ブクステフーデ(チャベス編) シャコンヌ
2012.04.14
異国情緒漂う編曲版
アルンシュタットの教会オルガニストだった20歳のJ.S.バッハは、「自分の芸術に関係のある様々なことを学ぶために」4週間の休暇を得て、北ドイツのリューベックへ向かった。そこで老ブクステフーデの作品と演奏に感銘を受けたバッハは、無断で休暇を延長し、最終的に4ヶ月間も滞在していたという。この有名な逸話はバッハのプロフィールに必ず出てくるものだが、彼が憧れたブクステフーデに関してはあまり知られていない。
ブクステフーデとはどんな人物なのか。1637年にオルデスローで生まれたデンマーク人という説が有力視されているが、生年や生地を確定する決定的な資料はない。記録に残っている範囲で経歴を追うと、1658年頃、オルガニストだった父親がかつて勤めていたヘルシングボリの教会に就職。その後、1660年からヘルセンゲアの聖マリア教会に転職した。1668年4月11日にはリューベックの聖マリア教会のオルガンの主席奏者に任命される。これは前任者フランツ・トゥンダーの娘と結婚することが条件だったようだ。「前任者の娘との結婚」が後任におさまるための条件になる例は、当時珍しくなかった。就任後、ブクステフーデはアーベントムジークと呼ばれる教会演奏会を催し、そこで自作を披露して名声を獲得した。亡くなったのは、1707年5月9日。聖マリア教会に埋葬された。その私生活は謎に包まれたままで、肖像画も少ない。正確にいえば、それがブクステフーデの肖像なのかどうか、真贋の判定もなされていない。
ブクステフーデがアーベントムジークで演奏した作品の楽譜は残っていない。ただ、現在伝えられている作品からでも、ブクステフーデの才能をうかがい知ることはできる。130近く残されている声楽作品の中で代表作を挙げるなら、『我らがイエスの四肢』。オルガン作品の代表作は「パッサカリア ニ短調」、コラール前奏曲「天にまします我らの父よ」、コラール幻想曲「曙の明星のいと美わしきかな」、そして「シャコンヌ ホ短調」。いずれもブクステフーデが類稀なる旋律発想と和声の感覚の持ち主だったことを示す傑作である。
ブクステフーデの「シャコンヌ ホ短調」は神秘的な詩のような作品である。演奏時間にして5、6分程度の短さだが、仄暗い色彩の中で美しい旋律がドラマティックな起伏を描く。主題自体はシンプルなもので、それが巧みなオスティナート技法によって大胆に表情を変え、やがて劇的なクライマックスへと達する。オスティナートの制約の中で、オルガンの響きがこれだけ自由に、熱烈に迸る作品がそれまで存在しただろうか。その音の動きは、逃れられない宿命(オスティナート)の中で必死に生きる人間の尊い姿を描いているようにも感じられる。いわば、暗い情念が荘厳さへと昇華していく聖歌だ。
私がこの作品に興味を持ったのは社会人になってからのこと、編曲版を聴いたのがきっかけだった。それまではブクステフーデといえば『我らがイエスの四肢』しか聴いたことがなく、「シャコンヌ」は知らなかった。オーケストラ用に編曲したのは、メキシコの作曲家、カルロス・チャベス。この編曲版には、ワーグナー編曲によるグルックの『アウリスのイフィゲニア』序曲を初めて聴いた時と同じくらいの興奮を覚えた。
天才の産物である『アウリスのイフィゲニア』の濃密な編曲に比べると、チャベスの方はだいぶ親しみやすい。元々の美しさに異国情緒の香りが加わり、トランペットの扱いなどいかにもメキシコ風で、ペーソスすら感じさせる。ただ、決して原曲を損なってはいない。格調を保ったままオーケストラの骨太な響きへと置換した偉大な編曲である。演奏効果が高い点もオーケストラのレパートリーとして有効だし、ブクステフーデの知名度を高めることにも貢献している。事実、この編曲版を聴いたことで、ブクステフーデについて調べようと思った私のような人間もいるのだ。
チャベス自身がメキシコ国立交響楽団を指揮した演奏は、速めのテンポで、畳みかけるように突き進む。このレコード(輸入盤)にはチャベス自身の解説が載っているので、資料としても貴重である。ただ、今のところ最高の演奏は、2003年10月1日にエンリケ・バティスがメキシコ州立交響楽団を指揮したものだろう。ワルシャワで行われたライヴの録音である。これを聴いた後ではどの演奏も光彩と起伏に欠け、平板に聞こえてしまう。それくらいバティスの指揮は表情豊かで、歌心に溢れている。オーケストラの方もメロディーを味わいながら演奏している。それでいてベタつかず、格調を失っていない。バティスは2005年3月のパリ・ライヴでもこの曲を振っているが、こちらの演奏は彫りが浅く、おとなしい。ワルシャワ・ライヴの方がおすすめである。
オルガンによる原曲は、決定盤と呼べる録音が見当たらない。名高いマリー=クレール・アランの演奏をはじめ、いろいろ聴き比べてはみたが、大きなハズレもない代わりにその逆もなく、心から満足したことはない。
【関連サイト】
ブクステフーデ(チャベス編):シャコンヌ(CD)
アルンシュタットの教会オルガニストだった20歳のJ.S.バッハは、「自分の芸術に関係のある様々なことを学ぶために」4週間の休暇を得て、北ドイツのリューベックへ向かった。そこで老ブクステフーデの作品と演奏に感銘を受けたバッハは、無断で休暇を延長し、最終的に4ヶ月間も滞在していたという。この有名な逸話はバッハのプロフィールに必ず出てくるものだが、彼が憧れたブクステフーデに関してはあまり知られていない。
