音楽 CLASSIC

ドニゼッティ 歌劇『ランメルモールのルチア』

2017.06.06
狂気の表現

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 ガエターノ・ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』は、1835年9月26日にナポリ・サン・カルロ劇場で初演され、大成功を収めた。すでに『アンナ・ボレーナ』『愛の妙薬』『ルクレツィア・ボルジア』で知られていたこの作曲家の名前は、『ルチア』でオペラ史の数ページを華々しく飾るものになったと言える。後半には、プリマドンナの高度な表現力と超絶技巧が求められる長大な「狂乱の場」が存在するが、このあまりにも有名な見せ場は、これまでに多くのソプラノ歌手をスターに変身させ、オペラファンを熱狂させてきた。

 原作は1819年に出版されたウォルター・スコットの『ラマムアの花嫁』。1669年に実際に起こった事件を扱った小説で、これにサルヴァトーレ・カンマラーノが大きく手を加え、オペラの台本にした。この悲劇は2部構成で、第1部は「出発」(全1幕)、第2部は「結婚契約」(全2幕)と題されている。要するに、全3幕のオペラである。

 第1部は、レーヴェンスウッド城の庭園から始まる。城主エンリーコは、自分の権力を持ち直させるために、妹のルチアをアルトゥーロと結婚させようとしている。妹はそんな政略結婚に見向きもしない。彼女は一家の仇敵エドガルドと恋仲にあったのだ。そのことを知ると、エンリーコは激怒する。場面が変わり、ハープの長いソロにのせてルチアと侍女アリーサが登場。これから恋人と逢いびきすることになっているのだ。そこへ愛しいエドガルドが現れる。エンリーコからは仇敵として憎まれているが、エドガルドにも父親を殺され、遺産を奪われた恨みがある。しかしルチアを愛したことで、怒りがおさまった、とエドガルドは語る。そんな彼には今ゆっくりと愛を語る時間がない。急遽、フランスへ発たなければならなくなったのだ。永遠の愛と誠を誓う2人は、指輪を交換して別れる。

 第2部第1幕で、エンリーコは偽の手紙をつかい、エドガルドがほかの女に夢中だとルチアに思わせることに成功する。そこへアルトゥーロが到着する。嘆き悲しむルチアは、兄に命令されるまま、結婚式に出て、結婚契約書に署名する。そこへエドガルドが現れる。ルチアのことが恋しくなったのだ。その場は混乱に陥り、六重唱が始まる。しかし、エドガルドは恐るべき事実を知る。ルチアの教育係ライモンドに、署名済みの結婚契約書を見せられた彼は激昂し、指輪をルチアに返す。そしてルチアに渡した自分の指輪をもぎ取り、投げつけて踏みにじる。

 第2部第2幕は、嵐が吹く中、エドガルドの居城にエンリーコが現れ、決闘を申し込む場面から始まるが、ここはカットされることもある。場面は変わり、ルチアの結婚を祝う宴で、人々が踊り騒いでいる。そこへライモンドが現れ、ルチアが発狂してアルトゥーロを刺し殺したと告げる。まもなく純白の衣装を血に染めたルチアがやってきて、「狂乱の場」が始まる。ルチアはエドガルドとの結婚を夢想し、「とうとう私はあなたのもの。神様があなたを私に下さるのね」と歌う。

 一方、何も知らないエドガルドは、レーヴェンスウッド家の墓地で、死の願望を語る。夫に抱かれているルチアのことを思うと堪えられないのだ。と、悲しみに暮れる人々の行列が、通りがかる。「誰のために泣いているのです」とエドガルドが問うと、「ルチアのために」という答えが返ってくる。ルチアの死を知ったエドガルドは、天上で自分たちが結ばれることを願い、剣で自らを刺してルチアの後を追う。

 1835年1月には、ドニゼッティの4つ年下のライバル、ヴィンチェンツィオ・ベルリーニの『清教徒』が初演されている。これもウォルター・スコット原作で、テーマが似ており、「狂乱の場」もある。終わり方は大きく異なるが、ドニゼッティがライバルの作品を意識していたことは想像に難くない。しかしながら、そのベルリーニが『ルチア』の初演3日前に、33歳で病死してしまう。ドニゼッティとしては、この作品を最も観せたい相手だったのではないだろうか。

 「狂乱の場」はテンポを変え、表現を変え、15分以上続く。コロラトゥーラの複雑な装飾音符が盛り込まれ、凄まじい効果を上げているが、そこには一貫して暗い狂気が横たわっている。端的に言えば、心の安定を完全に失った狂人の歌だ。ひび割れた理性からこぼれ出すその狂乱には程よい限度というものがなく、信じがたい技巧が駆使され、なおかつ強弱が完璧にコントロールされた歌がこれでもかと繰り広げられ、終わったと思ったら、まだ続く。技術だけではなく、ルチアの内面にまで入り込まないと、歌いこなすのは難しい。しかし、入り込みすぎるのは危険でもある。とんでもない歌を書いたものだ。

 「狂乱の場」以外にも、ルチアとエドガルドの二重唱、ルチアとエンリーコの二重唱、結婚契約の場面での六重唱、最後の場面で歌われるエドガルドのアリアなど、聴きどころがある。とくに、ルチア、エドガルド、エンリーコ、ライモンド、アルトゥーロ、アリーサの6人による精緻なアンサンブルには、ドニゼッティの天才ぶりがはっきりと示されている。

 マリア・カラスが1953年、1955年の絶頂期に遺した音源がある。前者はトゥリオ・セラフィン指揮のセッション録音、後者はヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のライヴ録音だ。これは圧倒的名唱と呼ぶにふさわしいもので、心理の内側に入り込んだその表現の深さは比倫を絶している。心技体でルチアになりきっている。「狂乱の場」だけが素晴らしいのではない。登場シーンから失意、悲嘆、そして狂乱に至るまでの過程に、一分の隙もない感情の連なりがあることを彼女の歌は生々しく伝える。

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 カラス以前の録音だと、長年この役を演じ続けたリリー・ポンスのクリアーな歌声が印象に残るが、妖しい雰囲気はあまりない。カラス以後だと、やはりこの役を得意としたジョーン・サザーランドが脚光を浴びた1959年のライヴ録音、シェリル・ステューダーとプラシド・ドミンゴが共演した1990年のセッション録音の出来の良さが際立っている。映像では、1967年にレナータ・スコットやカルロ・ベルゴンツィが来日した時の公演を観ておきたい。スコットの歌唱は、本調子とは言い難いところもあるが、その確かな技巧に支えられた濃密な表現がもたらす感動は深い。
(阿部十三)

ガエターノ・ドニゼッティ
[1797.11.29-1848.4.8]
歌劇『ランメルモールのルチア』

【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
マリア・カラス、
ジュゼッペ・ディ・ステーファノ、ティト・ゴッビ 他
トゥリオ・セラフィン指揮
フィレンツェ五月祭管弦楽団&合唱団
録音:1953年1月29、30日、2月3、4、6日

ジョーン・サザーランド、
ジョアン・ジビン、ジョン・ショー 他
トゥリオ・セラフィン指揮
コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団
録音:1959年2月26日(ライヴ)

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