ベートーヴェン 交響曲第5番
2015.08.13
完全無欠
ベートーヴェンの交響曲第5番は、1804年から1808年の間に作曲された。キンスキー=ハルムの作品目録によると、交響曲第3番「英雄」完成後に着手したが、交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリン協奏曲などの創作のため中断、1807年に再び取りかかり、1808年の早い時期に書き上げたという。作曲に費やした時間が実質的にどれくらいなのかは不明だが、頭の中で構想が熟し、練りに練られた緊密な構成を獲得するまでには、結果的にそれだけの年月が必要だったのである。
「運命」の異名はベートーヴェン自身が付けたものではなく、彼が冒頭の動機について「運命はこのように扉を叩く」と語ったというエピソードに由来している。弟子のシンドラーが伝えたものなので、いささか眉唾ではあるが、日本ではこの呼び方で親しまれている。もっとも、日本ほどではないが、ドイツでも「運命交響曲」と呼ばれることがある。
「苦悩から歓喜へ」や「闘争から勝利へ」というドラマ的な流れを持つタイプの交響曲は、ここから明確に始まったと言ってよい。冒頭の動機はマンハイム楽派のヨハン・シュターミッツの作品4の3に似ているが、「運命」の第1楽章ほど緊張感がはりつめていて、無駄な音が一切なく、婉曲的な表現もなく、主題がむき出しのまま突進し、容赦なく畳み掛ける展開は、当時としては革新的だった。いや、当時に限らず、今日初めて聴く人にとっても十分新鮮なはずだ。1808年12月22日に行われた初演は、オーケストラの練習不足のため失敗に終わったようだが、観客側にも衝撃や戸惑いがあったことが想像される。
この楽章の精妙な構成は、どこかモーツァルトの交響曲第40番の第1楽章を思わせるところがある。第40番はト短調だが、ハ短調もこの先輩作曲家が好んでいた調性だ。ベートーヴェンがどこまで意識していたかは分からないが、モーツァルトからの影響を踏まえた上で、自分なりにそれを深化させ、より直接的な表現を以て新たな音楽の在り方を世に問おうとした可能性はある。
第2楽章は穏やかに始まり、すぐに高潮して管楽器が高らかに鳴り響く。流れるような弦の動きと木管の優美な音色に魅せられるが、金管やティンパニが何度もドラマティックな起伏を形成するため、緊張感が弛緩することはない。第3楽章では強奏で「運命の動機」の変型が示される。そしてベルリオーズが「象のダンス」と評したせわしないトリオの後、「運命の動機」が静かに奏でられ、神秘的なブリッジを経て、切れ目なしに第4楽章に突入する。勇壮で輝かしい世界だが、戦いはまだ終わっていない。展開部後半で第3楽章が回想された後、再度凄まじい高潮をみせ、今度は迷いなくフィナーレへと突き進み、これ以上望むべくもない力強さを以て全曲がしめくくられる。
完全無欠とは、この作品のためにあるような言葉だ。ここには足すべきものも引くべきものもない。完璧な形で完結している。そして、全ての旋律が曖昧なニュアンスの世界から脱し、聴き手に向かって直に訴えてくる。
録音は無数に存在するが、私が最高の演奏だと思っているのは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが1947年5月27日にベルリン・フィルを指揮したときのライヴ録音である。戦後、楽壇に復帰したフルトヴェングラーが、音楽家としての自分の存在をかけて、そして、この世界に自分の手で音楽を響かせることへの情熱のすべてをかけて指揮した一夜の記録である。思い入れの強さ、深さが尋常ではない。正確には復帰2日目の演奏だが、1日目(こちらの録音も遺っている)より充実度が増している。私がこれを聴くのは年に1、2回。どうしようもなく落ち込んだとき、必ずこの演奏と対峙する。これまでに何度も救われたし、これからも聴き続けるだろう。しばしばこの冒頭部分だけを取り上げて「大げさ」と評する人がいるが、ずいぶん失礼な話だ。
むろん、ほかにもこの作品が持つ魅力を堪能させる演奏はある。私が挙げておきたいのは4種類だ。まずはジョージ・セル。1955年にクリーヴランド管を指揮した録音は、鋭さと重みの両方を兼ね備えており、一点の曇りもない。針の先のような音の集中度で、聴く者の耳を貫く。セルには1969年にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振ったライヴ録音もあり、第1楽章は神がかっているが、総合的には手兵クリーヴランド管の演奏の方が至芸と呼ぶに相応しい。
ベートーヴェンの交響曲第5番は、1804年から1808年の間に作曲された。キンスキー=ハルムの作品目録によると、交響曲第3番「英雄」完成後に着手したが、交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリン協奏曲などの創作のため中断、1807年に再び取りかかり、1808年の早い時期に書き上げたという。作曲に費やした時間が実質的にどれくらいなのかは不明だが、頭の中で構想が熟し、練りに練られた緊密な構成を獲得するまでには、結果的にそれだけの年月が必要だったのである。
「運命」の異名はベートーヴェン自身が付けたものではなく、彼が冒頭の動機について「運命はこのように扉を叩く」と語ったというエピソードに由来している。弟子のシンドラーが伝えたものなので、いささか眉唾ではあるが、日本ではこの呼び方で親しまれている。もっとも、日本ほどではないが、ドイツでも「運命交響曲」と呼ばれることがある。
