グリーグ ピアノ協奏曲
2011.09.01
遥かなる北欧の響き
『アルトゥール・ルービンシュタイン自伝 神に愛されたピアニスト』によると、ある食事会の席でセルゲイ・ラフマニノフは力を込めてこう言ったという。
「ピアノ協奏曲では、グリーグのものが最高だと思う」
これについてルービンシュタインは「いささか意外な意見だった」と書いているが、私は初めてこの文章を目にした時、我が意を得たりと思った。ラフマニノフがグリーグの作品を偏愛していたことはピアノ協奏曲第2番を聴いても明らかである。旋律はまぎれもなくラフマニノフのものだが、構成(特に第3楽章)にはグリーグのコンチェルトの影響が色濃く表れている。ただ、ラフマニノフが実際にグリーグのことをどう思っていたのか、その証言を見つけることが出来ずにいたので、思わぬところで影響関係の裏付けが取れたような気がした。
ノルウェイを代表する作曲家エドヴァルド・グリーグがピアノ協奏曲イ短調を書き上げたのは1868年のこと。6月に妻と娘を伴いデンマークを訪れ、コペンハーゲン郊外のソレレードに滞在し、夏の間に完成させた。初演は1869年4月3日にコペンハーゲンで行われ、大成功。ロシアの大ピアニスト、アントン・ルービンシュタイン(アルトゥール・ルービンシュタインとは無関係)やフランツ・リストにも絶賛され、グリーグの名は一躍音楽界に広まる。しかし、その一方で娘のアレクサンドラを病気で失うという悲劇にも見舞われた。
北欧の自然のように雄大なスケールと澄んだ美しさを持つこのコンチェルトは、導入から独特である。ティンパニのクレッシェンドに続いて、弦・管楽器とピアノが強奏で出現し、ピアノが力強いカデンツァを弾く。このわずか6小節で早くも聴き手は北欧の風景の中に誘い込まれるだろう。
第1楽章の聴き所は、後半、第176小節から始まるカデンツァ。種々の技巧が駆使され、氷山が眼前に迫ってくるような迫真のパノラマが展開される。ピアニストの腕の見せ所だ。第2楽章は夢見るような美しさに満ちたアダージョ。グリーグの持ち味である抒情的なメロディーにたっぷり浸ることが出来る。第3楽章の呈示部は軽快なリズムで始まるが、第140小節からの中間部で趣が一変し、フルートが幻想的なメロディーを奏でる。それをピアノが反復し、オーケストラと絡み合ってロマンティックなムードを醸成する。再現部ではまた元の軽快なリズムに戻るが、カデンツァを経て終結部に突入し、中間部のメロディーが華々しく奏でられて、絢爛たるフィナーレを迎える。いかにも大団円と呼ぶにふさわしいドラマティックな締め括りだ。
グリーグは若い頃にリカルド・ノルドラーク(ノルウェイ国歌の作曲家)の影響を受け、ノルウェイの国民音楽を確立すべく力を注いだ人として知られている。ただ、そういう知識がなくても、この音楽を聴いた人は、ひんやりと澄んだ空気や仰ぎ見るような切り立った氷壁を思い浮かべるのではないだろうか。まさに聴覚だけでなく、視覚、触覚にも訴える作品である。ラフマニノフのコンチェルトほど超絶技巧が要求されているわけではないが、その分ピアニスト自身の音楽的資質が問われ、その人次第で空疎に響く中身のない演奏にもなれば、自在なフレージングと華麗なピアニズムで魅了し、どのコンチェルトでも味わえないような満足感を与えてくれる演奏にもなる。
個人的に好きな作品ということもあり、今まで数えきれないほど聴いてきたが、中でも圧倒された演奏は、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリによる1965年6月のライヴ録音である。ミケランジェリは冒頭から躁状態で弾きまくり、そのまま最後までやり切っている。スタジオ録音の彼からは想像もつかないデモーニッシュな気迫だ。むろん、ただ勢い任せに弾いているわけでない。カデンツァでは計算されたフレージングで聴き手の注意をぐっと引きつけ、ゾッとするような暗色の美しさを滲ませる。思い入れの深い作品ほど期待値が高くなり、仰け反るような演奏にはなかなか出会えないものだが、これを聴いた時は文字通り仰け反った。
