ハイドン 交響曲第88番「V字」
2012.12.20
高度な簡潔さ
ハイドンの交響曲の中で、個人的に最も愛聴しているのは第88番ト長調「V字」である。有名な第94番ト長調「驚愕」、第100番ト長調「軍隊」、第101番ニ長調「時計」、第104番ニ長調「ロンドン」などもよく聴くが、「V字」にはハイドンの美質がきれいに無駄なく詰まっていて、聴きやすい。簡潔さの中に音楽的内容の充実度と自由度がある。非常に中毒性の高い作品だと思う。指揮者の力量や気性を知る上でも、これを聴くといろいろ参考になることがある。
スタンダールの処女作『ハイドン、モーツァルト、メタスタージオ伝』に、ハイドンの交響曲に言及した箇所がある(日本では『ハイドン伝』という題で、ハイドンに関する記述だけを抜粋した本が出ていた)。これはジュゼッペ・カルパーニの作品を剽窃したものなので、引用するのには相応しくないかもしれないが、示唆に富んだ言葉なので紹介しておく。「ハイドンの楽風の魔力はその基調たる自由さと歓喜にあると僕は思う。ハイドンの歓喜はまったく素直な自然な純粋な抑え切れない持続した心の高揚で、まずそのアレグロを支配している。これは荘重な部分にも認められるし、多くのアンダンテにもはっきり感じ取れる」(大岡昇平訳)ーーそうともいえない作品もいくつかあるが、少なくとも「V字」にはあてはまる言葉である。
作曲を依頼したのはエステルハージ家の管弦楽団のヴァイオリン奏者だったヨハン・ペーター・トスト。職を辞してパリに楽旅に行く際、演奏する作品が必要だったのである。ハイドンはその求めに応じ、2曲の交響曲(第88番、第89番)と6曲の弦楽四重奏曲(作品54と作品55)を書いた。第88番の自筆譜の草稿がないために、正確な作曲年は分からないが、第89番と同じ1787年だろうと推定されている。
「V字(Letter V)」という副題には意味はない。ロンドンのフォースター社がハイドンの交響曲の選曲集を出版する際、選出された23作品にA〜Wのアルファベットを付け、第88番に「V」が割り当てられた、というだけのことである。
第1楽章の序奏部は16小節からなるアダージョ。この後、アレグロに切り替わる。一つの楽想を巧みに展開させた構成で、卓越した和声法、ダイナミクスの対比が楽しめる。第2楽章は変奏曲形式。素朴さと穏やかさが心地よいラルゴである。突然ティンパニとトランペットが登場するのはご愛嬌。「驚愕」的な効果を狙ったのだろう。第3楽章は明るいメヌエット。トリオでは民族舞曲のような味わいが出ている。第4楽章はアレグロ・コン・スピーリト。第1楽章と同じく、一つの楽想を手際よくさばき、楽しげに起伏を描く。コーダも痛快である。軽快でありながらも、緊密で力強い構成感が印象に残る傑作である。
録音の種類は多い。しかもアルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ハンス・クナッパーツブッシュ、フリッツ・ブッシュ、クレメンス・クラウス、カール・ベームといった巨匠たちの録音を聴くことができる。ハイドンの交響曲を指揮して一流の人は、指揮者としても一流である、という話を聞いたことがあるが、そういう意味では、どれも一流である。クナッパーツブッシュのように恐ろしく遅いテンポでやっている人もいるが、こういう聴かせ方があってもいいと思う。ちなみに、私が一番最初に聴いた「V字」のレコードはブルーノ・ワルター盤。その時は全く良さが分からなかったが、今では、冒頭からその高雅な音の響きに打たれて、溜め息が出る。これこそがハイドンだといいたくなる。変われば変わるものだ。
吉田秀和は『世界の指揮者』の中で、「ハイドンだけをきかせて、現代人を心から満足させるのは容易ではない」と書き、その僅かな例外として、ジョージ・セルとフリッツ・ライナーの録音を挙げている。たしかにこの2人の指揮するハイドンは知的で、整っていて、美しい。とりわけライナーが指揮した「V字」の明晰度はショッキングですらある。私が「V字」を愛聴するようになったのも、そのライナー盤を聴いてからである。快刀乱麻を断つ、という表現がこれほど合う演奏もない。清新な響きに満ち、多声的構造をこちらが手に取れそうなほど浮き彫りにしている。アンサンブルにも贅肉がない。ただ、その解釈やアンサンブルを賞賛しつつも、「ハイドンの演奏はこうでなければならない」とまで断言するつもりはない。2人の録音を愛聴してきた私でも、「本当に自分はハイドンの音楽に感動しているのだろうか。指揮者のテクニックに感動しているのではないか」と考えさせられることがある。
最後に紹介しておきたいのは、若くして亡くなったグイド・カンテッリの「V字」。私が持っているのは1954年のライヴ音源。知的な掘り下げ方をしながらも、音楽の自然な流れ、快活さ、覇気を失わない名演奏だ。この作品が好きな人なら、一度聴いておく価値がある。きっと当時33歳のカンテッリの実力に舌を巻くことだろう。
【関連サイト】
ハイドン:交響曲第88番「V字」(CD)
ハイドンの交響曲の中で、個人的に最も愛聴しているのは第88番ト長調「V字」である。有名な第94番ト長調「驚愕」、第100番ト長調「軍隊」、第101番ニ長調「時計」、第104番ニ長調「ロンドン」などもよく聴くが、「V字」にはハイドンの美質がきれいに無駄なく詰まっていて、聴きやすい。簡潔さの中に音楽的内容の充実度と自由度がある。非常に中毒性の高い作品だと思う。指揮者の力量や気性を知る上でも、これを聴くといろいろ参考になることがある。