ブクステフーデとはどんな人物なのか。1637年にオルデスローで生まれたデンマーク人という説が有力視されているが、生年や生地を確定する決定的な資料はない。記録に残っている範囲で経歴を追うと、1658年頃、オルガニストだった父親がかつて勤めていたヘルシングボリの教会に就職。その後、1660年からヘルセンゲアの聖マリア教会に転職した。1668年4月11日にはリューベックの聖マリア教会のオルガンの主席奏者に任命される。これは前任者フランツ・トゥンダーの娘と結婚することが条件だったようだ。「前任者の娘との結婚」が後任におさまるための条件になる例は、当時珍しくなかった。就任後、ブクステフーデはアーベントムジークと呼ばれる教会演奏会を催し、そこで自作を披露して名声を獲得した。亡くなったのは、1707年5月9日。聖マリア教会に埋葬された。その私生活は謎に包まれたままで、肖像画も少ない。正確にいえば、それがブクステフーデの肖像なのかどうか、真贋の判定もなされていない。
ブクステフーデがアーベントムジークで演奏した作品の楽譜は残っていない。ただ、現在伝えられている作品からでも、ブクステフーデの才能をうかがい知ることはできる。130近く残されている声楽作品の中で代表作を挙げるなら、『我らがイエスの四肢』。オルガン作品の代表作は「パッサカリア ニ短調」、コラール前奏曲「天にまします我らの父よ」、コラール幻想曲「曙の明星のいと美わしきかな」、そして「シャコンヌ ホ短調」。いずれもブクステフーデが類稀なる旋律発想と和声の感覚の持ち主だったことを示す傑作である。
ブクステフーデの「シャコンヌ ホ短調」は神秘的な詩のような作品である。演奏時間にして5、6分程度の短さだが、仄暗い色彩の中で美しい旋律がドラマティックな起伏を描く。主題自体はシンプルなもので、それが巧みなオスティナート技法によって大胆に表情を変え、やがて劇的なクライマックスへと達する。オスティナートの制約の中で、オルガンの響きがこれだけ自由に、熱烈に迸る作品がそれまで存在しただろうか。その音の動きは、逃れられない宿命(オスティナート)の中で必死に生きる人間の尊い姿を描いているようにも感じられる。いわば、暗い情念が荘厳さへと昇華していく聖歌だ。
私がこの作品に興味を持ったのは社会人になってからのこと、編曲版を聴いたのがきっかけだった。それまではブクステフーデといえば『我らがイエスの四肢』しか聴いたことがなく、「シャコンヌ」は知らなかった。オーケストラ用に編曲したのは、メキシコの作曲家、カルロス・チャベス。この編曲版には、ワーグナー編曲によるグルックの『アウリスのイフィゲニア』序曲を初めて聴いた時と同じくらいの興奮を覚えた。
天才の産物である『アウリスのイフィゲニア』の濃密な編曲に比べると、チャベスの方はだいぶ親しみやすい。元々の美しさに異国情緒の香りが加わり、トランペットの扱いなどいかにもメキシコ風で、ペーソスすら感じさせる。ただ、決して原曲を損なってはいない。格調を保ったままオーケストラの骨太な響きへと置換した偉大な編曲である。演奏効果が高い点もオーケストラのレパートリーとして有効だし、ブクステフーデの知名度を高めることにも貢献している。事実、この編曲版を聴いたことで、ブクステフーデについて調べようと思った私のような人間もいるのだ。
チャベス自身がメキシコ国立交響楽団を指揮した演奏は、速めのテンポで、畳みかけるように突き進む。このレコード(輸入盤)にはチャベス自身の解説が載っているので、資料としても貴重である。ただ、今のところ最高の演奏は、2003年10月1日にエンリケ・バティスがメキシコ州立交響楽団を指揮したものだろう。ワルシャワで行われたライヴの録音である。これを聴いた後ではどの演奏も光彩と起伏に欠け、平板に聞こえてしまう。それくらいバティスの指揮は表情豊かで、歌心に溢れている。オーケストラの方もメロディーを味わいながら演奏している。それでいてベタつかず、格調を失っていない。バティスは2005年3月のパリ・ライヴでもこの曲を振っているが、こちらの演奏は彫りが浅く、おとなしい。ワルシャワ・ライヴの方がおすすめである。
オルガンによる原曲は、決定盤と呼べる録音が見当たらない。名高いマリー=クレール・アランの演奏をはじめ、いろいろ聴き比べてはみたが、大きなハズレもない代わりにその逆もなく、心から満足したことはない。
(阿部十三)
【関連サイト】
ブクステフーデ(チャベス編):シャコンヌ(CD)
ディートリヒ・ブクステフーデ(カルロス・チャベス編曲)
[1637頃-1707.5.9]
シャコンヌ ホ短調 BuxWV160
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
メキシコ州立交響楽団
エンリケ・バティス指揮
録音:2003年10月1日(ライヴ)
メキシコ国立交響楽団
カルロス・チャベス指揮
録音:1960年代
※LPのみ
[1637頃-1707.5.9]
シャコンヌ ホ短調 BuxWV160
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
メキシコ州立交響楽団
エンリケ・バティス指揮
録音:2003年10月1日(ライヴ)
メキシコ国立交響楽団
カルロス・チャベス指揮
録音:1960年代
※LPのみ
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