英国のピアニスト、サー・クリフォード・カーゾンによる1959年の録音も良い。いつ聴いても何度聴いても色褪せない名演である。カーゾンの透明感あふれるピアノの音と、ノルウェイ出身の指揮者フィエルスタードが作り出すアンサンブルの相性が抜群。カーゾンのピアニズムも魅力的だが、フィエルスタードのサポートがとにかく冴えている。
ほかにも、スヴャトスラフ・リヒテル盤やハンス・リヒター=ハーザー盤、あるいはディヌ・リパッティ盤などなど、聴きごたえのある演奏を挙げ始めたらキリがない。リパッティ盤で圧巻なのは第1楽章の長大なカデンツァ。あれは演奏家にデーモンが取り憑いた瞬間の記録である。ピアノの響きに何とも言えない重みがあり、それが地を這うようにして押し寄せてくる。ウォルター・レッグによる評伝の影響もあり、病人のイメージが先行しているリパッティだが、そういう先入観を軽く覆す迫力がある。第3楽章終結部のピアノも荘厳で感動的だ。
『アルトゥール・ルービンシュタイン自伝 神に愛されたピアニスト』によると、ある食事会の席でセルゲイ・ラフマニノフは力を込めてこう言ったという。
「ピアノ協奏曲では、グリーグのものが最高だと思う」
これについてルービンシュタインは「いささか意外な意見だった」と書いているが、私は初めてこの文章を目にした時、我が意を得たりと思った。ラフマニノフがグリーグの作品を偏愛していたことはピアノ協奏曲第2番を聴いても明らかである。旋律はまぎれもなくラフマニノフのものだが、構成(特に第3楽章)にはグリーグのコンチェルトの影響が色濃く表れている。ただ、ラフマニノフが実際にグリーグのことをどう思っていたのか、その証言を見つけることが出来ずにいたので、思わぬところで影響関係の裏付けが取れたような気がした。
ノルウェイを代表する作曲家エドヴァルド・グリーグがピアノ協奏曲イ短調を書き上げたのは1868年のこと。6月に妻と娘を伴いデンマークを訪れ、コペンハーゲン郊外のソレレードに滞在し、夏の間に完成させた。初演は1869年4月3日にコペンハーゲンで行われ、大成功。ロシアの大ピアニスト、アントン・ルービンシュタイン(アルトゥール・ルービンシュタインとは無関係)やフランツ・リストにも絶賛され、グリーグの名は一躍音楽界に広まる。しかし、その一方で娘のアレクサンドラを病気で失うという悲劇にも見舞われた。
北欧の自然のように雄大なスケールと澄んだ美しさを持つこのコンチェルトは、導入から独特である。ティンパニのクレッシェンドに続いて、弦・管楽器とピアノが強奏で出現し、ピアノが力強いカデンツァを弾く。このわずか6小節で早くも聴き手は北欧の風景の中に誘い込まれるだろう。
第1楽章の聴き所は、後半、第176小節から始まるカデンツァ。種々の技巧が駆使され、氷山が眼前に迫ってくるような迫真のパノラマが展開される。ピアニストの腕の見せ所だ。第2楽章は夢見るような美しさに満ちたアダージョ。グリーグの持ち味である抒情的なメロディーにたっぷり浸ることが出来る。第3楽章の呈示部は軽快なリズムで始まるが、第140小節からの中間部で趣が一変し、フルートが幻想的なメロディーを奏でる。それをピアノが反復し、オーケストラと絡み合ってロマンティックなムードを醸成する。再現部ではまた元の軽快なリズムに戻るが、カデンツァを経て終結部に突入し、中間部のメロディーが華々しく奏でられて、絢爛たるフィナーレを迎える。いかにも大団円と呼ぶにふさわしいドラマティックな締め括りだ。
