シューマン 『謝肉祭』
2016.04.08
仮面をつけた音符たち
ロベルト・シューマンの『謝肉祭』は1834年9月頃から1835年の間に作曲されたピアノ小品集で、作品番号は9。副題は「4つの音符による愛らしい情景」である。4つの音符とは、恋人エルネスティーネ・フォン・フリッケンの故郷アッシュの綴り「ASCH」を音名表記した「A、Es、C、H」。シューマンはこれらの文字が自分の名前の綴りに含まれていること(「SCHumAnn」すなわち「Es、C、H、A」)を自覚しながら作曲していた。
「ASCH」は「As、C、H」という風に置き換えることも可能であり、掉尾を飾る第21曲「フィリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」では、この音型が強調される。フィリシテ人は旧約聖書に登場するペリシテ人のこと。「ダヴィッド同盟」はシューマンの空想上の団体で、新しい芸術のために戦う人たちである。ペリシテの巨人ゴリアテと戦うダヴィデを連想させるこの標題は、新しい芸術の到来を拒む保守主義的堅物たちと戦う気概を示している。
『謝肉祭』はエルネスティーネ・フォン・フリッケンへの恋愛感情から生まれたもので、第13曲「エストレラ」はエルネスティーネのことを表現した小品だが、彼女以外にも多くの人物(空想上の人物含め)が登場する。例えば、第11曲「キアリーナ」は後のシューマン夫人クララ・ヴィークのことを示しているし、第12曲は「ショパン」、第16曲の「ドイツ風ワルツ」の間奏曲は「パガニーニ」(第17曲として数えられることが多い)である。第5曲「オイゼビウス」と第6曲「フロレスタン」は、「ダヴィッド同盟」の中心人物。第2曲「ピエロ」や第3曲「アルルカン」、第15曲「パンタロンとコロンビーヌ」はイタリアの仮面即興劇の登場人物だ。
こういった顔ぶれをみて、夢見がちな芸術家が書いた奇妙な作品と思う人もいるかもしれない。シューマン自身、音楽の情緒が急速に変化するため、聴衆はついて来られないかもしれないと考えていた。ただし、テーマは「謝肉祭」である。新たな芸術の誕生を祝すかのごとく、謝肉祭の仮面劇や仮装行列が展開されるというわけだ。
「仮面」というと秘密めいた感じだが、エルネスティーネに対する感情は別に隠されているわけではない。むしろ、隠そうともしていないと言うべきか。「A、Es、C、H」「Es、C、H、A」「As、C、H」の音型が鍵となっていることは、通常演奏されない「スフィンクス」(第8曲と第9曲の間に配置)できちんと明示されているのだ。
第1曲「前口上」の結尾が、第20曲「休息」で再現され、第21曲「フィリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」へとつながる構成は実に鮮やか。にもかかわらず、全体的に渾然とした雰囲気があるのは、シューマンの文学的好みや夢想を磁場としているためだろう。標題が独創的で、登場するキャラクターが多く、性格も各々異なるので、絶対音楽として比較的まとまっていても、それだけでは整理のつかない情緒的なものを持て余すのである。
どの小品もすぐ耳になじむメロディーで編まれているが、「ショパン」の甘い美しさはとくに魅力的だ。映画なんかでここだけ演奏されることもある。私が中学生のとき初めて聴いて以来、ずっと頭から離れず、ことあるごとに記憶によみがえってくるのは、第7曲「コケット」と第8曲「応答」。自分でもよく分からない相性のようなレベルで、この2曲に執着している。「コケット」と「応答」の演奏がつまらなかったり、くどかったりすると、もう聴く気が起こらない。もっとも、この2曲の演奏が酷いというのは、よほどのことである。多くの『謝肉祭』の録音では、そういうことは起こらない。
群を抜いて有名なのは、アルフレッド・コルトーによる1928年の録音(「スフィンクス」も収録)と、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリによる1957年の録音だろうか。ゲザ・アンダもこの作品を得意とし、何度も演奏していた。ただ、『謝肉祭』は個人の主観的な想像世界を映し出す鏡のようなものなので、世評の高い名盤を聴いて「何か違う」と感じたとしても、それで作品に背を向けないでほしいと思う。自分にフィットする録音は必ずどこかにあるはずだ。
私はコルトー、ミケランジェリの演奏を通じて『謝肉祭』の世界にふれた人間だが、ヴラディーミル・ソフロニツキーが1959年11月に演奏したときのライヴ録音を聴き、衝撃を受けたことがきっかけとなり、「自分のための演奏」を探すようになった。ソフロニツキーのライヴは素晴らしい。曲によって、作曲者と演奏者のインスピレーションが火花を散らして交錯するような激しさがあり、両者が理想のバランスで融和するような夢幻的な美しさもある。
その後、ちょっとしたフレーズの処理にもセンスを感じさせるサンソン・フランソワによる1956年の録音(「スフィンクス」も収録)、詩的な美音の織物とでも言うべきユーリ・エゴロフの1981年の録音に惹かれた。決定的だったのは、フランスが生んだ偉大なシューマン弾き、カトリーヌ・コラールが遺した1989年の録音だ。気取りや気負いとは隔絶した風格、派手さはないが溢れる詩情を伝えるタッチが素晴らしい名演奏である。これは私の中で理想に近い『謝肉祭』であり、タイプの異なる天才ソフロニツキーの録音と双璧をなしている。
【関連サイト】
Robert Schumann 「Carnaval」
ロベルト・シューマンの『謝肉祭』は1834年9月頃から1835年の間に作曲されたピアノ小品集で、作品番号は9。副題は「4つの音符による愛らしい情景」である。4つの音符とは、恋人エルネスティーネ・フォン・フリッケンの故郷アッシュの綴り「ASCH」を音名表記した「A、Es、C、H」。シューマンはこれらの文字が自分の名前の綴りに含まれていること(「SCHumAnn」すなわち「Es、C、H、A」)を自覚しながら作曲していた。
