ヘンデル 『9つのドイツ・アリア』
2017.04.24
美しい自然とともに
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが珍しくドイツ語の詩に曲をつけた声楽作品『9つのドイツ・アリア』は、三つの美が完全に一体となった傑作だ。すなわち美しい旋律、美しいドイツ語の響き、美しい詩の世界である。テキストに使われたのは、バルトルト・ハインリヒ・ブロッケスの詩集『神におけるこの世の喜び』。選ばれた9つの詩の大半は、きらめく波や甘い香りの花といった美しい自然の中に神の御業をみて、感謝を捧げる内容になっている。
ブロッケスは自分の詩に音楽が付けられることを想定し、レチタティーヴォとアリアから成るカンタータ風の構成にしていた。実際に、それに沿った形でほかの作曲家がカンタータを書いた例もある。しかしヘンデルは、作品名が示すように、アリアに使う詩以外をばっさりと切り離し、まさに歌のための歌というべきものに仕上げた。そのせいか音楽的な美しさがストレートに浮き上がってくる印象がある。
9曲は以下の順に配されている。
第1曲「来るべき日々のむなしい憂いも」
第2曲「たわむれる波のきらめきが」
第3曲「甘い香りの花びらよ」
第4曲「甘い静けさ、やさしい泉よ」
第5曲「歌え、魂よ、神をたたえて」
第6曲「私の魂は目で見て聴く」
第7曲「汝ら、暗闇の墓から」
第8曲「ここちよい茂みの中で」
第9曲「燃え咲く薔薇、大地の飾り」
9曲ともソプラノまたはテノール、オブリガートを担う独奏楽器、通奏低音のために書かれており、独奏楽器は(ヴァイオリンが想定されているのだろうが)特に指定されてない。大げさに言うならば、いかようにでも楽器を替えることが可能である。形式的にはダ・カーポを用いたものが大半を占めるが、その中で、真珠を散らす銀色の波の動き(第2曲)、花びらの匂いや銀色の輝き(第3曲)、魂を満たす夜の甘い静寂(第4曲)などが描写され、華やかなコロラトゥーラも盛り込まれる。作品それぞれに詩の世界を豊かなものにする趣向があり、冗長さは全くない。
コスモポリタン的なヘンデルは、この詩に曲をつける際、教訓的・形式的な言葉にとらわれず、自由な気風を重んじた。儀礼的なものにするならば、レチタティーヴォを含めた形で作曲していただろう。彼はそのようにせず、自然を慈しむ心を常に念頭に置き、闊達さを失うことなく、筆を進めた。とびきり優れたドイツ語のアリアを書こうという創作意欲の高まりもあったにちがいない。
音楽と化した花の香りは、宗教臭さとは隔絶しているが、それは詩の真意に反するものではない。なぜなら、歌そのものがきれいな花のようになることで、より親しみをもって、この詩が歌われ、聴かれることになるからだ。名誉欲を戒める詩で編まれた第1曲からして、親密さとのびやかさを以て耳に届き、ふと口ずさみたくなる。ひときわ清澄に響く有名な第6曲も、無条件に聴き手を幸福な気分へと誘う。一見宗教と無縁な生活を送っていても、自然の中で何かとてつもなく大きな存在を感じたり、何かに感謝したい気持ちになったことがある人ならば、このアリアに共感することができるだろう。
作曲年は1724年から1727年の間と推察されているが、はっきりしない。ドイツ、イタリアを回っていた1729年とする説もある。そんなこともあってか、天才のエッセンスが詰まったこの傑作は、クリュザンダーによるヘンデル全集に含まれず、1921年になってようやくヘルマン・ロートにより出版された。20世紀後半にはマルゴ・ギョーム、アーリーン・オジェー、エマ・カークビーといった名歌手たちが録音し、音楽愛好家の耳を楽しませているが、今後の作品研究の経過やコンサートでの取り上げられ方次第では、さらに注目度が上がるのではないかと思われる。
私は、アーリーン・オジェーによる全曲録音を通じてこの作品の存在を知った。録音年は1980年。歌い方はどこか内省的で、甘やかなトーンの中にも憂いがある。なので、穏やかな曲調の第1曲や第4曲と相性が良い。実に尊い歌声だ。1985年に録音されたエマ・カークビーの歌は、軽やかで清澄。魅惑の花盛る春の空気を吸うような気分にさせてくれる。ただし、偽作と言われているヴァイオリン・ソナタが挿入された構成は、私にはピンとこなかった。1950年代に録音されたマルゴ・ギョームの歌は、素朴さと敬虔さの賜物。飾り気がなく、一つ一つの言葉を味わうのに適した明確なディクションが魅力だ。カトリン・グラーフのアルバム『声楽とフルートのための音楽』に収録された第6曲も名唱。表現力が抜群で、高揚感があり、何度聴いても新鮮な気持ちで接することができる。
【関連サイト】
Georg Friedrich Händel(CD)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが珍しくドイツ語の詩に曲をつけた声楽作品『9つのドイツ・アリア』は、三つの美が完全に一体となった傑作だ。すなわち美しい旋律、美しいドイツ語の響き、美しい詩の世界である。テキストに使われたのは、バルトルト・ハインリヒ・ブロッケスの詩集『神におけるこの世の喜び』。選ばれた9つの詩の大半は、きらめく波や甘い香りの花といった美しい自然の中に神の御業をみて、感謝を捧げる内容になっている。
