音楽 CLASSIC

R.シュトラウス 「献呈」

2018.09.14
我が感謝を受けよ

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 リヒャルト・シュトラウスが最初に出版した歌曲集は、ヘルマン・フォン・ギルムの詩に曲をつけた『8つの歌』である。作品番号は10。1885年、つまり21歳の時までに書かれたこの作品は、オペラや管弦楽を讃えられることの多いシュトラウスが、若い頃からリートの作曲家としても抜きん出た才能を持っていたことを今日に伝えている。
 『8つの歌』は「献呈」「何もなく」「夜」「ダリア」「待ちわびて」「物言わぬ花」「サフラン」「万霊節」から成り、第1曲目を除く7曲はギルムの『最後の木の葉』の詩に曲をつけたものである。シュトラウスは当時親交のあった作曲家ルートヴィヒ・トゥイレにこの詩人の作品を教えてもらったらしい。

 第1曲目は「Habe Dank(感謝を受けよ)」と題された詩を使っており、シュトラウスがタイトルを「Zueignung」すなわち「献呈」に変更した。3節で構成された、わずか2分にも満たない歌曲である。しかし、その短さにもかかわらず、シュトラウスの音楽には人の心をつかみ、高みへと引き上げ、崇高な愛で満たす神秘的な力がある。
 詩の内容は以下の通り。

そう、あなたは知っている、尊い魂よ
あなたから遠く離れて僕が苦しんでいることを
愛は人の心を病ませてしまう
我が感謝を受けよ

かつて放埓な酒飲みだった僕が
アメジストの盃を高く掲げると
あなたはこの飲み物を祝福してくれた
我が感謝を受けよ

そしてあなたはその盃の中の災いを追い払ってくれた
こうして僕は以前の僕ではなくなり
清らかに、清らかにあなたの心に沈みこんだ
我が感謝を受けよ!

 冒頭から美しい旋律が波打ち、光彩と陰翳の中、崇高な感情がふくらんでゆく様子が伝わってくる。そして第3節の「清らかに」から一気に高揚し、はち切れんばかりだった感情が天上に向かって劇的に放たれ、これ以上ないほどの盛り上がりの中で曲を閉じる。シンプルな転調だが、理想的なクライマックスがここに表現されている。
 詩の中では、「僕」が「あなた」によって真の愛に目覚め、立ち直っている。そんな愛のドラマが、とてつもなく美しい音楽を得たことによって神々しいものに見える。シュトラウス自身、そういう愛に憧憬を抱いていたのかもしれない。

 一説によると、当時シュトラウスはハヌシュ・ヴィハンの夫人ドーラに惹かれていたらしい。ヴィハンはドヴォルザークのチェロ協奏曲を献呈されたことでも知られる名チェリストであり、シュトラウスからもチェロ・ソナタを献呈されていた。シュトラウスとドーラの関係がどんなものであったかは判然としないが、シュトラウスの妹の証言では、ヴィハンは2人の間に何かあるのではないかと疑い、嫉妬していた。しかし音楽を聴く限り、シュトラウスは自分の実生活上の出来事とはかけ離れたところで、まだ見ぬ理想の愛を描いていたように感じられる。

 この曲の管弦楽版はまずロベルト・ヘーガーによって書かれたが、その後、作曲家自身の手で鮮やかにオーケストレーションされた。完成から55年が経った1940年のことである。それだけでもシュトラウスがこの短い曲に愛着を抱いていたことがうかがえる。

 編曲の際、76歳の作曲家が挿入した「du wunderbare Helena(すばらしいヘレナよ)」という詩句は、後期のオペラ『エジプトのヘレナ』に由来している。このオペラはトロイ戦争に勝利し、パリスに連れ出された妻ヘレンを奪還したメネラスが、激しい嫉妬と苦悩の末、妻とやり直すまでの話であり、「献呈」とは何のつながりもない。
 シュトラウスはヘレン役を歌ったお気に入りのソプラノ歌手ヴィオリカ・ウルズレアク(クレメンス・クラウスの妻)のために「献呈」を編曲し、詩句を加えたようだが、その思惑はよく分からない。メネラスにかつての嫉妬深いハヌシュ・ヴィハンの面影を重ねて、55年前の出来事を自ら蒸し返したとも考えにくい。

 私は「献呈」を聴くと、ロベルト・シューマンとクララのことが頭に浮かぶ。詩の内容がシューマン夫妻の結婚までの経緯になんとなく重なるように感じられるからだ。むろん、シューマンに「献呈」(こちらの原題は「Widmung」)という曲があるから、というのも理由の一つである。クララに捧げられたこの曲は「きみこそはわが魂、わが心よ、きみこそはわが楽しみ、わが苦しみよ」という詩で始まり、情熱に燃える若き血が美しい音楽と化して躍動している。シュトラウスの「献呈」とは違う雰囲気を持つ愛の名曲である。

 シュトラウスの「献呈」は、歌詞の内容から男の歌のように思われそうだが、女声で歌われることも多い。録音の種類は女声版の方が豊富かもしれない。私はエリザベート・シュヴァルツコップの有名な録音でこの曲を知った。ジョージ・セルが指揮を担当したオーケストラ版である。当時(私が学生の頃)は情報量が少なく、これくらいしか録音がないと思っていた。

 その後、ピアノ伴奏による原曲を聴き、そちらの方に惹かれるようになり、さまざまな録音に耳を傾けてきた。原曲版で最初に私が惹かれたのはルチア・ポップの録音。彼女の歌を聴いた時は、崇高な空気で体が満たされるような心地を覚えたものである。もとから美声で知られた人だが、それにしても稀有な美声だ。ピアノを弾いているのは、シュトラウス作品を得意としていた指揮者のヴォルフガング・サヴァリッシュ。リートの伴奏の腕前も一流である。美声、ピアノ、原曲の相性の良さを感じさせる名唱だ。

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 男声ではヘルマン・プライが若い頃に録音した歌唱(1965年録音)が魅力的である。伴奏はジェラルド・ムーア。プライのバリトンは上品であたたかみがあり、フレージングには耳につくような作為がなく、しかも余裕があり、聴き手を誘い込むような語り口を持っている。バリトンでの録音といえば、だいぶさかのぼるが、ハインリヒ・シュルスヌスの録音(1921年録音)もある。これはシュトラウス自身が伴奏を務めているので、作曲者が望ましいと考えていた演奏を知る上で貴重な音源と言えるだろう。

 オーケストラ版では、シルヴィア・シャシュによる歌唱が良い(エルヴィン・ルカーチ指揮/1981年録音)。歌い方は丁寧だし、のびやかで豊かな美声が楽しめる。こういう録音は好感が持てるが、歌手によっては、仰々しさや小細工のような表現を前面に出してしまうことがあり、深い解釈やオリジナリティを追求しているつもりで、しばしば作品の美しさや秩序を損なっている。それが美に還元され得ないような個性の主張であれば、素直に歌ってもらうのが一番である。
(阿部十三)


【関連サイト】
リヒャルト・シュトラウス
[1864.6.11-1949.9.8]
「献呈」〜『8つの歌』より

【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ルチア・ポップ(ソプラノ)
ヴォルフガング・サヴァリッシュ(p)
1984年録音

ヘルマン・プライ(バリトン)
ジェラルド・ムーア(p)
1963年録音

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