R.シュトラウス 歌劇『エレクトラ』
2021.07.01
許しのないオペラ
『エレクトラ』は1906年から1908年にかけて作曲された一幕物のオペラである。古代を題材とし、血の匂いが充満しているところは前作『サロメ』と同じだが、音楽は凶暴さを増している。原作・台本を手掛けたのは、オーストリアの詩人フーゴ・フォン・ホフマンスタール。彼はこの後、『ばらの騎士』、『ナクソス島のアリアドネ』、『影のない女』、『エジプトのヘレナ』、『アラベラ』でもシュトラウスと組むことになる。
アガメムノンの娘エレクトラの物語は、長年シュトラウスの関心の的だったようだ。学生時代には、ソフォクレスの『エレクトラ』の一部に曲をつけたこともある。そんな彼が新たに書かれたホフマンスタール版の『エレクトラ』を観て作曲意欲を刺激されたのは当然の成り行きだった。オペラ用の台本の最終稿が送られてきたのは1908年6月のことで、総譜が完成したのは同年9月22日。初演は1909年1月25日、エルンスト・フォン・シュフの指揮によって行われた。
『エレクトラ』には優しく美しい旋律もあるが、支配的なのは怒り、苦しみ、恐怖の雰囲気である。鞭の音、激しい悲しみ、怨念のような怒り、肉体を引き裂くような暴力、断末魔の悲鳴、喜びと狂気の踊りが、歌とオーケストラで表現され、観る者を震撼させる。ただし、その音楽は格調高く、隙がなく、引き締まっている。節度がなく、やりたい放題やっているようでも、下品さに流れることはない。
古代ギリシャのミケーネの王アガメムノンは、妻クリテムネストラとその愛人エギストによって殺害された。父を失った王女エレクトラは、身を窶しながら、復讐の時が来るのを待っている。妹クリソテミスと弟オレストの3人で仇を討つことがエレクトラの夢なのだ。が、クリソテミスは普通に結婚し、子供を産みたいと願っている。オレストは姿を消していて消息がわからない。
母クリテムネストラがやってくる。彼女は夫を殺した罪の意識から悪夢に苛まれ、オレストの存在を恐れ、精神が不安定になっていた。エレクトラは「あなたが眠るためには首から血を流さなければならない」と言い放つ。と、侍女が現れ、オレストが死んだことを告げる。クリテムネストラは歓喜する。エレクトラはその知らせに愕然とし、妹のクリソテミスに二人で仇を討とうと持ちかける。しかし、クリソテミスは尻込みしてしまう。
エレクトラは一人で復讐すべく、土の中に埋めていた斧を取り出そうとする。そこへ一人の男が近寄ってくる。実は、この男こそオレストだった。母と愛人を油断させるため、死んだという嘘を広めたのである。オレストは城に入り、クリテムネストラを殺害、悲鳴が響き渡る。まもなくエギストが現れるが、彼もオレストたちによって殺される。かくして復讐は遂げられた。エレクトラは興奮して踊り出し、やがてその場に倒れこむ。
『サロメ』と同じ一幕物ということもあり、上演時間は2時間に満たない。しかし、その音楽的体験は長時間のオペラでも味わえないほど甚大かつ強烈である。エレクトラが登場する際のモノローグ「ひとりだ!たったひとりだ!」の場面で鳴り響く独創的な和音など、あまりに意表をつく発想で、最初に聴いた時はドキッとさせられたものだ。
このモノローグのクライマックスでは、エレクトラの感情が極限まで膨れ上がって爆発する。復讐を遂げる場面の音楽も、猛烈な迫力に満ちている。度を失った人間の激越な感情がここまでむき出しになって表現された例は、そうそうない。一体、こんなスコアをどういう心理状態で書いていたのだろう。
『エレクトラ』で最も感動的なのは、オレストとの再会の場面である。エレクトラがまず驚いて「オレスト!」と叫んだ後、感情の起伏が如実に示される。そして気持ちを落ち着かせたエレクトラが二回目に優しく感激に満ちた調子で、「オレスト」と呼ぶと、しばらくの間、美しい音楽に覆われる。ここで身を窶したエレクトラが自分語りをするのだが、その歌は気品と恥らいと哀しみをたたえたものでなければならない。演者には難しい場面であり、見せ場でもある。
このオペラには許しの感情がない。復讐しても虚しいだけだとか死んだ人は喜ばないといった倫理や理屈は介在しないのだ。仇は必ず討たなければならない。血で血を洗うことに囚われた者たちの叫びは、見た目を取り繕った現代に生きる我々の意識の根源にも訴えるものがある。
私が初めて聴いたのは、フリッツ・ライナー指揮、シカゴ響による抜粋盤(1956年録音)である。この演奏の爆発力に驚愕し、世の中にはこんな音楽があるのかと感動し、『エレクトラ』の世界に足を踏み入れた。全曲録音の中では、ディミトリ・ミトロプーロス指揮、ウィーン・フィルによるザルツブルク音楽祭での演奏(1957年8月ライヴ録音)、カール・ベーム指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによる演奏(1960年録音)が素晴らしい。いずれもタイトルロールを務めているのは、ドイツ出身のインゲ・ボルク。ドラマティックであるだけでなく、王女の気品漂う声質と歌い方が、この役にはまっている。喚いているだけだと耳が痛くなるけど、ボルクの歌唱ではそうはならない。
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルによる録音(1967年録音)は目の覚めるような快演だ。エレクトラ役はビルギット・ニルソン。精密さと凶暴さを両方兼ね備えた演奏で、鮮烈な音響が聴き手を襲う。ライナーが指揮し、アストリッド・ヴァルナイがエレクトラを務めた全曲盤(1952年ライヴ録音)もある。音質は良くないが、ライナーらしいシャープな描写力は聴き取れる。戦前のエレクトラ歌手、ローゼ・パウリーによる歌唱の音源(1937年3月ライヴ録音/コンサート形式)も残されている。強めのヴィヴラートが気になるが、声質は魅力的で品格がある。
オペラは映像で観たいという人には、ゲッツ・フリードリッヒ演出、ベーム指揮、ウィーン・フィルのユニテル版(1981年収録)がお薦めだ。エレクトラを歌っているのはレジーナ・レズニック。画調はひたすら暗く寒々しいが、歌唱と演奏には渾身の力がこもっている。
(阿部十三)
【関連サイト】
リヒャルト・シュトラウス
[1864.6.11-1949.9.8]
歌劇『エレクトラ』
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
インゲ・ボルク、パウル・シェフラー、
フランセス・イーンド
フリッツ・ライナー指揮
シカゴ交響楽団
録音:1956年4月
インゲ・ボルク、ジーン・マデイラ、
リーザ・デラ・カーザ、クルト・ベーメ
ディミトリ・ミトロプーロス指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1957年8月(ライヴ)
インゲ・ボルク、ジーン・マデイラ、
マリアンネ・シェヒ、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
