ストラヴィンスキー 『結婚』
2017.08.02
誰にも書けない音楽
イーゴリ・ストラヴィンスキーの『結婚』は、1914年に着手され、幾度かの中断を経て、1923年4月6日に書き上げられた。自伝によると、当時ストラヴィンスキーは楽器編成の問題で悩み、結論を出すのを後回しにしていたらしい。そして、「初演の日が最終的に決められて切迫した状態になれば何か解決法を思いつくだろうと当てにしていた」。その後、セルゲイ・ディアギレフ主宰のロシア・バレエ団による初演が1923年6月13日に決まると、彼の予想通りに事が運んだ。「自分の作品中の肉声の要素、つまり呼吸に依存する要素は、打楽器ばかりで編成された管弦楽によって最も効果的に助けられるであろうということに気が付いた」のである。
ストラヴィンスキーの三大バレエ作品といえば、『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』であり、いずれもこの作曲家の天才ぶりを示す傑作ではあるが、声楽を用いた『結婚』の独創性は、どんなに歴史が進んで新しい音楽が創造されてもストラヴィンスキーがいなければこんな作品は生まれなかったろうと心から思わされるほど圧倒的だ。様式的にはカンタータとも言い難く、管弦楽曲の枠にも声楽曲の枠にも収まらない。
昔あったかもしれないロシア民謡や聖歌をイメージさせる声楽は、ほとんど作曲者自身の創作によるものだという。音節と発音がもたらす音響的効果まで吟味されたその声楽が、打楽器と化した4台のピアノ、さらにシロフォン、小太鼓、ティンパニなどと共に、かつて聴いたこともないような響きとリズムを生み出すのである。その響きは、斬新でありながら、どこか繊細で、古びた色合いも持っている。何世紀も前に描かれた結婚式の絵から、聞こえてくるような音楽とでも言おうか。
『結婚』の副題は「歌と音楽を伴うロシアの舞踏的情景」。2部構成で、第1部「おさげ髪(花嫁の家)」「花婿の家」「花嫁の出発」、第2部「結婚の祝宴」という4つの場面で構成されている。作曲者自身はこの作品を結婚カンタータ的なものではなく、ストーリー性のある演劇的なものでもなく、「ディヴェルティスマン(嬉遊曲)風なもの」と定義したが、その真意は、結婚式の情景を細かく思い浮かべながら聴く必要はないという風にも受け取れるし、新古典主義の理念に通ずるものという風にも受け取れる。たしかに、ストーリーはあってないようなものだ。第1部では結婚式の準備をする花嫁ナスターシャと花婿フェティスそれぞれの家の慌ただしさ、そして親の祈りや悲しみなどが描かれ、第2部ではお酒の匂いがぷんぷんする祝宴が描かれる。
ストラヴィンスキーはロシアの民謡詩に夢中になっていた時期に、この作品を書こうと思い立ったらしい。音楽は極めてユニークで、いわゆる結婚式らしい華やかな幸福感はほぼ無いに等しく、嘆きの場面でもじめじめすることなく、緊張感が保たれている。賑やかな祝宴の場面にも、どこか張り詰めた空気がある。音響、リズムが渾然としても、その空気が保たれているのは、いくつかの音型を、緊張感をもって効果的に提示・再現させているからだ。例えば、第2部は唖然とするほど多様な旋律で畳み掛けるが、第1部冒頭のテーマを巧みに挿入しており、最後もそのテーマで締めくくる構成となっている。
何の贔屓目でもなく、虚心坦懐に耳を傾けると、現代の音楽のように聴こえるし、何世紀も昔の音楽のようにも聴こえる。これを真の天才の驚異を示す超傑作と言っても、言い過ぎにはなるまい。プーランクやオーリックが、まだ若い頃、『結婚』のピアノ・パートを演奏していたことは、天才の遺伝というものを考える上で興味深い。2人ともストラヴィンスキーを超える天才ではないが、『結婚』のスコアを読み込むことで得るものがあったのではないか。また、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』も、やはり『結婚』が及ぼした影響なしには考えられない作品である。
