アーン 「クロリスに」
2012.11.11
シンプルで、愛おしい歌
先日、部屋の片付けをしていたら、2001年から2010年までに行ったコンサートのパンフレットが大量に出てきた。今は仕事の関係もあり、平日にコンサートに行くことはほとんど不可能な状態にあるが、かつては月に何度もホールへ足を運んだものである。パンフレットを整理していると、思い出に包まれ、懐かしい気持ちになる。
その中でひときわ皺くちゃになっていたモノクロの冊子を開いたら、パトリシア・プティボンの顔が出てきた。彼女が初来日した2008年4月、王子ホールでのリサイタルのものである。曲目を見た瞬間、自分でも驚くほど鮮明に記憶がよみがえってきた。
とにかく1曲目が素晴らしかった。聴いたことのない曲であったが、旋律のあまりの美しさに陶然としてしまい、ステージ上にいるプティボンが眼前に迫ってくるような親和力を感じた。感銘を受けた曲とそうでない曲の落差があるリサイタルだったが、終演後、「1曲目を聴けただけでも来た甲斐はあったな」と思ったものである。その曲がレイナルド・アーンの「クロリスに」だった。
レイナルド・アーンはベネズエラ生まれの作曲家。3歳の時パリに移住し、10歳でパリ音楽院に入学し、1888年に14歳で「わが歌に翼ありせば」を作曲した。早熟の天才である。音楽院ではマスネの寵愛を受け、その手引きによりパリの社交界で成功を収める。社交界ではクレオ・ド・メロード、サラ・ベルナール、マルセル・プルーストらと交流。プルーストとは友人以上の関係にあった。1912年にはフランス国籍を取得。後年は作曲を続けつつ(1935年の『ヴェニスの商人』はそれなりに注目を集めた)、音楽批評家としても活躍した。また、熱烈なモーツァルト崇拝者として知られ(『モーツァルト』というミュージカルまで書いているほどだ)、そのオペラを自ら指揮することもあった。1947年、脳腫瘍により逝去。
アーンの作品といえば、「わが歌に翼ありせば」(わたしの詩に翼があったなら)がダントツで有名である。ほかにもオペラ、付随音楽、協奏曲、器楽曲、室内楽、ミュージカルを手掛けたが、現在、演奏される機会はあまりないようだ。録音だと、オペレッタ『シブレット』やピアノのための53の詩「狂ったナイチンゲール」、2台のピアノによる作品集、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲などを聴くことが出来る。
マスネのように美しい旋律を紡ぎ出し、それを最も効果的に聴衆に向けて響かせる術を心得ていたアーン。そんな彼がこの上なく愛した楽器が「人間の声」である。美声に恵まれ、ピアノを弾きながら歌い、サロンの人気を集めていた彼にとって、歌曲とは作曲するものであるだけでなく、自ら歌うものでもあった。作り手として、また、歌い手としての観点から、歌声と詩をそれぞれの繊細な美質を損なうことなく理想的な様式によって組み合わせること、この点にアーンは使命感を持っていた。
「歌の本当の美しさは、歌声と語る声ーー簡単にいえばメロディーと語られる言葉ーーとの完璧な融合あるいは混合、つまりそれらの2つの神秘的な合金によってもたらされる」
「クロリスに」は、まさにこの言葉を霊妙な手際で実現させた曲である。
「わが歌に翼ありせば」も美しいが、「クロリスに」はそれ以上である。ピアノの伴奏はバロック的(というかバッハ的)な響きを持ち、やさしく静かで格調高い雰囲気に包まれながら、最愛の人への深い愛情が歌われる。始まりから終わりまでとてもシンプルで、作曲家の計算を感じさせない。出版は1916年ということなので(1910年、1913年という説もある)、当時アーンは42歳。10代の頃に委曲を尽くした歌曲を書くだけ書いた人が到達した境地とみていいだろう。
クロリス、君が僕を愛しているのが本当なら
(愛してくれているのはわかっているけれど)
たとえ王様でも僕ほどの
幸せは持ち合わせていないはず
死ぬなんてとんでもない
死が僕の運命を変えて
天国での喜びを与えるとしても!