「ASCH」は「As、C、H」という風に置き換えることも可能であり、掉尾を飾る第21曲「フィリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」では、この音型が強調される。フィリシテ人は旧約聖書に登場するペリシテ人のこと。「ダヴィッド同盟」はシューマンの空想上の団体で、新しい芸術のために戦う人たちである。ペリシテの巨人ゴリアテと戦うダヴィデを連想させるこの標題は、新しい芸術の到来を拒む保守主義的堅物たちと戦う気概を示している。
『謝肉祭』はエルネスティーネ・フォン・フリッケンへの恋愛感情から生まれたもので、第13曲「エストレラ」はエルネスティーネのことを表現した小品だが、彼女以外にも多くの人物(空想上の人物含め)が登場する。例えば、第11曲「キアリーナ」は後のシューマン夫人クララ・ヴィークのことを示しているし、第12曲は「ショパン」、第16曲の「ドイツ風ワルツ」の間奏曲は「パガニーニ」(第17曲として数えられることが多い)である。第5曲「オイゼビウス」と第6曲「フロレスタン」は、「ダヴィッド同盟」の中心人物。第2曲「ピエロ」や第3曲「アルルカン」、第15曲「パンタロンとコロンビーヌ」はイタリアの仮面即興劇の登場人物だ。
こういった顔ぶれをみて、夢見がちな芸術家が書いた奇妙な作品と思う人もいるかもしれない。シューマン自身、音楽の情緒が急速に変化するため、聴衆はついて来られないかもしれないと考えていた。ただし、テーマは「謝肉祭」である。新たな芸術の誕生を祝すかのごとく、謝肉祭の仮面劇や仮装行列が展開されるというわけだ。
「仮面」というと秘密めいた感じだが、エルネスティーネに対する感情は別に隠されているわけではない。むしろ、隠そうともしていないと言うべきか。「A、Es、C、H」「Es、C、H、A」「As、C、H」の音型が鍵となっていることは、通常演奏されない「スフィンクス」(第8曲と第9曲の間に配置)できちんと明示されているのだ。
第1曲「前口上」の結尾が、第20曲「休息」で再現され、第21曲「フィリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」へとつながる構成は実に鮮やか。にもかかわらず、全体的に渾然とした雰囲気があるのは、シューマンの文学的好みや夢想を磁場としているためだろう。標題が独創的で、登場するキャラクターが多く、性格も各々異なるので、絶対音楽として比較的まとまっていても、それだけでは整理のつかない情緒的なものを持て余すのである。
どの小品もすぐ耳になじむメロディーで編まれているが、「ショパン」の甘い美しさはとくに魅力的だ。映画なんかでここだけ演奏されることもある。私が中学生のとき初めて聴いて以来、ずっと頭から離れず、ことあるごとに記憶によみがえってくるのは、第7曲「コケット」と第8曲「応答」。自分でもよく分からない相性のようなレベルで、この2曲に執着している。「コケット」と「応答」の演奏がつまらなかったり、くどかったりすると、もう聴く気が起こらない。もっとも、この2曲の演奏が酷いというのは、よほどのことである。多くの『謝肉祭』の録音では、そういうことは起こらない。
群を抜いて有名なのは、アルフレッド・コルトーによる1928年の録音(「スフィンクス」も収録)と、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリによる1957年の録音だろうか。ゲザ・アンダもこの作品を得意とし、何度も演奏していた。ただ、『謝肉祭』は個人の主観的な想像世界を映し出す鏡のようなものなので、世評の高い名盤を聴いて「何か違う」と感じたとしても、それで作品に背を向けないでほしいと思う。自分にフィットする録音は必ずどこかにあるはずだ。
私はコルトー、ミケランジェリの演奏を通じて『謝肉祭』の世界にふれた人間だが、ヴラディーミル・ソフロニツキーが1959年11月に演奏したときのライヴ録音を聴き、衝撃を受けたことがきっかけとなり、「自分のための演奏」を探すようになった。ソフロニツキーのライヴは素晴らしい。曲によって、作曲者と演奏者のインスピレーションが火花を散らして交錯するような激しさがあり、両者が理想のバランスで融和するような夢幻的な美しさもある。
その後、ちょっとしたフレーズの処理にもセンスを感じさせるサンソン・フランソワによる1956年の録音(「スフィンクス」も収録)、詩的な美音の織物とでも言うべきユーリ・エゴロフの1981年の録音に惹かれた。決定的だったのは、フランスが生んだ偉大なシューマン弾き、カトリーヌ・コラールが遺した1989年の録音だ。気取りや気負いとは隔絶した風格、派手さはないが溢れる詩情を伝えるタッチが素晴らしい名演奏である。これは私の中で理想に近い『謝肉祭』であり、タイプの異なる天才ソフロニツキーの録音と双璧をなしている。
(阿部十三)
【関連サイト】
Robert Schumann 「Carnaval」
ロベルト・シューマン
[1810.6.8-1856.7.29]
『謝肉祭』 作品9
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
アルフレッド・コルトー(p)
録音:1928年
ヴラディーミル・ソフロニツキー(p)
録音:1959年11月18日(ライヴ)
カトリーヌ・コラール(p)
録音:1989年
[1810.6.8-1856.7.29]
『謝肉祭』 作品9
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
アルフレッド・コルトー(p)
録音:1928年
ヴラディーミル・ソフロニツキー(p)
録音:1959年11月18日(ライヴ)
カトリーヌ・コラール(p)