グリーグは若い頃にリカルド・ノルドラーク(ノルウェイ国歌の作曲家)の影響を受け、ノルウェイの国民音楽を確立すべく力を注いだ人として知られている。ただ、そういう知識がなくても、この音楽を聴いた人は、ひんやりと澄んだ空気や仰ぎ見るような切り立った氷壁を思い浮かべるのではないだろうか。まさに聴覚だけでなく、視覚、触覚にも訴える作品である。ラフマニノフのコンチェルトほど超絶技巧が要求されているわけではないが、その分ピアニスト自身の音楽的資質が問われ、その人次第で空疎に響く中身のない演奏にもなれば、自在なフレージングと華麗なピアニズムで魅了し、どのコンチェルトでも味わえないような満足感を与えてくれる演奏にもなる。
個人的に好きな作品ということもあり、今まで数えきれないほど聴いてきたが、中でも圧倒された演奏は、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリによる1965年6月のライヴ録音である。ミケランジェリは冒頭から躁状態で弾きまくり、そのまま最後までやり切っている。スタジオ録音の彼からは想像もつかないデモーニッシュな気迫だ。むろん、ただ勢い任せに弾いているわけでない。カデンツァでは計算されたフレージングで聴き手の注意をぐっと引きつけ、ゾッとするような暗色の美しさを滲ませる。思い入れの深い作品ほど期待値が高くなり、仰け反るような演奏にはなかなか出会えないものだが、これを聴いた時は文字通り仰け反った。
英国のピアニスト、サー・クリフォード・カーゾンによる1959年の録音も良い。いつ聴いても何度聴いても色褪せない名演である。カーゾンの透明感あふれるピアノの音と、ノルウェイ出身の指揮者フィエルスタードが作り出すアンサンブルの相性が抜群。カーゾンのピアニズムも魅力的だが、フィエルスタードのサポートがとにかく冴えている。
ほかにも、スヴャトスラフ・リヒテル盤やハンス・リヒター=ハーザー盤、あるいはディヌ・リパッティ盤などなど、聴きごたえのある演奏を挙げ始めたらキリがない。リパッティ盤で圧巻なのは第1楽章の長大なカデンツァ。あれは演奏家にデーモンが取り憑いた瞬間の記録である。ピアノの響きに何とも言えない重みがあり、それが地を這うようにして押し寄せてくる。ウォルター・レッグによる評伝の影響もあり、病人のイメージが先行しているリパッティだが、そういう先入観を軽く覆す迫力がある。第3楽章終結部のピアノも荘厳で感動的だ。
最後に挙げておきたいのは、ヴィルヘルム・バックハウスによる1933年の録音。この大ピアニストのイメージを覆すほどロマンティックで、「鍵盤の獅子王」そのままの雄々しさと豪快なテクニックに惹かれる。サポートを務めるジョン・バルビローリの方も気合十分だ。
(阿部十三)
エドヴァルド・グリーグ
[1843.6.15-1907.9.4]
ピアノ協奏曲イ短調 作品16
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(p)
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ラファエル・フリューベック・デ・ブリュゴス指揮
録音:1965年6月17日(ライヴ)
ディヌ・リパッティ(p)
アルチェオ・ガリエラ指揮
フィルハーモニア管弦楽団
録音:1947年
サー・クリフォード・カーゾン(p)
ロンドン交響楽団
エイヴィン・フィエルスタード指揮
録音:1959年
[1843.6.15-1907.9.4]
ピアノ協奏曲イ短調 作品16
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(p)
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ラファエル・フリューベック・デ・ブリュゴス指揮
録音:1965年6月17日(ライヴ)
ディヌ・リパッティ(p)
アルチェオ・ガリエラ指揮
フィルハーモニア管弦楽団
録音:1947年
サー・クリフォード・カーゾン(p)
ロンドン交響楽団
エイヴィン・フィエルスタード指揮
録音:1959年
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