ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番「月光」
2011.07.17
湖の月光、波にゆらぐ小舟
ベートーヴェンの3大ピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」。この中で最も広く知られ、人気が高いのは「月光」だろう。元のタイトルは「幻想曲風ソナタ」だが、詩人のルートヴィヒ・レルシュタープがゆるやかでロマンティックなムードをたたえた第1楽章を「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評したことから、この愛称がついたとされている。
これを作曲した1801年はベートーヴェンにとって運命の年であった。まず、耳の疾患。数年前から兆候をみせていた難聴の症状が、この年になってみるみる悪化していったのである。新鋭作曲家として脚光を浴びていたまさにその時、音楽家としては致命的な病に侵され、彼は不安の真っただ中にあった。
さらに、同じ頃、ベートーヴェンは真剣な恋愛をしていた。相手はジュリエッタ・グィッチャルディ。前年からピアノの弟子となっていた17歳の伯爵令嬢である。難聴によって気難しくなっていたベートーヴェンは、ジュリエッタとの交際によって明るさを取り戻すことが出来た。友人への手紙でも「今度の変化は、1人の愛らしい魅惑的な乙女のおかげなのだ。彼女は僕を愛し、僕もまた彼女を愛している」とのろけている(結局、2人は身分の違いゆえに結婚できず、別れることになる)。
「月光」はそんな時期に書かれた。
この曲には盲目の少女にまつわるエピソードもある。夜、ベートーヴェンが散歩をしていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。ふと見ると、盲目の少女が自分の作品を弾いている。その姿に心打たれた彼は、少女のために即興でピアノを弾いてやった。その間、窓から月光がさし込み、ベートーヴェンと少女を照らしていた。演奏を終え、帰宅した彼は、早速先ほど弾いた曲をスコアに書き付けた。こうして生まれたのが「月光」である、という話。こちらは事実無根の俗説だが、そんな話でも信じたくなるような雰囲気がこの曲には確かにある。
好奇心をそそるエピソードに彩られ、大衆的な人気を博しているがゆえに、「月光」を通俗的な曲と言う人もいる。ただ、作品そのものは創造性に満ちており、「〈19世紀最初の年〉に書かれた〈ロマン派音楽〉」とでも言うべき大胆な構成と斬新な感情表現が発明されていることを見逃してはならない。
第1楽章は、誰もが知る幻想的で瞑想的なアダージョ。続く第2楽章は、リストが「2つの深淵の間に咲く一輪の花」と評した軽快なアレグレット。そして第3楽章で疾風怒濤のフィナーレを迎える。つまり、曲全体で大きなクレッシェンドを形成しているのだ。こういう構成で書かれたピアノ・ソナタはそれまで存在しなかった。また、感情表現の面でも、ベートーヴェンはここで極点に達している。この第3楽章ほど情熱を剥き出しにし、一心不乱にエネルギーをぶちまけたような音楽は、彼自身、ほとんど書いたことがなかったのだ。
ちなみに、「月光」はジュリエッタに献呈されている。こんなに美しく、烈しい曲を捧げられたら、どんな女性でもよろめいてしまうのではないだろうか。
録音は数多くあり、私自身、我ながら呆れるほどあれこれ聴いてきたが、意外に第1楽章で酔わせてくれる演奏が少ない。左右の指の動きが合わなかったり、逆に機械的で冷たすぎたり、恣意的なアクセントが気になったりして、音楽に総身を預けることが出来ないのである。
その点、アナトリー・ヴェデルニコフ盤は格調高く、なめらかな語り口を持っており、何もかも忘れて「月光」の世界に浸らせてくれる。ルドルフ・ゼルキン盤(旧盤の方)も良いのだが、音質が古い。これがもっとクリアーな音だったら、と惜しまれてならない。ベートーヴェン愛好家から異端視されているグレン・グールド盤は、ドライなように見せかけながら、実はロマンティックな心情を秘めた好演。天の邪鬼なところがこのピアニストらしい。
【関連サイト】
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番「月光」(CD)
ベートーヴェンの3大ピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」。この中で最も広く知られ、人気が高いのは「月光」だろう。元のタイトルは「幻想曲風ソナタ」だが、詩人のルートヴィヒ・レルシュタープがゆるやかでロマンティックなムードをたたえた第1楽章を「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評したことから、この愛称がついたとされている。
