チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
2011.06.03
アメリカで成功したロシアン・ピアノ・コンチェルト
しかし、この傑作が世に紹介されるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。チャイコフスキーが本格的に作曲に着手したのは1874年11月。当時、新進作曲家として注目されていたチャイコフスキーは、初のピアノ協奏曲をニコライ・ルビンシテインに初演してもらうつもりでいた。ニコライはロシアの大音楽家アントン・ルビンシテインの弟で、優れたピアニストとして知られ、モスクワ音楽院の初代校長を務めた人物である。だが、彼から下された批判はひどいものであった。絶対に演奏不可能、低俗、拙劣、盗作......。
プライドを傷つけられたチャイコフスキーは、それでも自分の作品への自信を失わず、ニコライから指示された修正を拒否、ドイツの高名な音楽家ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送ることにした。するとビューローは「驚嘆すべき素晴らしい作品」と絶賛。アメリカへの演奏旅行の際、レパートリーに加え、1875年10月25日にボストンで世界初演、大成功を収めたのである。ロシア初演が行われたのは1週間後の11月1日。以後、チャイコフスキーの名は世界各国に広まった。
3年後にはニコライが謝罪、自身の演奏会で取り上げるようになった。多くの人は「ニコライ・ルビンシテイン」の名をこのエピソードで知り、「傑作を酷評した愚か者」「成功を収めると態度を変えた図々しい奴」という印象を抱くことだろう。ただ、これと同じようなことが数年後、ヴァイオリン協奏曲を書いた時にも起こる。初演者として想定していた大ヴァイオリニスト、レオポルト・アウアーに「演奏不可能」と拒絶されたのである。チャイコフスキーの書く協奏曲は、当時としてはよほど常識に反した怪作に見えたのだろう。あるいはロシアの一部の音楽家の間で「アンチ・チャイコフスキー」の風潮でもあったのだろうか。
作品の構成はユニークである。第1楽章冒頭の主題が活躍するのは序奏部にあたる最初の107小節までで、呈示部以降は一度も再現されることがないのだ。つまり、誰もが聴いたことのある「チャイコのPコン」は、第1楽章の序奏部にすぎないのである。通常、こういう主題は何度も再現されるものだが、チャイコフスキーはそれを切り捨てて顧みない。
とはいえ、呈示部に入ってからも魅力的なメロディーが尽きることはない。民謡をアレンジした第1主題やロマンティックな第2主題が劇的な発展を遂げてゆくプロセスは聴きごたえ十分。華々しい終結部は指揮者と独奏者の腕の見せどころである。続く第2楽章はのどかで叙情的。途中で軽快なテンポに切り替わるものの、最後は静かに終わる。第3楽章は躍動感に溢れ、エネルギッシュ。2つの主題を巧みに展開させ、やがて生命の讃歌を思わせる輝かしいコーダを迎える。ピアノとオーケストラ両方の魅力を汲み尽くした、なんとも贅沢な作品である。
名盤と呼ぶべき録音は多い。とくにこの作品でセンセーショナルなアメリカ・デビューを飾ったピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツの演奏は、鍵盤が壊れそうなほどバリバリ弾きまくっていて痛快である。
録音は数種類あり、かつてはトスカニーニが指揮を務めた1943年のライヴ録音が極めつきの名演として知られていた。しかしジョージ・セルと組んだ1953年1月のライヴ録音も、音質の良いプライヴェート盤が音源化されてからは、堂々と「名盤」の市民権を得ている。義父トスカニーニの前では遠慮気味だったホロヴィッツが、セルの前では本性を現し、自分のやりたいように弾いている。
ただ、ホロヴィッツが弾くチャイコのPコンで私が最も衝撃を受けたのは、1948年のライヴ盤である。指揮はブルーノ・ワルター。これは思わずのけ反ってしまうような壮絶な演奏。悪魔のような技巧が猛威をふるっている。「ピアノが火を噴く」とはまさにこういうことを言うのだろう。録音状態はお話にならないレベルだが、あまりの爆走ぶりに音質のことなど忘れてしまう。観客の熱狂ぶりも常軌を逸している。まあ、今こんな音質で聴いてもドキドキするのだから無理もないか。
モニク・ド・ラ・ブルショルリが1952年に吹き込んだ録音は隠れた名盤。ヴィルトゥオーゾとして知られたブルショルリだが、そのピアノは正確無比であることだけを志向した機械的なものではなく、むしろその逆。一音一音に熱い血が通っている。ここまでヒューマンな熱気を帯びた、エモーショナルなチャイコのPコンはそうそうない。
【関連サイト】
チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番(CD)
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番といえば、あらゆるピアノ協奏曲の中で最も有名な作品ではないだろうか。冒頭でホルンが奏でる主題を聴いたことがないという人はおそらく一人もいないはずだ。いかにもロシア的なスケールの大きさを感じさせる名旋律である。序奏部のクライマックスで、グランドピアノとオーケストラが一体化してこの旋律を奏でる時、つくづく「名曲」と思わずにいられない。この絢爛たる世界。ピアノ協奏曲の醍醐味を味わうのに、これ以上のサンプルはない。
しかし、この傑作が世に紹介されるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。チャイコフスキーが本格的に作曲に着手したのは1874年11月。当時、新進作曲家として注目されていたチャイコフスキーは、初のピアノ協奏曲をニコライ・ルビンシテインに初演してもらうつもりでいた。ニコライはロシアの大音楽家アントン・ルビンシテインの弟で、優れたピアニストとして知られ、モスクワ音楽院の初代校長を務めた人物である。だが、彼から下された批判はひどいものであった。絶対に演奏不可能、低俗、拙劣、盗作......。
