部十三)
ベーラ・バルトーク
[1881.3.25-1945.9.26]
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
シカゴ交響楽団
フリッツ・ライナー指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
シカゴ交響楽団
ピエール・ブーレーズ指揮
[1881.3.25-1945.9.26]
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
シカゴ交響楽団
フリッツ・ライナー指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
シカゴ交響楽団
ピエール・ブーレーズ指揮
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