タルティーニ ヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」
2018.03.16
悪魔が夢に現れて
ヴァイオリストとして高みを目指していたジュゼッペ・タルティーニは、ある晩、悪魔に魂を売ってレッスンを受ける夢を見た。そこで悪魔が弾いて聴かせた音楽は、この世のものとは思えないほど美しかった。目が覚めたタルティーニは、夢の中で流れていた音楽の印象を手繰り寄せながら作曲を始めた。そうして出来上がったのが「悪魔のトリル」だと言われている。作曲時期について、タルティーニ自身は1713年に作曲したとジェローム・ラランドに語ったらしいが、その証言に信憑性がなく、自筆譜も残されていないため、現在では不明とされている。
タルティーニの若い頃の経歴は、波乱に富んでいる。1692年、イストリア半島のピランに生まれた彼は、まず両親のすすめで神学校に通い、修道士になったが、1708年に修道院をやめてパドヴァへ行き、大学の法学部に籍を置いた。当時の肩書きは「修道士見習い」。その裏で、ヴァイオリンと剣術を学んでいたという。いつ頃、何がきっかけで音楽の道を志したのかは、はっきりしない。
18歳の時(1710年)に高僧の親類の娘エリザベッタ・プレマツォーレと密かに結婚して教会側と対立し、アッシジのコンベンツァル会の修道院に身を隠している間に、ヴァイオリンの腕を磨き、ボヘミア人神父に作曲法の教えを受けた。そして、ほとぼりが冷めた頃(1714年頃)、アンコーナのオーケストラで働き始めたものの、その地位に飽き足らず、己の技巧をさらに向上させるべく放浪者となった。それから数年間の消息は詳らかにされていない。ただ、ベネチアに来た1720年には、ヴァイオリニストとして一目置かれる存在になっていた。1721年にはパドヴァの聖アントニオ大聖堂に、首席ヴァイオリニスト兼楽師長として雇われた上、外部で演奏する許可を得て、プラハでも活動し、名声を高めた。1720年代後半には塾を設立し、教育にも力を注いだ。ナルディーニやパガネッリはタルティーニの弟子である。教育者・理論家として著作も残しており、『ヴァイオリン教則本』『音楽論』『装飾法』(これらのうち『装飾法』は死後にまとめられたもの)は同時代および後世に影響を与えた。
悪魔というと、まがまがしいイメージがある。ただでさえタルティーニは元修道士なので、悪魔と取引をしたというのは背徳性をよけいに感じさせる。しかし実際に音楽を聴いてみると、その旋律は美しく、格調高い。ト短調らしく暗く切々とした調子だが、情熱的なヴァイオリンの響きが聴き手の胸を打つ。単に技巧的であるだけでなく、旋律の素晴らしさの面からも、重音奏法がもたらす豊潤な音楽的効果の面からも、3つの楽章それぞれの様式の見事さの面からも、評価すべき点は多い。
標題は、第3楽章のトリルに由来している。これは荘重な雰囲気を破る18小節に及ぶ長いトリルを皮切りに、これでもかと言わんばかりに繰り返される。ラルゲットの第1楽章を夢、アレグロの第2楽章を悪魔の登場、グラーヴェとアレグロ・アッサイを交互に繰り返す第3楽章を悪魔の演奏と解釈する向きもあるが、タルティーニがそのように語ったわけではない。
ちなみに、第1楽章の主題は、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章の主題にどことなく似ているが、モーツァルトがタルティーニを参考にしていたという証拠はない。ただ、父レオポルト・モーツァルトが著したヴァイオリン奏法に関する著作には、タルティーニの影響が色濃く出ているし、その息子が「悪魔のトリル」を聴いてその主題に惹かれていたとしても、何ら不思議はないとは言えるだろう。
21世紀の現在では、超絶技巧と言えるほどの難易度ではないかもしれないが、人に畏怖の念を起こさせ、高揚させるほどの演奏となると、さほど多くない。はっきり言えば、技巧面をクリアしても、一音に注がれる集中力、のびやかで且つ力強い歌心、弛みなき運弓の圧がなければ感動が半減し、綺麗にまとまっただけの演奏で終わりかねないと、私はこの作品を聴くたびに感じる。
ユーディ・メニューインが16歳の時に録音した演奏(1932年録音)は、技巧的な限界を全く感じさせないだけでなく、奏者が音楽と一体化して停滞なく高みへと突き抜けてゆくような高揚感を持っている。これは今日聴いても驚異である。現代のヴァイオリニストの演奏も含め、録音やリサイタルで私が接してきた限りにおいて言えば、こんな異様な演奏は聴いたことがない。1930年代の録音なのでさすがに音質は古いが、不自然なマスタリングが施されたものではなく、Biddulph盤で聴くのが良い。
ペニー・アンブローズが14歳の時に演奏したもの(1960年頃録音)も、作品への没入ぶりが尋常でなく、ここで燃え尽きても構わないと言わんばかりの向こう見ずな気迫と生命力にあふれている。17歳で亡くなったアンブローズは一枚しかレコードを残していないが、それも入手困難で、未だ正規盤のCDは出ていないようだ。ユリアン・シトコヴェツキーによる演奏(1954年録音)は、第3楽章での妖しく濃密な美音、そしてグラーヴェでの重みのあるフレージングが耳の奥深くにまで響いてくる。
ヴァイオリストとして高みを目指していたジュゼッペ・タルティーニは、ある晩、悪魔に魂を売ってレッスンを受ける夢を見た。そこで悪魔が弾いて聴かせた音楽は、この世のものとは思えないほど美しかった。目が覚めたタルティーニは、夢の中で流れていた音楽の印象を手繰り寄せながら作曲を始めた。そうして出来上がったのが「悪魔のトリル」だと言われている。作曲時期について、タルティーニ自身は1713年に作曲したとジェローム・ラランドに語ったらしいが、その証言に信憑性がなく、自筆譜も残されていないため、現在では不明とされている。