ブロッケスは自分の詩に音楽が付けられることを想定し、レチタティーヴォとアリアから成るカンタータ風の構成にしていた。実際に、それに沿った形でほかの作曲家がカンタータを書いた例もある。しかしヘンデルは、作品名が示すように、アリアに使う詩以外をばっさりと切り離し、まさに歌のための歌というべきものに仕上げた。そのせいか音楽的な美しさがストレートに浮き上がってくる印象がある。
9曲は以下の順に配されている。
第1曲「来るべき日々のむなしい憂いも」
第2曲「たわむれる波のきらめきが」
第3曲「甘い香りの花びらよ」
第4曲「甘い静けさ、やさしい泉よ」
第5曲「歌え、魂よ、神をたたえて」
第6曲「私の魂は目で見て聴く」
第7曲「汝ら、暗闇の墓から」
第8曲「ここちよい茂みの中で」
第9曲「燃え咲く薔薇、大地の飾り」
9曲ともソプラノまたはテノール、オブリガートを担う独奏楽器、通奏低音のために書かれており、独奏楽器は(ヴァイオリンが想定されているのだろうが)特に指定されてない。大げさに言うならば、いかようにでも楽器を替えることが可能である。形式的にはダ・カーポを用いたものが大半を占めるが、その中で、真珠を散らす銀色の波の動き(第2曲)、花びらの匂いや銀色の輝き(第3曲)、魂を満たす夜の甘い静寂(第4曲)などが描写され、華やかなコロラトゥーラも盛り込まれる。作品それぞれに詩の世界を豊かなものにする趣向があり、冗長さは全くない。
コスモポリタン的なヘンデルは、この詩に曲をつける際、教訓的・形式的な言葉にとらわれず、自由な気風を重んじた。儀礼的なものにするならば、レチタティーヴォを含めた形で作曲していただろう。彼はそのようにせず、自然を慈しむ心を常に念頭に置き、闊達さを失うことなく、筆を進めた。とびきり優れたドイツ語のアリアを書こうという創作意欲の高まりもあったにちがいない。
音楽と化した花の香りは、宗教臭さとは隔絶しているが、それは詩の真意に反するものではない。なぜなら、歌そのものがきれいな花のようになることで、より親しみをもって、この詩が歌われ、聴かれることになるからだ。名誉欲を戒める詩で編まれた第1曲からして、親密さとのびやかさを以て耳に届き、ふと口ずさみたくなる。ひときわ清澄に響く有名な第6曲も、無条件に聴き手を幸福な気分へと誘う。一見宗教と無縁な生活を送っていても、自然の中で何かとてつもなく大きな存在を感じたり、何かに感謝したい気持ちになったことがある人ならば、このアリアに共感することができるだろう。
作曲年は1724年から1727年の間と推察されているが、はっきりしない。ドイツ、イタリアを回っていた1729年とする説もある。そんなこともあってか、天才のエッセンスが詰まったこの傑作は、クリュザンダーによるヘンデル全集に含まれず、1921年になってようやくヘルマン・ロートにより出版された。20世紀後半にはマルゴ・ギョーム、アーリーン・オジェー、エマ・カークビーといった名歌手たちが録音し、音楽愛好家の耳を楽しませているが、今後の作品研究の経過やコンサートでの取り上げられ方次第では、さらに注目度が上がるのではないかと思われる。
私は、アーリーン・オジェーによる全曲録音を通じてこの作品の存在を知った。録音年は1980年。歌い方はどこか内省的で、甘やかなトーンの中にも憂いがある。なので、穏やかな曲調の第1曲や第4曲と相性が良い。実に尊い歌声だ。1985年に録音されたエマ・カークビーの歌は、軽やかで清澄。魅惑の花盛る春の空気を吸うような気分にさせてくれる。ただし、偽作と言われているヴァイオリン・ソナタが挿入された構成は、私にはピンとこなかった。1950年代に録音されたマルゴ・ギョームの歌は、素朴さと敬虔さの賜物。飾り気がなく、一つ一つの言葉を味わうのに適した明確なディクションが魅力だ。カトリン・グラーフのアルバム『声楽とフルートのための音楽』に収録された第6曲も名唱。表現力が抜群で、高揚感があり、何度聴いても新鮮な気持ちで接することができる。
(阿部十三)
【関連サイト】
Georg Friedrich Händel(CD)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
『9つのドイツ・アリア』
[1685.2.23-1759.4.14]
【お薦めディスク】(掲載ジャケット)
アーリーン・オジェー(sop)
ペーター・ミリング(vn)、ウェルナー・タスト(fl)、
ブルクハルト・グレッツナー(ob)、マティアス・プフェンダー(vc)、
ディータ・ツァーン(viol)、ギュンター・クリール(fg)、
ヴァルター・ハインツ・ベルンシュタイン(cemb)
録音:1980年
『9つのドイツ・アリア』
[1685.2.23-1759.4.14]
【お薦めディスク】(掲載ジャケット)
アーリーン・オジェー(sop)
ペーター・ミリング(vn)、ウェルナー・タスト(fl)、
ブルクハルト・グレッツナー(ob)、マティアス・プフェンダー(vc)、
ディータ・ツァーン(viol)、ギュンター・クリール(fg)、
ヴァルター・ハインツ・ベルンシュタイン(cemb)
録音:1980年
月別インデックス
- November 2024 [1]
- October 2024 [1]
- September 2024 [1]
- August 2024 [1]
- July 2024 [1]
- May 2024 [1]
- April 2024 [1]
- March 2024 [1]
- January 2024 [1]
- December 2023 [1]