カール・ベーム指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1960年
[1864.6.11-1949.9.8]
歌劇『エレクトラ』
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
インゲ・ボルク、パウル・シェフラー、
フランセス・イーンド
フリッツ・ライナー指揮
シカゴ交響楽団
録音:1956年4月
インゲ・ボルク、ジーン・マデイラ、
リーザ・デラ・カーザ、クルト・ベーメ
ディミトリ・ミトロプーロス指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1957年8月(ライヴ)
インゲ・ボルク、ジーン・マデイラ、
マリアンネ・シェヒ、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
カール・ベーム指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1960年
月別インデックス
- November 2024 [1]
- October 2024 [1]
- September 2024 [1]
- August 2024 [1]
- July 2024 [1]
- May 2024 [1]
- April 2024 [1]
- March 2024 [1]
- January 2024 [1]
- December 2023 [1]
- November 2023 [1]
- October 2023 [1]
- September 2023 [1]
- July 2023 [1]
- June 2023 [1]
- May 2023 [1]
- March 2023 [1]
- January 2023 [1]
- December 2022 [1]
- October 2022 [1]
- September 2022 [1]
- August 2022 [1]
- July 2022 [1]
- May 2022 [1]
- March 2022 [1]
- February 2022 [1]
- December 2021 [1]
- November 2021 [1]
- October 2021 [1]
- September 2021 [1]
- July 2021 [1]
- June 2021 [1]
- May 2021 [1]
- March 2021 [1]
- February 2021 [1]
- December 2020 [1]
- November 2020 [1]
- October 2020 [1]
- July 2020 [1]
- June 2020 [1]
- May 2020 [1]
- April 2020 [1]
- February 2020 [1]
- January 2020 [1]
- December 2019 [1]
- October 2019 [1]
- September 2019 [2]
- August 2019 [1]
- June 2019 [1]
- April 2019 [1]
- March 2019 [1]
- February 2019 [1]
- December 2018 [1]
- November 2018 [1]
- October 2018 [1]
- September 2018 [1]
- July 2018 [1]
- June 2018 [1]
- April 2018 [1]
- March 2018 [2]
- February 2018 [1]
- December 2017 [5]
- November 2017 [1]
- October 2017 [1]
- September 2017 [1]
- August 2017 [1]
- June 2017 [1]
- May 2017 [2]
- April 2017 [2]
- February 2017 [1]
- January 2017 [2]
- November 2016 [2]
- September 2016 [2]
- August 2016 [2]
- July 2016 [1]
- June 2016 [1]
- May 2016 [1]
- April 2016 [1]
- February 2016 [2]
- January 2016 [1]
- December 2015 [1]
- November 2015 [2]
- October 2015 [1]
- September 2015 [2]
- August 2015 [1]
- July 2015 [1]
- June 2015 [1]
- May 2015 [1]
- April 2015 [1]
- February 2015 [2]
- January 2015 [1]
- December 2014 [1]
- November 2014 [2]
- October 2014 [1]
- September 2014 [1]
- August 2014 [2]
- July 2014 [1]
- June 2014 [2]
- May 2014 [2]
- April 2014 [1]
- March 2014 [2]
- February 2014 [2]
- January 2014 [2]
- December 2013 [1]
- November 2013 [2]
- October 2013 [2]
- September 2013 [1]
- August 2013 [2]
- July 2013 [2]
- June 2013 [2]
- May 2013 [2]
- March 2013 [2]
- February 2013 [1]
- January 2013 [2]
- December 2012 [2]
- November 2012 [1]
- October 2012 [2]
- September 2012 [1]
- August 2012 [1]
- July 2012 [3]
- June 2012 [1]
- May 2012 [2]
- April 2012 [2]
- March 2012 [2]
- February 2012 [3]
- January 2012 [2]
- December 2011 [2]
- November 2011 [2]
- October 2011 [2]
- September 2011 [3]
- August 2011 [2]
- July 2011 [3]
- June 2011 [4]
- May 2011 [4]
- April 2011 [5]
- March 2011 [5]
- February 2011 [4]