タルティーニの若い頃の経歴は、波乱に富んでいる。1692年、イストリア半島のピランに生まれた彼は、まず両親のすすめで神学校に通い、修道士になったが、1708年に修道院をやめてパドヴァへ行き、大学の法学部に籍を置いた。当時の肩書きは「修道士見習い」。その裏で、ヴァイオリンと剣術を学んでいたという。いつ頃、何がきっかけで音楽の道を志したのかは、はっきりしない。
18歳の時(1710年)に高僧の親類の娘エリザベッタ・プレマツォーレと密かに結婚して教会側と対立し、アッシジのコンベンツァル会の修道院に身を隠している間に、ヴァイオリンの腕を磨き、ボヘミア人神父に作曲法の教えを受けた。そして、ほとぼりが冷めた頃(1714年頃)、アンコーナのオーケストラで働き始めたものの、その地位に飽き足らず、己の技巧をさらに向上させるべく放浪者となった。それから数年間の消息は詳らかにされていない。ただ、ベネチアに来た1720年には、ヴァイオリニストとして一目置かれる存在になっていた。1721年にはパドヴァの聖アントニオ大聖堂に、首席ヴァイオリニスト兼楽師長として雇われた上、外部で演奏する許可を得て、プラハでも活動し、名声を高めた。1720年代後半には塾を設立し、教育にも力を注いだ。ナルディーニやパガネッリはタルティーニの弟子である。教育者・理論家として著作も残しており、『ヴァイオリン教則本』『音楽論』『装飾法』(これらのうち『装飾法』は死後にまとめられたもの)は同時代および後世に影響を与えた。
悪魔というと、まがまがしいイメージがある。ただでさえタルティーニは元修道士なので、悪魔と取引をしたというのは背徳性をよけいに感じさせる。しかし実際に音楽を聴いてみると、その旋律は美しく、格調高い。ト短調らしく暗く切々とした調子だが、情熱的なヴァイオリンの響きが聴き手の胸を打つ。単に技巧的であるだけでなく、旋律の素晴らしさの面からも、重音奏法がもたらす豊潤な音楽的効果の面からも、3つの楽章それぞれの様式の見事さの面からも、評価すべき点は多い。
標題は、第3楽章のトリルに由来している。これは荘重な雰囲気を破る18小節に及ぶ長いトリルを皮切りに、これでもかと言わんばかりに繰り返される。ラルゲットの第1楽章を夢、アレグロの第2楽章を悪魔の登場、グラーヴェとアレグロ・アッサイを交互に繰り返す第3楽章を悪魔の演奏と解釈する向きもあるが、タルティーニがそのように語ったわけではない。
ちなみに、第1楽章の主題は、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章の主題にどことなく似ているが、モーツァルトがタルティーニを参考にしていたという証拠はない。ただ、父レオポルト・モーツァルトが著したヴァイオリン奏法に関する著作には、タルティーニの影響が色濃く出ているし、その息子が「悪魔のトリル」を聴いてその主題に惹かれていたとしても、何ら不思議はないとは言えるだろう。
21世紀の現在では、超絶技巧と言えるほどの難易度ではないかもしれないが、人に畏怖の念を起こさせ、高揚させるほどの演奏となると、さほど多くない。はっきり言えば、技巧面をクリアしても、一音に注がれる集中力、のびやかで且つ力強い歌心、弛みなき運弓の圧がなければ感動が半減し、綺麗にまとまっただけの演奏で終わりかねないと、私はこの作品を聴くたびに感じる。
ユーディ・メニューインが16歳の時に録音した演奏(1932年録音)は、技巧的な限界を全く感じさせないだけでなく、奏者が音楽と一体化して停滞なく高みへと突き抜けてゆくような高揚感を持っている。これは今日聴いても驚異である。現代のヴァイオリニストの演奏も含め、録音やリサイタルで私が接してきた限りにおいて言えば、こんな異様な演奏は聴いたことがない。1930年代の録音なのでさすがに音質は古いが、不自然なマスタリングが施されたものではなく、Biddulph盤で聴くのが良い。
ペニー・アンブローズが14歳の時に演奏したもの(1960年頃録音)も、作品への没入ぶりが尋常でなく、ここで燃え尽きても構わないと言わんばかりの向こう見ずな気迫と生命力にあふれている。17歳で亡くなったアンブローズは一枚しかレコードを残していないが、それも入手困難で、未だ正規盤のCDは出ていないようだ。ユリアン・シトコヴェツキーによる演奏(1954年録音)は、第3楽章での妖しく濃密な美音、そしてグラーヴェでの重みのあるフレージングが耳の奥深くにまで響いてくる。
(阿部十三)
ジュゼッペ・タルティーニ
[1692.4.8-1770.2.26]
ヴァイオリン・ソナタ ト短調「悪魔のトリル」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ユーディ・メニューイン(vn)
アルトゥール・バルサム(p)
録音:1932年
ペニー・アンブローズ(vn)
ローレンス・L・スミス(p)
録音:1960年頃
[1692.4.8-1770.2.26]
ヴァイオリン・ソナタ ト短調「悪魔のトリル」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ユーディ・メニューイン(vn)
アルトゥール・バルサム(p)
録音:1932年
ペニー・アンブローズ(vn)
ローレンス・L・スミス(p)
録音:1960年頃
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