ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
2022.03.05
フランス語で「Pathétique」
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」は、1797年から1798年の間に作曲され、1799年に出版された。作曲者がまだ20代の頃の作品である。標題は原語で「Grande Sonate pathétique」、つまり正確には「大ソナタ悲愴」となる。ベートーヴェンのピアノ・ソナタには「月光」、「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「熱情」など標題が付いているものが少なくないが、作曲者自身が付けた、もしくは、公認したのは、第8番の「悲愴」と第26番の「告別」のみである。
ただ、「悲愴」と言いながらも、これは悲愴感に浸るような音楽ではない。運に見放されて悲嘆に暮れる人間の音楽というよりも、困難に立ち向かい苦しみ焦燥する人間の姿が浮かび上がる音楽であり、どこかヒロイックな趣がある。標題をフランス語にしたところも若い感覚のように私には感じられる。主調はハ短調。ちなみにベートーヴェンがピアノ・ソナタでハ短調を主調としたのは、第5番、第8番、そして最後の第32番である。
第1楽章はグラーヴェ-アレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオ。まず序奏が荘重に始まり、暗い悲愴感が濃厚に漂う。序奏が10小節まで続くと、情熱的な主部に入り、トレモロ奏法の上を駆けるように第1主題が提示される。さらに軽やかだが翳りのある第2主題が現れる。その後、高揚感に包まれた後、序奏の動機、展開部、再現部を経て、また序奏の動機が登場し、最後は第1主題を以て締め括られる。
第2楽章はアダージョ・カンタービレ。3部形式。第1楽章のハ短調に対して、第2楽章を変イ長調にするのは、交響曲第5番「運命」と同じである。主題はやさしく美しい。映画に使われたり、歌詞をつけて歌われたりしているので、「悲愴」は知らなくてもこのメロディーなら知っている、という人は多いだろう。中間部ではやや切迫感のある変イ短調の主題が現れ、暗い熱気を帯びるが、冒頭の美しい主題が再現されて穏やかに終わる。
第3楽章はロンド、アレグロ。ハ短調で奏でられる第1主題は、第1楽章の第2主題に似ている。この後、穏やかな趣の第2主題が変ホ長調で登場。第1主題に戻った後、今度は変イ長調で第3主題が現れる。第3主題には対位法的技法が見られるが、すぐにダイナミックな経過部に移り、第1主題がまた再現される。次いでハ長調で第2主題が再現されると、明るい雰囲気になるが、最後は第1主題を回想し、悲劇に直下するようにして曲を閉じる。
「悲愴」という副題は、第1楽章の序奏に由来したものではないかと言われている。たしかに冒頭の和音が鳴るだけで雰囲気が重くなる。序奏だけでなく、第3楽章の終わり方も悲劇的だ。突然の崩壊を告げるような容赦の無さを感じさせる。ただ、そういった表現をやたら強調している演奏を聴くと、過剰に演出された悲劇のようになり、全てが嘘臭くなる。
余談だが、冒頭の動機はチャイコフスキーの交響曲第6番の主題に似ている。ひょっとしてベートーヴェンの「悲愴」を意識していたから、自作の副題を「悲愴」にしたのだろうか。本人の証言がないので何とも言えないが、個人的にはそう思いたいところである。ちなみにベートーヴェンと同じく、フランス語の「pathétique」をチャイコフスキーも手紙等で用いていた。
私が好きな演奏は6、7種類くらいある。まずヴィルヘルム・バックハウス(1958年録音)とヴィルヘルム・ケンプ(1965年録音)。2人とも誇張的な表現を排除している。第1楽章の序奏も重くない。精神を研ぎ澄まして肩に力を入れずに音楽の中に入っている印象だ。ルドルフ・ゼルキンの演奏(1962年録音)も素晴らしい。音の響きには気迫がこもっているが、造型はしっかりしているし、繊細さも失っていない。
エミール・ギレリスの演奏(1980年録音)は、「悲愴」というより「悲劇的」という感じで、硬質な音の尖端でフレーズをえぐる。甘美なはずの第2楽章があっさりしているのは、悲劇寄りの表現にするための方針なのだろう。この作品を好んでいなかったグレン・グールドの演奏(1966年録音)は冗談のような疾走ぶりで有名だが、第2楽章の強弱の付け方には天邪鬼な、屈折したロマンティシズムがあらわれている。
ウラディミール・ホロヴィッツの演奏(1963年録音)は、第1楽章序奏を再現する際の間の取り方、第2主題を奏でる典雅なタッチが耳に残る。第2楽章と第3楽章で弱音を繊細に扱い、派手な表現に走らないところも好印象。マウリツィオ・ポリーニの演奏(2003年録音)は情熱的な内容で、残響の効果もあって強音の響きが分厚い。第2楽章は速めのテンポで、切ない叙情味があるが、ピアノの音自体は明るい。
(阿部十三)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
[1770.12.16?-1827.3.26]
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ルドルフ・ゼルキン(p)
録音:1962年12月
ウラディミール・ホロヴィッツ(p)
録音:1963年11月
[1770.12.16?-1827.3.26]
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ルドルフ・ゼルキン(p)
録音:1962年12月
ウラディミール・ホロヴィッツ(p)
録音:1963年11月
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