シューベルト ヴァイオリンとピアノのための幻想曲
2013.03.16
憧れはいつまでも
私にとってシューベルトは、憧れと諦めの感情を最も刺激する作曲家である。とりわけ死の年に書かれた作品を聴くと、もう手の届かない憧れに想いを馳せ、甘くて痛い喪失感の中にこの身を浸したくなる。その音楽は絶美だが、無菌質ではない。親しみと孤独が手を取り合った世界から生まれる美しさである。
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲は、シューベルトが晩年に書いた傑作であり、ピアノとヴァイオリンのための書かれた最も美しい作品のひとつである。偉大な作品が生まれる背景にすぐれた演奏家の存在がある例は珍しくないが、これも2人の演奏家と知り合ったことがきっかけで書かれたといわれる。一人はベートーヴェンと交際のあったピアニストであり、ヴァイオリニストでもあるカール・マリア・フォン・ボックレット。もう一人はショパンやパガニーニが賛辞を贈ったヴァイオリニスト、ヨーゼフ・スラヴィークである。
シューベルトがこの曲をヴァイオリン・ソナタとせず、「幻想曲」と名付けたのは、自由な構成と楽想の雰囲気を重んじ、形式の枠を取り外したかったからだろう。全体が途切れることなく演奏されるのも大きな特徴である。初演は、死の9ヶ月前、1828年2月7日に行われた。演奏したのはボックレットとスラヴィークである。が、かなり不評で、「常識外の長さ」と批判された。途中で出て行ってしまう人もいたという。この不世出の天才を取り巻いていた状況に対しては、ある種のもどかしさを感じるばかりである。
曲は大きく3つに分けることができる。便宜上、ここでは第1部、第2部、第3部と呼ぶことにする。
まず第1部はアンダンテ・モルト、ハ長調。ピアノのトレモロで始まり、そこにヴァイオリンが静かに浮かび、幻想的な雰囲気が醸し出される。その後、アレグレットになり、自由なソナタ形式をとりながら、情熱的な旋律とリズムが刻まれていく。
第2部はアンダンティーノ、変イ長調。ピアノが奏でる甘美な旋律は、1822年に作曲した歌曲「あいさつを」(詩はリュッケルト)から転用されたもので、これを主題にして4つの変奏が続く。歌曲も良いが、ヴァイオリンとピアノで演奏されても全く違和感はない。むしろロマンティックな美しさを増している。
第3部は再びアンダンテ・モルト、ハ長調。第1部冒頭を再現した後、徐々に熱を帯び、華やかなアレグロ・ヴィヴァーチェに突入する。この主題は、第2部に出てきた変奏曲の主題を変形させたものである。最後に変奏曲の主題が登場し、回想的な雰囲気になると、プレストに切りかわり、明るく力強いクライマックスを築き上げる。
人生は体験したことだけで構成されるわけではない。体験し得ない夢や空想も人生の一部である。そういう要素があることで、人生にうるおいやふくらみが生まれる。この作品を聴いていると、そんなことを考えたくなる。
諦めても諦めても湧いてくる憧れ、夢、空想。それが音符に滲んでいる。本心では、シューベルトはこの作品を終わらせたくないと思っていたのではないだろうか。最後のプレストを聴いていると、このままずっと書き続けていたいのだが、終わらせるならせめてこのように明るく締めくくりたいという決意のようなものを感じずにはいられない。
録音では、「女ティボー」ことミシェル・オークレールがヴァイオリンを弾き、ジュヌヴィエーヴ・ジョワがピアノを弾いたものが卓越している。オークレールのヴァイオリンの馥郁たる音色とフレージングがとにかく素晴らしい。シューベルトの感情の揺れや息づかいをそのまま音にしたような演奏だ。こういう演奏を聴きこんでしまうと、なかなかほかの演奏になじめなくなるから困りもの。ただ、シモン・ゴールドベルクの演奏は、素朴な美しさの中に枯れることのない憧れと憂いが感じられ、ラドゥ・ルプーの伴奏と共に愛聴している。
【関連サイト】
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(CD)
私にとってシューベルトは、憧れと諦めの感情を最も刺激する作曲家である。とりわけ死の年に書かれた作品を聴くと、もう手の届かない憧れに想いを馳せ、甘くて痛い喪失感の中にこの身を浸したくなる。その音楽は絶美だが、無菌質ではない。親しみと孤独が手を取り合った世界から生まれる美しさである。
