ワーグナー 楽劇『トリスタンとイゾルデ』
2014.01.10
死へと向かう愛
リヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』は1857年10月から1859年8月にかけて作曲された。台本は、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの叙事詩(12世紀頃)から得たインスピレーションをもとに、ワーグナー自身が書き上げた。トリスタン伝説をオペラにする計画は元々ロベルト・シューマンが練っていたが実現せず、その弟子カール・リッターが戯曲を書き、リッターの友人だったワーグナーに刺激を与えたようである。
よく知られているように、ワーグナーはドレスデン革命に参加して指名手配され、1849年からスイスのチューリヒで亡命生活を送っていた。当地で富裕な商人オットー・ヴェーゼンドンクの援助を受けたワーグナーは、やがてヴェーゼンドンク夫人マティルデと親密な仲になる。2人の秘められた関係は、『トリスタンとイゾルデ』のみならず、『ヴェーゼンドンク歌曲集』や『ワルキューレ』の第一幕を生む芸術的土壌になった。実際にどういう関係だったのかは、遺された日記や書簡から推察するほかない。
『トリスタンとイゾルデ』完成当時、ワーグナーは46歳になっていた。この作品は彼自身にとっても驚異であったようで、己の能力に畏怖を感じていた様子が書簡等から窺える。1860年のマティルデ宛の手紙にも「『トリスタン』はいまだに私には奇蹟です! これほどのものが作れたのが不思議に思えてくる一方です」という記述がある。
第1幕の舞台は、アイルランドからコーンウォールへ向かう船上である。船の指揮を執っているのはトリスタン。コーンウォールのマルケ王の甥である。彼はマルケ王と結婚するアイルランドの王女イゾルデを船に乗せている。しかしイゾルデの方は、自分が貢ぎ物にされているような屈辱感を抱いている。
以前、トリスタンはイゾルデの許婚モロルトを殺害し、その際自分が負った傷を医術に長けたイゾルデに治してもらったことがある。手負いのトリスタンを前にして、イゾルデが許婚の仇を討たなかったのは、彼に惹かれてしまったからだ。にもかかわらず、その男が今、老いた王のもとに結婚相手として自分を送り届けようとしている。
屈辱に堪えられなくなったイゾルデは、コーンウォールに着く前にトリスタンを殺害し、自分も死のうと考える。そこでトリスタンを呼びつけ、侍女ブランゲーネに毒薬を用意させる。が、毒薬を飲んだはずの2人は、互いに抑えていた愛の炎を燃え上がらせて抱擁し合う。ブランゲーネが飲ませたのは毒薬ではなく、愛の秘薬だったのである。
第2幕の舞台は、イゾルデの部屋の前にある庭園。マルケ王が狩猟に出かけた夜、イゾルデはトリスタンが来るのを待っている。ブランゲーネは、2人の仲を疑っている家臣メロートが謀略を仕掛けてくるのではないかと忠告するが、イゾルデは耳を貸そうとしない。
間もなくトリスタンが現れ、有名な愛の二重唱が歌われる。そこへトリスタンの家来クルヴェナールが「お逃げなさい」と叫びながら飛び込んでくる。メロートの密告を受けたマルケ王が家来たちを連れてやってきたのだ。マルケ王は甥に対する失望と絶望を述べるが、トリスタンには弁解する気がない。怒ったメロートは剣を抜くが、トリスタンはわざと自分の剣を落とし、メロートの刃を受ける。
第3幕の舞台は、ブルターニュにあるトリスタンの城の庭。薬を持って船で駆けつけるはずのイゾルデを待ちながら、クルヴェナールが瀕死のトリスタンの看病をしている。と、トリスタンが目を開ける。彼の意識は、半ば譫妄状態にあり熱を帯びている。
イゾルデの船が見え、トリスタンとクルヴェナールは歓喜する。しかしイゾルデとの再会を果たすと同時に、トリスタンは力尽きる。その後、マルケ王、メロート、ブランゲーネたちがやって来る。ブランゲーネから愛の秘薬の経緯を聞かされたマルケ王は、トリスタンのことを許そうとしていた。しかし、時すでに遅しである。怒りに燃えるクルヴェナールはメロートを殺害し、自害する。マルケ王の嘆きは止まらない。ブランゲーネはイゾルデに呼びかけるが、もはやイゾルデには誰の声も聞こえない。彼女はトリスタンの幻影を見つめ、愛の波に包まれながら、浄化されるように息を引き取り、トリスタンの上に倒れかかる。
この偉大な作品が切り開いた音楽的地平はかなり広大だが、主な特徴としては、ライトモティーフの使用、無限旋律の使用、半音階とエンハーモニックの多用、頭韻と脚韻の併用を挙げることが出来る。前奏曲冒頭の「トリスタン和音」は無調音楽への扉を開いた、ともいわれている。ただ、最も大事なことは、これらが私たち人間の「愛」と「死」を表現するために用いられている点にある。そして、その試みは完全な形で成功した。
昔、友人から『トリスタンとイゾルデ』に嵌ったらワーグナーの世界から逃れることは出来ない、といわれたことがある。その時は「何を大袈裟な」と思ったものだが、数ヶ月後、彼のいった通りになってしまった。一時期は毎日のように(時間が無い時は第2幕だけでも)聴いていたものである。