これを作曲した1801年はベートーヴェンにとって運命の年であった。まず、耳の疾患。数年前から兆候をみせていた難聴の症状が、この年になってみるみる悪化していったのである。新鋭作曲家として脚光を浴びていたまさにその時、音楽家としては致命的な病に侵され、彼は不安の真っただ中にあった。
さらに、同じ頃、ベートーヴェンは真剣な恋愛をしていた。相手はジュリエッタ・グィッチャルディ。前年からピアノの弟子となっていた17歳の伯爵令嬢である。難聴によって気難しくなっていたベートーヴェンは、ジュリエッタとの交際によって明るさを取り戻すことが出来た。友人への手紙でも「今度の変化は、1人の愛らしい魅惑的な乙女のおかげなのだ。彼女は僕を愛し、僕もまた彼女を愛している」とのろけている(結局、2人は身分の違いゆえに結婚できず、別れることになる)。
「月光」はそんな時期に書かれた。
この曲には盲目の少女にまつわるエピソードもある。夜、ベートーヴェンが散歩をしていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。ふと見ると、盲目の少女が自分の作品を弾いている。その姿に心打たれた彼は、少女のために即興でピアノを弾いてやった。その間、窓から月光がさし込み、ベートーヴェンと少女を照らしていた。演奏を終え、帰宅した彼は、早速先ほど弾いた曲をスコアに書き付けた。こうして生まれたのが「月光」である、という話。こちらは事実無根の俗説だが、そんな話でも信じたくなるような雰囲気がこの曲には確かにある。
好奇心をそそるエピソードに彩られ、大衆的な人気を博しているがゆえに、「月光」を通俗的な曲と言う人もいる。ただ、作品そのものは創造性に満ちており、「〈19世紀最初の年〉に書かれた〈ロマン派音楽〉」とでも言うべき大胆な構成と斬新な感情表現が発明されていることを見逃してはならない。
第1楽章は、誰もが知る幻想的で瞑想的なアダージョ。続く第2楽章は、リストが「2つの深淵の間に咲く一輪の花」と評した軽快なアレグレット。そして第3楽章で疾風怒濤のフィナーレを迎える。つまり、曲全体で大きなクレッシェンドを形成しているのだ。こういう構成で書かれたピアノ・ソナタはそれまで存在しなかった。また、感情表現の面でも、ベートーヴェンはここで極点に達している。この第3楽章ほど情熱を剥き出しにし、一心不乱にエネルギーをぶちまけたような音楽は、彼自身、ほとんど書いたことがなかったのだ。
ちなみに、「月光」はジュリエッタに献呈されている。こんなに美しく、烈しい曲を捧げられたら、どんな女性でもよろめいてしまうのではないだろうか。
録音は数多くあり、私自身、我ながら呆れるほどあれこれ聴いてきたが、意外に第1楽章で酔わせてくれる演奏が少ない。左右の指の動きが合わなかったり、逆に機械的で冷たすぎたり、恣意的なアクセントが気になったりして、音楽に総身を預けることが出来ないのである。
その点、アナトリー・ヴェデルニコフ盤は格調高く、なめらかな語り口を持っており、何もかも忘れて「月光」の世界に浸らせてくれる。ルドルフ・ゼルキン盤(旧盤の方)も良いのだが、音質が古い。これがもっとクリアーな音だったら、と惜しまれてならない。ベートーヴェン愛好家から異端視されているグレン・グールド盤は、ドライなように見せかけながら、実はロマンティックな心情を秘めた好演。天の邪鬼なところがこのピアニストらしい。
(阿部十三)
【関連サイト】
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番「月光」(CD)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
[1770.12.16-1827.3.26]
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調「月光」
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
アナトリー・ヴェデルニコフ(p)
録音:1974年
ルドルフ・ゼルキン(p)
録音:1941年
[1770.12.16-1827.3.26]
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調「月光」
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
アナトリー・ヴェデルニコフ(p)
録音:1974年
ルドルフ・ゼルキン(p)
録音:1941年
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