録音の数も上演の機会も少ないため、三大バレエほど知られてはいないが、ピエール・ブーレーズ指揮、パリ・オペラ座管のレコード(1965年録音)を聴けば、この作品の魅力がつかめるので、これは持っておきたい。意気盛んだった頃のブーレーズが、彼らしく輪郭をくっきりと明確にし、縦横に絡まる旋律とリズムの糸を、きれいな格子縞のようにしてみせている。胸のすくような快演とはまさにこのことだ。
ほかにも、初演を務めたエルネスト・アンセルメ、カレル・アンチェル、レナード・バーンスタインの有名な録音があり、それらを経て、クラシック音楽の枠を超えたエキサイティングなポクロフスキー・アンサンブルの録音が登場したりして、演奏表現の自由さも行き着くところまで行った感がある。ただ、テオドール・クルレンツィスが指揮した演奏(2013年録音)は、改めて作品の真価を問う充実した内容で、声楽と打楽器を繊細に、時に大胆に扱い、冒頭から言葉の響きの美しさをたっぷり引き出したアプローチで聴き手の心を奪う。土の匂いがするロシアの田舎の風景、悲しみ、慰め、祈る人々の表情が細かく伝わってくるところも素晴らしい。これは胸を満たす名演奏と言えるのではないか。
【関連サイト】
Igor Stravinsky 『Les Noces』(CD)
イーゴリ・ストラヴィンスキーの『結婚』は、1914年に着手され、幾度かの中断を経て、1923年4月6日に書き上げられた。自伝によると、当時ストラヴィンスキーは楽器編成の問題で悩み、結論を出すのを後回しにしていたらしい。そして、「初演の日が最終的に決められて切迫した状態になれば何か解決法を思いつくだろうと当てにしていた」。その後、セルゲイ・ディアギレフ主宰のロシア・バレエ団による初演が1923年6月13日に決まると、彼の予想通りに事が運んだ。「自分の作品中の肉声の要素、つまり呼吸に依存する要素は、打楽器ばかりで編成された管弦楽によって最も効果的に助けられるであろうということに気が付いた」のである。
ストラヴィンスキーの三大バレエ作品といえば、『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』であり、いずれもこの作曲家の天才ぶりを示す傑作ではあるが、声楽を用いた『結婚』の独創性は、どんなに歴史が進んで新しい音楽が創造されてもストラヴィンスキーがいなければこんな作品は生まれなかったろうと心から思わされるほど圧倒的だ。様式的にはカンタータとも言い難く、管弦楽曲の枠にも声楽曲の枠にも収まらない。
昔あったかもしれないロシア民謡や聖歌をイメージさせる声楽は、ほとんど作曲者自身の創作によるものだという。音節と発音がもたらす音響的効果まで吟味されたその声楽が、打楽器と化した4台のピアノ、さらにシロフォン、小太鼓、ティンパニなどと共に、かつて聴いたこともないような響きとリズムを生み出すのである。その響きは、斬新でありながら、どこか繊細で、古びた色合いも持っている。何世紀も前に描かれた結婚式の絵から、聞こえてくるような音楽とでも言おうか。
『結婚』の副題は「歌と音楽を伴うロシアの舞踏的情景」。2部構成で、第1部「おさげ髪(花嫁の家)」「花婿の家」「花嫁の出発」、第2部「結婚の祝宴」という4つの場面で構成されている。作曲者自身はこの作品を結婚カンタータ的なものではなく、ストーリー性のある演劇的なものでもなく、「ディヴェルティスマン(嬉遊曲)風なもの」と定義したが、その真意は、結婚式の情景を細かく思い浮かべながら聴く必要はないという風にも受け取れるし、新古典主義の理念に通ずるものという風にも受け取れる。たしかに、ストーリーはあってないようなものだ。第1部では結婚式の準備をする花嫁ナスターシャと花婿フェティスそれぞれの家の慌ただしさ、そして親の祈りや悲しみなどが描かれ、第2部ではお酒の匂いがぷんぷんする祝宴が描かれる。