録音:1989年
月別インデックス
- November 2024 [1]
- October 2024 [1]
- September 2024 [1]
- August 2024 [1]
- July 2024 [1]
- May 2024 [1]
- April 2024 [1]
- March 2024 [1]
- January 2024 [1]
- December 2023 [1]
- November 2023 [1]
- October 2023 [1]
- September 2023 [1]
- July 2023 [1]
- June 2023 [1]
- May 2023 [1]
- March 2023 [1]
- January 2023 [1]
- December 2022 [1]
- October 2022 [1]
- September 2022 [1]
- August 2022 [1]
- July 2022 [1]
- May 2022 [1]
- March 2022 [1]
- February 2022 [1]
- December 2021 [1]
- November 2021 [1]
- October 2021 [1]
- September 2021 [1]
- July 2021 [1]
- June 2021 [1]
- May 2021 [1]
- March 2021 [1]
- February 2021 [1]
- December 2020 [1]
- November 2020 [1]
- October 2020 [1]
- July 2020 [1]
- June 2020 [1]
- May 2020 [1]
- April 2020 [1]
- February 2020 [1]
- January 2020 [1]
- December 2019 [1]
- October 2019 [1]
- September 2019 [2]
- August 2019 [1]
- June 2019 [1]
- April 2019 [1]
- March 2019 [1]
- February 2019 [1]
- December 2018 [1]
- November 2018 [1]
- October 2018 [1]
- September 2018 [1]
- July 2018 [1]
- June 2018 [1]
- April 2018 [1]
- March 2018 [2]
- February 2018 [1]
- December 2017 [5]
- November 2017 [1]
- October 2017 [1]
- September 2017 [1]
- August 2017 [1]
- June 2017 [1]
- May 2017 [2]
- April 2017 [2]
- February 2017 [1]
- January 2017 [2]
- November 2016 [2]
- September 2016 [2]
- August 2016 [2]
- July 2016 [1]
- June 2016 [1]
- May 2016 [1]
- April 2016 [1]
- February 2016 [2]
- January 2016 [1]
- December 2015 [1]
- November 2015 [2]
- October 2015 [1]
- September 2015 [2]
- August 2015 [1]
- July 2015 [1]
- June 2015 [1]
- May 2015 [1]
- April 2015 [1]
- February 2015 [2]
- January 2015 [1]
- December 2014 [1]
- November 2014 [2]
- October 2014 [1]
- September 2014 [1]
- August 2014 [2]
- July 2014 [1]
- June 2014 [2]
- May 2014 [2]
- April 2014 [1]
- March 2014 [2]
- February 2014 [2]
- January 2014 [2]
- December 2013 [1]
- November 2013 [2]
- October 2013 [2]
- September 2013 [1]
- August 2013 [2]
- July 2013 [2]
- June 2013 [2]
- May 2013 [2]
- March 2013 [2]
- February 2013 [1]
- January 2013 [2]
- December 2012 [2]
- November 2012 [1]
- October 2012 [2]
- September 2012 [1]
- August 2012 [1]
- July 2012 [3]
- June 2012 [1]
- May 2012 [2]
- April 2012 [2]
- March 2012 [2]
- February 2012 [3]
- January 2012 [2]
- December 2011 [2]
- November 2011 [2]
- October 2011 [2]
- September 2011 [3]
- August 2011 [2]
- July 2011 [3]
- June 2011 [4]
- May 2011 [4]
- April 2011 [5]
- March 2011 [5]
- February 2011 [4]