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲は、シューベルトが晩年に書いた傑作であり、ピアノとヴァイオリンのための書かれた最も美しい作品のひとつである。偉大な作品が生まれる背景にすぐれた演奏家の存在がある例は珍しくないが、これも2人の演奏家と知り合ったことがきっかけで書かれたといわれる。一人はベートーヴェンと交際のあったピアニストであり、ヴァイオリニストでもあるカール・マリア・フォン・ボックレット。もう一人はショパンやパガニーニが賛辞を贈ったヴァイオリニスト、ヨーゼフ・スラヴィークである。
シューベルトがこの曲をヴァイオリン・ソナタとせず、「幻想曲」と名付けたのは、自由な構成と楽想の雰囲気を重んじ、形式の枠を取り外したかったからだろう。全体が途切れることなく演奏されるのも大きな特徴である。初演は、死の9ヶ月前、1828年2月7日に行われた。演奏したのはボックレットとスラヴィークである。が、かなり不評で、「常識外の長さ」と批判された。途中で出て行ってしまう人もいたという。この不世出の天才を取り巻いていた状況に対しては、ある種のもどかしさを感じるばかりである。
曲は大きく3つに分けることができる。便宜上、ここでは第1部、第2部、第3部と呼ぶことにする。
まず第1部はアンダンテ・モルト、ハ長調。ピアノのトレモロで始まり、そこにヴァイオリンが静かに浮かび、幻想的な雰囲気が醸し出される。その後、アレグレットになり、自由なソナタ形式をとりながら、情熱的な旋律とリズムが刻まれていく。
第2部はアンダンティーノ、変イ長調。ピアノが奏でる甘美な旋律は、1822年に作曲した歌曲「あいさつを」(詩はリュッケルト)から転用されたもので、これを主題にして4つの変奏が続く。歌曲も良いが、ヴァイオリンとピアノで演奏されても全く違和感はない。むしろロマンティックな美しさを増している。
第3部は再びアンダンテ・モルト、ハ長調。第1部冒頭を再現した後、徐々に熱を帯び、華やかなアレグロ・ヴィヴァーチェに突入する。この主題は、第2部に出てきた変奏曲の主題を変形させたものである。最後に変奏曲の主題が登場し、回想的な雰囲気になると、プレストに切りかわり、明るく力強いクライマックスを築き上げる。
人生は体験したことだけで構成されるわけではない。体験し得ない夢や空想も人生の一部である。そういう要素があることで、人生にうるおいやふくらみが生まれる。この作品を聴いていると、そんなことを考えたくなる。
諦めても諦めても湧いてくる憧れ、夢、空想。それが音符に滲んでいる。本心では、シューベルトはこの作品を終わらせたくないと思っていたのではないだろうか。最後のプレストを聴いていると、このままずっと書き続けていたいのだが、終わらせるならせめてこのように明るく締めくくりたいという決意のようなものを感じずにはいられない。
録音では、「女ティボー」ことミシェル・オークレールがヴァイオリンを弾き、ジュヌヴィエーヴ・ジョワがピアノを弾いたものが卓越している。オークレールのヴァイオリンの馥郁たる音色とフレージングがとにかく素晴らしい。シューベルトの感情の揺れや息づかいをそのまま音にしたような演奏だ。こういう演奏を聴きこんでしまうと、なかなかほかの演奏になじめなくなるから困りもの。ただ、シモン・ゴールドベルクの演奏は、素朴な美しさの中に枯れることのない憧れと憂いが感じられ、ラドゥ・ルプーの伴奏と共に愛聴している。
(阿部十三)
【関連サイト】
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(CD)
フランツ・シューベルト
[1797.1.31-1828.11.19]
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
ミシェル・オークレール(vn)
ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(p)
録音:1962年
シモン・ゴールドベルク(vn)
ラドゥ・ルプー(p)
録音:1979年
[1797.1.31-1828.11.19]
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
ミシェル・オークレール(vn)
ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(p)
録音:1962年
シモン・ゴールドベルク(vn)
ラドゥ・ルプー(p)
録音:1979年
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