- November 2023 [1]
- October 2023 [1]
- September 2023 [1]
- July 2023 [1]
- June 2023 [1]
- May 2023 [1]
- March 2023 [1]
- January 2023 [1]
- December 2022 [1]
- October 2022 [1]
- September 2022 [1]
- August 2022 [1]
- July 2022 [1]
- May 2022 [1]
- March 2022 [1]
- February 2022 [1]
- December 2021 [1]
- November 2021 [1]
- October 2021 [1]
- September 2021 [1]
- July 2021 [1]
- June 2021 [1]
- May 2021 [1]
- March 2021 [1]
- February 2021 [1]
- December 2020 [1]
- November 2020 [1]
- October 2020 [1]
- July 2020 [1]
- June 2020 [1]
- May 2020 [1]
- April 2020 [1]
- February 2020 [1]
- January 2020 [1]
- December 2019 [1]
- October 2019 [1]
- September 2019 [2]
- August 2019 [1]
- June 2019 [1]
- April 2019 [1]
- March 2019 [1]
- February 2019 [1]
- December 2018 [1]
- November 2018 [1]
- October 2018 [1]
- September 2018 [1]
- July 2018 [1]
- June 2018 [1]
- April 2018 [1]
- March 2018 [2]
- February 2018 [1]
- December 2017 [5]
- November 2017 [1]
- October 2017 [1]
- September 2017 [1]
- August 2017 [1]
- June 2017 [1]
- May 2017 [2]
- April 2017 [2]
- February 2017 [1]
- January 2017 [2]
- November 2016 [2]
- September 2016 [2]
- August 2016 [2]
- July 2016 [1]
- June 2016 [1]
- May 2016 [1]
- April 2016 [1]
- February 2016 [2]
- January 2016 [1]
- December 2015 [1]
- November 2015 [2]
- October 2015 [1]
- September 2015 [2]
- August 2015 [1]
- July 2015 [1]
- June 2015 [1]
- May 2015 [1]
- April 2015 [1]
- February 2015 [2]
- January 2015 [1]
- December 2014 [1]
- November 2014 [2]
- October 2014 [1]
- September 2014 [1]
- August 2014 [2]
- July 2014 [1]
- June 2014 [2]
- May 2014 [2]
- April 2014 [1]
- March 2014 [2]
- February 2014 [2]
- January 2014 [2]
- December 2013 [1]
- November 2013 [2]
- October 2013 [2]
- September 2013 [1]
- August 2013 [2]
- July 2013 [2]
- June 2013 [2]
- May 2013 [2]
- March 2013 [2]
- February 2013 [1]
- January 2013 [2]
- December 2012 [2]
- November 2012 [1]
- October 2012 [2]
- September 2012 [1]
- August 2012 [1]
- July 2012 [3]
- June 2012 [1]
- May 2012 [2]
- April 2012 [2]
- March 2012 [2]
- February 2012 [3]
- January 2012 [2]
- December 2011 [2]
- November 2011 [2]
- October 2011 [2]
- September 2011 [3]
- August 2011 [2]
- July 2011 [3]
- June 2011 [4]
- May 2011 [4]
- April 2011 [5]
- March 2011 [5]
- February 2011 [4]