ライヴ音源を含めると録音の種類は沢山あるが、私がお薦めしたいのは3種類、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮、バイエルン国立歌劇場管による1950年のライヴ録音、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、フィルハーモニア管による1952年の録音、カルロス・クライバー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによる1980〜1982年の録音だ。
最も有名なのはフルトヴェングラー盤。別格の扱いを受けている演奏である。それも納得の内容で、無限旋律がオーラのように聴き手を包み込む。キルステン・フラグスタートの気高い名唱にもじっくり耳を傾けたい。
クナッパーツブッシュ盤は、音楽の流れが自然で、巧みな棒さばきで歌手を牽引する。誇張的な表現はないが、それでいて全く物足りなさを感じさせない。私にとっては、あっという間に吸い込まれて聴き終えてしまう演奏である。
クライバー盤は、細部を徹底して磨き、一音一音を鮮烈に響かせる画期的な演奏で、初めて『トリスタンとイゾルデ』を聴く人でも作品全体の構造が掴みやすい。
ほかに、1952年にバイロイト音楽祭で上演されたヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、バイロイト祝祭管によるライヴの音源も、美しく雄弁な演奏である。マルタ・メードルのイゾルデも艶があり、大変魅力的だ。
【関連サイト】
RICHARD WAGNER『TRISTAN UND ISOLDE』(CD)
リヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』は1857年10月から1859年8月にかけて作曲された。台本は、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの叙事詩(12世紀頃)から得たインスピレーションをもとに、ワーグナー自身が書き上げた。トリスタン伝説をオペラにする計画は元々ロベルト・シューマンが練っていたが実現せず、その弟子カール・リッターが戯曲を書き、リッターの友人だったワーグナーに刺激を与えたようである。
よく知られているように、ワーグナーはドレスデン革命に参加して指名手配され、1849年からスイスのチューリヒで亡命生活を送っていた。当地で富裕な商人オットー・ヴェーゼンドンクの援助を受けたワーグナーは、やがてヴェーゼンドンク夫人マティルデと親密な仲になる。2人の秘められた関係は、『トリスタンとイゾルデ』のみならず、『ヴェーゼンドンク歌曲集』や『ワルキューレ』の第一幕を生む芸術的土壌になった。実際にどういう関係だったのかは、遺された日記や書簡から推察するほかない。
『トリスタンとイゾルデ』完成当時、ワーグナーは46歳になっていた。この作品は彼自身にとっても驚異であったようで、己の能力に畏怖を感じていた様子が書簡等から窺える。1860年のマティルデ宛の手紙にも「『トリスタン』はいまだに私には奇蹟です! これほどのものが作れたのが不思議に思えてくる一方です」という記述がある。
第1幕の舞台は、アイルランドからコーンウォールへ向かう船上である。船の指揮を執っているのはトリスタン。コーンウォールのマルケ王の甥である。彼はマルケ王と結婚するアイルランドの王女イゾルデを船に乗せている。しかしイゾルデの方は、自分が貢ぎ物にされているような屈辱感を抱いている。
以前、トリスタンはイゾルデの許婚モロルトを殺害し、その際自分が負った傷を医術に長けたイゾルデに治してもらったことがある。手負いのトリスタンを前にして、イゾルデが許婚の仇を討たなかったのは、彼に惹かれてしまったからだ。にもかかわらず、その男が今、老いた王のもとに結婚相手として自分を送り届けようとしている。
屈辱に堪えられなくなったイゾルデは、コーンウォールに着く前にトリスタンを殺害し、自分も死のうと考える。そこでトリスタンを呼びつけ、侍女ブランゲーネに毒薬を用意させる。が、毒薬を飲んだはずの2人は、互いに抑えていた愛の炎を燃え上がらせて抱擁し合う。ブランゲーネが飲ませたのは毒薬ではなく、愛の秘薬だったのである。
第2幕の舞台は、イゾルデの部屋の前にある庭園。マルケ王が狩猟に出かけた夜、イゾルデはトリスタンが来るのを待っている。ブランゲーネは、2人の仲を疑っている家臣メロートが謀略を仕掛けてくるのではないかと忠告するが、イゾルデは耳を貸そうとしない。
間もなくトリスタンが現れ、有名な愛の二重唱が歌われる。そこへトリスタンの家来クルヴェナールが「お逃げなさい」と叫びながら飛び込んでくる。メロートの密告を受けたマルケ王が家来たちを連れてやってきたのだ。マルケ王は甥に対する失望と絶望を述べるが、トリスタンには弁解する気がない。怒ったメロートは剣を抜くが、トリスタンはわざと自分の剣を落とし、メロートの刃を受ける。