「苦悩から歓喜へ」や「闘争から勝利へ」というドラマ的な流れを持つタイプの交響曲は、ここから明確に始まったと言ってよい。冒頭の動機はマンハイム楽派のヨハン・シュターミッツの作品4の3に似ているが、「運命」の第1楽章ほど緊張感がはりつめていて、無駄な音が一切なく、婉曲的な表現もなく、主題がむき出しのまま突進し、容赦なく畳み掛ける展開は、当時としては革新的だった。いや、当時に限らず、今日初めて聴く人にとっても十分新鮮なはずだ。1808年12月22日に行われた初演は、オーケストラの練習不足のため失敗に終わったようだが、観客側にも衝撃や戸惑いがあったことが想像される。
この楽章の精妙な構成は、どこかモーツァルトの交響曲第40番の第1楽章を思わせるところがある。第40番はト短調だが、ハ短調もこの先輩作曲家が好んでいた調性だ。ベートーヴェンがどこまで意識していたかは分からないが、モーツァルトからの影響を踏まえた上で、自分なりにそれを深化させ、より直接的な表現を以て新たな音楽の在り方を世に問おうとした可能性はある。
第2楽章は穏やかに始まり、すぐに高潮して管楽器が高らかに鳴り響く。流れるような弦の動きと木管の優美な音色に魅せられるが、金管やティンパニが何度もドラマティックな起伏を形成するため、緊張感が弛緩することはない。第3楽章では強奏で「運命の動機」の変型が示される。そしてベルリオーズが「象のダンス」と評したせわしないトリオの後、「運命の動機」が静かに奏でられ、神秘的なブリッジを経て、切れ目なしに第4楽章に突入する。勇壮で輝かしい世界だが、戦いはまだ終わっていない。展開部後半で第3楽章が回想された後、再度凄まじい高潮をみせ、今度は迷いなくフィナーレへと突き進み、これ以上望むべくもない力強さを以て全曲がしめくくられる。
完全無欠とは、この作品のためにあるような言葉だ。ここには足すべきものも引くべきものもない。完璧な形で完結している。そして、全ての旋律が曖昧なニュアンスの世界から脱し、聴き手に向かって直に訴えてくる。
録音は無数に存在するが、私が最高の演奏だと思っているのは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが1947年5月27日にベルリン・フィルを指揮したときのライヴ録音である。戦後、楽壇に復帰したフルトヴェングラーが、音楽家としての自分の存在をかけて、そして、この世界に自分の手で音楽を響かせることへの情熱のすべてをかけて指揮した一夜の記録である。思い入れの強さ、深さが尋常ではない。正確には復帰2日目の演奏だが、1日目(こちらの録音も遺っている)より充実度が増している。私がこれを聴くのは年に1、2回。どうしようもなく落ち込んだとき、必ずこの演奏と対峙する。これまでに何度も救われたし、これからも聴き続けるだろう。しばしばこの冒頭部分だけを取り上げて「大げさ」と評する人がいるが、ずいぶん失礼な話だ。
むろん、ほかにもこの作品が持つ魅力を堪能させる演奏はある。私が挙げておきたいのは4種類だ。まずはジョージ・セル。1955年にクリーヴランド管を指揮した録音は、鋭さと重みの両方を兼ね備えており、一点の曇りもない。針の先のような音の集中度で、聴く者の耳を貫く。セルには1969年にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振ったライヴ録音もあり、第1楽章は神がかっているが、総合的には手兵クリーヴランド管の演奏の方が至芸と呼ぶに相応しい。
オットー・クレンペラーが1965年にバイエルン放送響を指揮したライヴ録音は、規格外のスケールを持った演奏で、第3楽章と第4楽章のブリッジでは音楽的神秘の深みを体感させる。ピエール・ブーレーズが1968年にニュー・フィルハーモニア管を指揮した録音は、熱を持った岩壁のようなアンサンブルで、堅牢でありながら極めて細かい音響効果にまで神経が行き届いている。第3楽章の反復には賛否あるが、何かと発見の尽きない演奏だ。カルロ・マリア・ジュリーニが1981年にロサンゼルス・フィルを指揮した録音は、揺るぎない構築力と潤いのあるカンタービレで一つ一つの旋律を大事に扱っており、深甚たる美の世界に聴き手を誘う。さらに番外編としてもう1種、フランツ・リストによるピアノ編曲版をグレン・グールドが弾いた録音は、この交響曲の旋律構造を多様なタッチで浮かび上がらせた演奏で、明晰かつロマンティック。ピアノ一台ながら、オーケストラと比べて物足りないと感じることはないだろう。グールドが遺した最高傑作のひとつである。
(阿部十三)
【関連サイト】
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
[1770.12.16-1827.3.26]
交響曲第5番 ハ短調 作品67
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1947年5月27日(ライヴ)
オットー・クレンペラー指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1965年5月(ライヴ)
[1770.12.16-1827.3.26]
交響曲第5番 ハ短調 作品67
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1947年5月27日(ライヴ)
オットー・クレンペラー指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1965年5月(ライヴ)
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