プライドを傷つけられたチャイコフスキーは、それでも自分の作品への自信を失わず、ニコライから指示された修正を拒否、ドイツの高名な音楽家ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送ることにした。するとビューローは「驚嘆すべき素晴らしい作品」と絶賛。アメリカへの演奏旅行の際、レパートリーに加え、1875年10月25日にボストンで世界初演、大成功を収めたのである。ロシア初演が行われたのは1週間後の11月1日。以後、チャイコフスキーの名は世界各国に広まった。
3年後にはニコライが謝罪、自身の演奏会で取り上げるようになった。多くの人は「ニコライ・ルビンシテイン」の名をこのエピソードで知り、「傑作を酷評した愚か者」「成功を収めると態度を変えた図々しい奴」という印象を抱くことだろう。ただ、これと同じようなことが数年後、ヴァイオリン協奏曲を書いた時にも起こる。初演者として想定していた大ヴァイオリニスト、レオポルト・アウアーに「演奏不可能」と拒絶されたのである。チャイコフスキーの書く協奏曲は、当時としてはよほど常識に反した怪作に見えたのだろう。あるいはロシアの一部の音楽家の間で「アンチ・チャイコフスキー」の風潮でもあったのだろうか。
作品の構成はユニークである。第1楽章冒頭の主題が活躍するのは序奏部にあたる最初の107小節までで、呈示部以降は一度も再現されることがないのだ。つまり、誰もが聴いたことのある「チャイコのPコン」は、第1楽章の序奏部にすぎないのである。通常、こういう主題は何度も再現されるものだが、チャイコフスキーはそれを切り捨てて顧みない。
とはいえ、呈示部に入ってからも魅力的なメロディーが尽きることはない。民謡をアレンジした第1主題やロマンティックな第2主題が劇的な発展を遂げてゆくプロセスは聴きごたえ十分。華々しい終結部は指揮者と独奏者の腕の見せどころである。続く第2楽章はのどかで叙情的。途中で軽快なテンポに切り替わるものの、最後は静かに終わる。第3楽章は躍動感に溢れ、エネルギッシュ。2つの主題を巧みに展開させ、やがて生命の讃歌を思わせる輝かしいコーダを迎える。ピアノとオーケストラ両方の魅力を汲み尽くした、なんとも贅沢な作品である。
名盤と呼ぶべき録音は多い。とくにこの作品でセンセーショナルなアメリカ・デビューを飾ったピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツの演奏は、鍵盤が壊れそうなほどバリバリ弾きまくっていて痛快である。
録音は数種類あり、かつてはトスカニーニが指揮を務めた1943年のライヴ録音が極めつきの名演として知られていた。しかしジョージ・セルと組んだ1953年1月のライヴ録音も、音質の良いプライヴェート盤が音源化されてからは、堂々と「名盤」の市民権を得ている。義父トスカニーニの前では遠慮気味だったホロヴィッツが、セルの前では本性を現し、自分のやりたいように弾いている。
ただ、ホロヴィッツが弾くチャイコのPコンで私が最も衝撃を受けたのは、1948年のライヴ盤である。指揮はブルーノ・ワルター。これは思わずのけ反ってしまうような壮絶な演奏。悪魔のような技巧が猛威をふるっている。「ピアノが火を噴く」とはまさにこういうことを言うのだろう。録音状態はお話にならないレベルだが、あまりの爆走ぶりに音質のことなど忘れてしまう。観客の熱狂ぶりも常軌を逸している。まあ、今こんな音質で聴いてもドキドキするのだから無理もないか。
歴史的名盤ランキングで必ず上位に挙がるのは、リヒテル&カラヤン、ルービンシュタイン&ラインスドルフの録音。前者はカラヤン色がかなり強く、ここぞという時にオーケストラをたっぷりと歌わせるうまさはさすがである。後者のルービンシュタインは悠揚迫らぬピアニズムで、悪魔的な技巧の宴もなく、聴き手に緊張感を強いることもない。ホロヴィッツが弾いているのと同じ曲とは到底思えないが、これはこれでゆったりとした気分でメロディーを味わえるし、作品の全体像も掴みやすいので、お薦めである。
モニク・ド・ラ・ブルショルリが1952年に吹き込んだ録音は隠れた名盤。ヴィルトゥオーゾとして知られたブルショルリだが、そのピアノは正確無比であることだけを志向した機械的なものではなく、むしろその逆。一音一音に熱い血が通っている。ここまでヒューマンな熱気を帯びた、エモーショナルなチャイコのPコンはそうそうない。
(阿部十三)
【関連サイト】
チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番(CD)
ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキー
[1840.5.7-1893.11.6]
ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
ウラディミール・ホロヴィッツ(p)
ニューヨーク・フィルハーモニック
ブルーノ・ワルター指揮
録音:1948年4月11日
モニク・ド・ラ・ブルショルリ(p)
ウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団
ルドルフ・モラルト指揮
録音:1952年
[1840.5.7-1893.11.6]
ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
ウラディミール・ホロヴィッツ(p)
ニューヨーク・フィルハーモニック
ブルーノ・ワルター指揮
録音:1948年4月11日
モニク・ド・ラ・ブルショルリ(p)
ウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団
ルドルフ・モラルト指揮
録音:1952年
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