ストラヴィンスキーはロシアの民謡詩に夢中になっていた時期に、この作品を書こうと思い立ったらしい。音楽は極めてユニークで、いわゆる結婚式らしい華やかな幸福感はほぼ無いに等しく、嘆きの場面でもじめじめすることなく、緊張感が保たれている。賑やかな祝宴の場面にも、どこか張り詰めた空気がある。音響、リズムが渾然としても、その空気が保たれているのは、いくつかの音型を、緊張感をもって効果的に提示・再現させているからだ。例えば、第2部は唖然とするほど多様な旋律で畳み掛けるが、第1部冒頭のテーマを巧みに挿入しており、最後もそのテーマで締めくくる構成となっている。
何の贔屓目でもなく、虚心坦懐に耳を傾けると、現代の音楽のように聴こえるし、何世紀も昔の音楽のようにも聴こえる。これを真の天才の驚異を示す超傑作と言っても、言い過ぎにはなるまい。プーランクやオーリックが、まだ若い頃、『結婚』のピアノ・パートを演奏していたことは、天才の遺伝というものを考える上で興味深い。2人ともストラヴィンスキーを超える天才ではないが、『結婚』のスコアを読み込むことで得るものがあったのではないか。また、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』も、やはり『結婚』が及ぼした影響なしには考えられない作品である。
録音の数も上演の機会も少ないため、三大バレエほど知られてはいないが、ピエール・ブーレーズ指揮、パリ・オペラ座管のレコード(1965年録音)を聴けば、この作品の魅力がつかめるので、これは持っておきたい。意気盛んだった頃のブーレーズが、彼らしく輪郭をくっきりと明確にし、縦横に絡まる旋律とリズムの糸を、きれいな格子縞のようにしてみせている。胸のすくような快演とはまさにこのことだ。
ほかにも、初演を務めたエルネスト・アンセルメ、カレル・アンチェル、レナード・バーンスタインの有名な録音があり、それらを経て、クラシック音楽の枠を超えたエキサイティングなポクロフスキー・アンサンブルの録音が登場したりして、演奏表現の自由さも行き着くところまで行った感がある。ただ、テオドール・クルレンツィスが指揮した演奏(2013年録音)は、改めて作品の真価を問う充実した内容で、声楽と打楽器を繊細に、時に大胆に扱い、冒頭から言葉の響きの美しさをたっぷり引き出したアプローチで聴き手の心を奪う。土の匂いがするロシアの田舎の風景、悲しみ、慰め、祈る人々の表情が細かく伝わってくるところも素晴らしい。これは胸を満たす名演奏と言えるのではないか。
(阿部十三)
【関連サイト】
Igor Stravinsky 『Les Noces』(CD)
イーゴリ・ストラヴィンスキー
[1883.6.17-1971.4.6]
『結婚』
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ジャクリーヌ・ブリュメール、ドニーズ・シャーレイ、
ジャック・ポッティエ、ジョゼ・ヴァン・ダム他
ピエール・ブーレーズ指揮
パリ・オペラ座管弦楽団
録音:1965年
ナディーヌ・クッチャー、ナタリア・ブクラガ、
スタニスラフ・レオンティエフ、ヴァシリー・コロステレフ他
テオドール・クルレンツィス指揮
ムジカ・エテルナ
録音:2013年10月
[1883.6.17-1971.4.6]
『結婚』
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ジャクリーヌ・ブリュメール、ドニーズ・シャーレイ、
ジャック・ポッティエ、ジョゼ・ヴァン・ダム他
ピエール・ブーレーズ指揮
パリ・オペラ座管弦楽団
録音:1965年
ナディーヌ・クッチャー、ナタリア・ブクラガ、
スタニスラフ・レオンティエフ、ヴァシリー・コロステレフ他
テオドール・クルレンツィス指揮
ムジカ・エテルナ
録音:2013年10月
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