人がアンブロシアについて語る何事も
僕の空想をかきたてはしない
君の瞳の魅力ほどには
詩は17世紀の天才詩人テオフィル・ド・ヴィオー作。アーンはこれに最良のメロディーを付けることに成功した。いや、成功させようという野心も意思もなく、詩に導かれるまま然るべきところに音符を置いていったような趣がある。ここには聴き手を煩わせる音は何もない。余計なものは削ぎ落とされている。そのシンプルさから愛おしさがこぼれ出てくる。こういう歌曲を聴くと、抗し難いものを感じ、心がやさしくなる。恋をしている人は恋人をそっと抱き寄せたくなり、恋をしていない人は恋の思い出に耽りたくなるだろう。
パトリシア・プティボンの歌は、音源では存在しないようである。あの来日コンサートの映像(後日テレビで放送されたらしい)がソフト化されれば良いのだが......。音源の中では、スーザン・グラハムの歌が傑出している。録音は1998年1月。陰翳を出しすぎることなく、媒介者として聴き手を詩の世界へと誘う名唱だ。ピアノの前奏から、もう鳥肌が立つほど美しい(伴奏はロジャー・ヴィニョーレス)。カナダ出身のマリー=ニコール・ルミューによる歌も、作品にふさわしい美感に支えられた良盤。発音に関してはグラハム以上に良い。
【関連サイト】
REYNALDO HAHN(CD)
先日、部屋の片付けをしていたら、2001年から2010年までに行ったコンサートのパンフレットが大量に出てきた。今は仕事の関係もあり、平日にコンサートに行くことはほとんど不可能な状態にあるが、かつては月に何度もホールへ足を運んだものである。パンフレットを整理していると、思い出に包まれ、懐かしい気持ちになる。
その中でひときわ皺くちゃになっていたモノクロの冊子を開いたら、パトリシア・プティボンの顔が出てきた。彼女が初来日した2008年4月、王子ホールでのリサイタルのものである。曲目を見た瞬間、自分でも驚くほど鮮明に記憶がよみがえってきた。
とにかく1曲目が素晴らしかった。聴いたことのない曲であったが、旋律のあまりの美しさに陶然としてしまい、ステージ上にいるプティボンが眼前に迫ってくるような親和力を感じた。感銘を受けた曲とそうでない曲の落差があるリサイタルだったが、終演後、「1曲目を聴けただけでも来た甲斐はあったな」と思ったものである。その曲がレイナルド・アーンの「クロリスに」だった。
レイナルド・アーンはベネズエラ生まれの作曲家。3歳の時パリに移住し、10歳でパリ音楽院に入学し、1888年に14歳で「わが歌に翼ありせば」を作曲した。早熟の天才である。音楽院ではマスネの寵愛を受け、その手引きによりパリの社交界で成功を収める。社交界ではクレオ・ド・メロード、サラ・ベルナール、マルセル・プルーストらと交流。プルーストとは友人以上の関係にあった。1912年にはフランス国籍を取得。後年は作曲を続けつつ(1935年の『ヴェニスの商人』はそれなりに注目を集めた)、音楽批評家としても活躍した。また、熱烈なモーツァルト崇拝者として知られ(『モーツァルト』というミュージカルまで書いているほどだ)、そのオペラを自ら指揮することもあった。1947年、脳腫瘍により逝去。
アーンの作品といえば、「わが歌に翼ありせば」(わたしの詩に翼があったなら)がダントツで有名である。ほかにもオペラ、付随音楽、協奏曲、器楽曲、室内楽、ミュージカルを手掛けたが、現在、演奏される機会はあまりないようだ。録音だと、オペレッタ『シブレット』やピアノのための53の詩「狂ったナイチンゲール」、2台のピアノによる作品集、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲などを聴くことが出来る。
マスネのように美しい旋律を紡ぎ出し、それを最も効果的に聴衆に向けて響かせる術を心得ていたアーン。そんな彼がこの上なく愛した楽器が「人間の声」である。美声に恵まれ、ピアノを弾きながら歌い、サロンの人気を集めていた彼にとって、歌曲とは作曲するものであるだけでなく、自ら歌うものでもあった。作り手として、また、歌い手としての観点から、歌声と詩をそれぞれの繊細な美質を損なうことなく理想的な様式によって組み合わせること、この点にアーンは使命感を持っていた。
「歌の本当の美しさは、歌声と語る声ーー簡単にいえばメロディーと語られる言葉ーーとの完璧な融合あるいは混合、つまりそれらの2つの神秘的な合金によってもたらされる」
「クロリスに」は、まさにこの言葉を霊妙な手際で実現させた曲である。
「わが歌に翼ありせば」も美しいが、「クロリスに」はそれ以上である。ピアノの伴奏はバロック的(というかバッハ的)な響きを持ち、やさしく静かで格調高い雰囲気に包まれながら、最愛の人への深い愛情が歌われる。始まりから終わりまでとてもシンプルで、作曲家の計算を感じさせない。出版は1916年ということなので(1910年、1913年という説もある)、当時アーンは42歳。10代の頃に委曲を尽くした歌曲を書くだけ書いた人が到達した境地とみていいだろう。
クロリス、君が僕を愛しているのが本当なら
(愛してくれているのはわかっているけれど)
たとえ王様でも僕ほどの
幸せは持ち合わせていないはず
死ぬなんてとんでもない
死が僕の運命を変えて
天国での喜びを与えるとしても!
人がアンブロシアについて語る何事も
僕の空想をかきたてはしない
君の瞳の魅力ほどには
詩は17世紀の天才詩人テオフィル・ド・ヴィオー作。アーンはこれに最良のメロディーを付けることに成功した。いや、成功させようという野心も意思もなく、詩に導かれるまま然るべきところに音符を置いていったような趣がある。ここには聴き手を煩わせる音は何もない。余計なものは削ぎ落とされている。そのシンプルさから愛おしさがこぼれ出てくる。こういう歌曲を聴くと、抗し難いものを感じ、心がやさしくなる。恋をしている人は恋人をそっと抱き寄せたくなり、恋をしていない人は恋の思い出に耽りたくなるだろう。
パトリシア・プティボンの歌は、音源では存在しないようである。あの来日コンサートの映像(後日テレビで放送されたらしい)がソフト化されれば良いのだが......。音源の中では、スーザン・グラハムの歌が傑出している。録音は1998年1月。陰翳を出しすぎることなく、媒介者として聴き手を詩の世界へと誘う名唱だ。ピアノの前奏から、もう鳥肌が立つほど美しい(伴奏はロジャー・ヴィニョーレス)。カナダ出身のマリー=ニコール・ルミューによる歌も、作品にふさわしい美感に支えられた良盤。発音に関してはグラハム以上に良い。
(阿部十三)
【関連サイト】
REYNALDO HAHN(CD)
レイナルド・アーン
[1874.8.9-1947.1.28]
「クロリスに」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
スーザン・グラハム
ロジャー・ヴィニョーレス(p)
録音:1998年1月
マリー=ニコール・ルミュー
ダニエル・ブルメンタール(p)
録音:2005年
[1874.8.9-1947.1.28]
「クロリスに」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
スーザン・グラハム
ロジャー・ヴィニョーレス(p)
録音:1998年1月
マリー=ニコール・ルミュー
ダニエル・ブルメンタール(p)
録音:2005年
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