第3幕の舞台は、ブルターニュにあるトリスタンの城の庭。薬を持って船で駆けつけるはずのイゾルデを待ちながら、クルヴェナールが瀕死のトリスタンの看病をしている。と、トリスタンが目を開ける。彼の意識は、半ば譫妄状態にあり熱を帯びている。
イゾルデの船が見え、トリスタンとクルヴェナールは歓喜する。しかしイゾルデとの再会を果たすと同時に、トリスタンは力尽きる。その後、マルケ王、メロート、ブランゲーネたちがやって来る。ブランゲーネから愛の秘薬の経緯を聞かされたマルケ王は、トリスタンのことを許そうとしていた。しかし、時すでに遅しである。怒りに燃えるクルヴェナールはメロートを殺害し、自害する。マルケ王の嘆きは止まらない。ブランゲーネはイゾルデに呼びかけるが、もはやイゾルデには誰の声も聞こえない。彼女はトリスタンの幻影を見つめ、愛の波に包まれながら、浄化されるように息を引き取り、トリスタンの上に倒れかかる。
この偉大な作品が切り開いた音楽的地平はかなり広大だが、主な特徴としては、ライトモティーフの使用、無限旋律の使用、半音階とエンハーモニックの多用、頭韻と脚韻の併用を挙げることが出来る。前奏曲冒頭の「トリスタン和音」は無調音楽への扉を開いた、ともいわれている。ただ、最も大事なことは、これらが私たち人間の「愛」と「死」を表現するために用いられている点にある。そして、その試みは完全な形で成功した。
昔、友人から『トリスタンとイゾルデ』に嵌ったらワーグナーの世界から逃れることは出来ない、といわれたことがある。その時は「何を大袈裟な」と思ったものだが、数ヶ月後、彼のいった通りになってしまった。一時期は毎日のように(時間が無い時は第2幕だけでも)聴いていたものである。
ライヴ音源を含めると録音の種類は沢山あるが、私がお薦めしたいのは3種類、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮、バイエルン国立歌劇場管による1950年のライヴ録音、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、フィルハーモニア管による1952年の録音、カルロス・クライバー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによる1980〜1982年の録音だ。
最も有名なのはフルトヴェングラー盤。別格の扱いを受けている演奏である。それも納得の内容で、無限旋律がオーラのように聴き手を包み込む。キルステン・フラグスタートの気高い名唱にもじっくり耳を傾けたい。
クナッパーツブッシュ盤は、音楽の流れが自然で、巧みな棒さばきで歌手を牽引する。誇張的な表現はないが、それでいて全く物足りなさを感じさせない。私にとっては、あっという間に吸い込まれて聴き終えてしまう演奏である。
クライバー盤は、細部を徹底して磨き、一音一音を鮮烈に響かせる画期的な演奏で、初めて『トリスタンとイゾルデ』を聴く人でも作品全体の構造が掴みやすい。
ほかに、1952年にバイロイト音楽祭で上演されたヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、バイロイト祝祭管によるライヴの音源も、美しく雄弁な演奏である。マルタ・メードルのイゾルデも艶があり、大変魅力的だ。
(阿部十三)
【関連サイト】
RICHARD WAGNER『TRISTAN UND ISOLDE』(CD)
リヒャルト・ワーグナー
[1813.5.22-1883.2.13]
楽劇『トリスタンとイゾルデ』
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
キルステン・フラグスタート、ルートヴィヒ・ズートハウス、
ヨーゼフ・グラインドル、ブランシュ・シーボム他
フィルハーモニア管弦楽団
録音:1952年
カルロス・クライバー指揮
マーガレット・プライス、ルネ・コロ、
クルト・モル、ブリギッテ・ファスベンダー他
シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1980年〜1982年
[1813.5.22-1883.2.13]
楽劇『トリスタンとイゾルデ』
【お薦めディスク】(掲載CDジャケット:上から)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
キルステン・フラグスタート、ルートヴィヒ・ズートハウス、
ヨーゼフ・グラインドル、ブランシュ・シーボム他
フィルハーモニア管弦楽団
録音:1952年
カルロス・クライバー指揮
マーガレット・プライス、ルネ・コロ、
クルト・モル、ブリギッテ・ファスベンダー他
シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1980年〜1982年
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