スタンダールの処女作『ハイドン、モーツァルト、メタスタージオ伝』に、ハイドンの交響曲に言及した箇所がある(日本では『ハイドン伝』という題で、ハイドンに関する記述だけを抜粋した本が出ていた)。これはジュゼッペ・カルパーニの作品を剽窃したものなので、引用するのには相応しくないかもしれないが、示唆に富んだ言葉なので紹介しておく。「ハイドンの楽風の魔力はその基調たる自由さと歓喜にあると僕は思う。ハイドンの歓喜はまったく素直な自然な純粋な抑え切れない持続した心の高揚で、まずそのアレグロを支配している。これは荘重な部分にも認められるし、多くのアンダンテにもはっきり感じ取れる」(大岡昇平訳)ーーそうともいえない作品もいくつかあるが、少なくとも「V字」にはあてはまる言葉である。
作曲を依頼したのはエステルハージ家の管弦楽団のヴァイオリン奏者だったヨハン・ペーター・トスト。職を辞してパリに楽旅に行く際、演奏する作品が必要だったのである。ハイドンはその求めに応じ、2曲の交響曲(第88番、第89番)と6曲の弦楽四重奏曲(作品54と作品55)を書いた。第88番の自筆譜の草稿がないために、正確な作曲年は分からないが、第89番と同じ1787年だろうと推定されている。
「V字(Letter V)」という副題には意味はない。ロンドンのフォースター社がハイドンの交響曲の選曲集を出版する際、選出された23作品にA〜Wのアルファベットを付け、第88番に「V」が割り当てられた、というだけのことである。
第1楽章の序奏部は16小節からなるアダージョ。この後、アレグロに切り替わる。一つの楽想を巧みに展開させた構成で、卓越した和声法、ダイナミクスの対比が楽しめる。第2楽章は変奏曲形式。素朴さと穏やかさが心地よいラルゴである。突然ティンパニとトランペットが登場するのはご愛嬌。「驚愕」的な効果を狙ったのだろう。第3楽章は明るいメヌエット。トリオでは民族舞曲のような味わいが出ている。第4楽章はアレグロ・コン・スピーリト。第1楽章と同じく、一つの楽想を手際よくさばき、楽しげに起伏を描く。コーダも痛快である。軽快でありながらも、緊密で力強い構成感が印象に残る傑作である。
録音の種類は多い。しかもアルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ハンス・クナッパーツブッシュ、フリッツ・ブッシュ、クレメンス・クラウス、カール・ベームといった巨匠たちの録音を聴くことができる。ハイドンの交響曲を指揮して一流の人は、指揮者としても一流である、という話を聞いたことがあるが、そういう意味では、どれも一流である。クナッパーツブッシュのように恐ろしく遅いテンポでやっている人もいるが、こういう聴かせ方があってもいいと思う。ちなみに、私が一番最初に聴いた「V字」のレコードはブルーノ・ワルター盤。その時は全く良さが分からなかったが、今では、冒頭からその高雅な音の響きに打たれて、溜め息が出る。これこそがハイドンだといいたくなる。変われば変わるものだ。
吉田秀和は『世界の指揮者』の中で、「ハイドンだけをきかせて、現代人を心から満足させるのは容易ではない」と書き、その僅かな例外として、ジョージ・セルとフリッツ・ライナーの録音を挙げている。たしかにこの2人の指揮するハイドンは知的で、整っていて、美しい。とりわけライナーが指揮した「V字」の明晰度はショッキングですらある。私が「V字」を愛聴するようになったのも、そのライナー盤を聴いてからである。快刀乱麻を断つ、という表現がこれほど合う演奏もない。清新な響きに満ち、多声的構造をこちらが手に取れそうなほど浮き彫りにしている。アンサンブルにも贅肉がない。ただ、その解釈やアンサンブルを賞賛しつつも、「ハイドンの演奏はこうでなければならない」とまで断言するつもりはない。2人の録音を愛聴してきた私でも、「本当に自分はハイドンの音楽に感動しているのだろうか。指揮者のテクニックに感動しているのではないか」と考えさせられることがある。
最後に紹介しておきたいのは、若くして亡くなったグイド・カンテッリの「V字」。私が持っているのは1954年のライヴ音源。知的な掘り下げ方をしながらも、音楽の自然な流れ、快活さ、覇気を失わない名演奏だ。この作品が好きな人なら、一度聴いておく価値がある。きっと当時33歳のカンテッリの実力に舌を巻くことだろう。
(阿部十三)
【関連サイト】
ハイドン:交響曲第88番「V字」(CD)
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
[1732.3.31-1809.5.31]
交響曲第88番 ト長調「V字」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
フリッツ・ライナー指揮
シカゴ交響楽団
録音:1960年
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団
録音:1961年
[1732.3.31-1809.5.31]
交響曲第88番 ト長調「V字」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
フリッツ・ライナー指揮
シカゴ交響楽団
録音:1960年
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団
録音:1961年
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