エルガー 『エニグマ変奏曲』
2022.09.04
音楽で描かれた14人
『エニグマ変奏曲』は1898年から1899年にかけて作曲され、同年6月19日、ハンス・リヒターの指揮によって初演された。正式なタイトルは「管弦楽のための独創主題による変奏曲」。楽譜の冒頭に「エニグマ(謎)」と記されていたことから、それが通称となった(作曲家もその通称を受け入れたという)。日本ではしばしば「〈謎〉変奏曲」と訳される。ちなみにリヒターによる初演の後、エルガーは改訂を行い、最終稿は1899年9月13日に作曲者自身の指揮によって披露された。当時42歳だったエルガーは作曲家としての地位を確立した。
この作品は、主題と14の変奏で構成され、各変奏には家族、友人の名前の頭文字や言い換えなどが標題的に付いている。この風変わりな着想が浮かんだのは、1898年10月、エルガーが食後にピアノを弾いているときのこと。妻のキャロラインがピアノのフレーズを気に入り、もう一度聴かせてくれるように言い、エルガーが自分の友人たちのイメージやキャラクターに合わせて、様々にアレンジして弾いてみせたのである。夫婦の楽しげなやりとりが目に浮かぶエピソードだ。
エルガー自身は、「必ずしも音楽家ばかりではない14人の友達を面白がらせ、また自分が楽しむ目的で、彼らの特徴を各変奏の中に描写したことは事実である」と証言し、個人名を伏せたまま、曲を14人に捧げた。この謎については、まもなく研究者たちによって解明され、個人名も明らかにされた。エルガーによると、「全曲を通じて演奏されない別の大きな主題がある」らしいが、それが何なのかは今もって判然としない。ミステリー作家にでも取り上げてほしい題材だ。
「自分の周囲の人をイメージした音楽」と言われると、何かこじんまりした私小説のような作品を思い浮かべたくなるが、実際のところは全く逆だ。スケールは壮大、しかも一つ一つの変奏が魅力的に書かれている。作曲家としてやっていけるかどうか不安があった時に、個人的な体験を見つめ直し、自分にしか書けない自分らしい音楽を改めて追求したことが良かったのだろう。この作品は、しばしば先行する変奏曲作品と比較されるが、それよりはムソルグスキーの『展覧会の絵』の方に近いと思う。
主題はト短調で、メランコリックな雰囲気を持っている。ただ、その後に続くト長調のフレーズは優美である。第1変奏〈C.A.E.〉はキャロライン・アリス・エルガー、つまりエルガー夫人のことである。温かみと包容力のある音楽で、内にロマンティックな情熱を秘めた人物像が浮かんでくる。第2変奏〈H.D.S-P.〉はアマチュア・ピアニストのヒュウ・デイヴィッド・ステュアート=ポウエル。大胆な変奏で、16分音符で戯画化され、ユーモラスな後味を残す。第3変奏〈R.B.T.〉はアマチュア俳優のリチャード・バクスター・タウンゼント。低い声がファゴットで表現され、曲の調子は勇壮になったり気難しくなったりする。
第4変奏〈W.M.B.〉は学者のウィリアム・ミーズ・ベイカー。精力的な人物だったらしく、活発で豪快な性格の曲となっている。第5変奏〈R.P.A.〉は有名な詩人の息子、リチャード・ペンローズ・アーノルド。「彼との真面目な会話は、気まぐれな冗談によって頻繁に中断される」(エルガーの言葉)様子が描写され、荘重さと軽快さが混在した不思議な世界が広がっている。第6変奏〈Ysobel〉はヴィオラ奏者のイザベル・フィットン。ヴィオラが活躍する明るく優美な曲である。第7変奏〈Troyte〉は建築家のアーサー・トロイト・グリフィス。ティンパニの猛打で荒々しく盛り上がるが、エルガーによると、これは一種の冗談で、トロイトは荒々しい人ではなかったようだ。
第8変奏〈W.N.〉はウィニフレッド・ノーブリー。古い建物に住む女性で、その優雅な雰囲気が木管のフレーズで表現され、特徴的な笑い声も再現されている。第9変奏〈Nimrod〉は親友のアウグスト・ヨハネス・イェーガー。「ニムロッド」は旧約聖書に出てくる狩の名手のことで、「イェーガー」もドイツ語で「狩人」を意味する。ベートーヴェンの緩徐楽章の素晴らしさについて語る親友への共感と敬意が込められた音楽で、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」の第2楽章が暗示されている。第10変奏〈Dorabella〉はドーラ・ペニー。愛称の由来はモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の登場人物である。愛らしく幻想的で軽やかな間奏曲だ。
第11変奏〈G.R.S.〉はオルガニストのジョージ・ロバートソン・シンクレア。シンクレアが飼っていたブルドッグが疾走して川に飛び込む様子が描かれている。第12変奏〈B.G.N.〉はチェロ奏者のベイジル・G・ネヴィンソン。メランコリックなチェロの旋律が沁みる曲だ。第13変奏〈* * *〉の人物は謎。モデラートのロマンツァで、最初は明るいが、雰囲気が一変し、得体の知れない驚異の前兆と官能のざわめきのようなものでゾクゾクさせる。メンデルスゾーンの『静かな海と楽しい航海』の主題が引用されていることから、ここで描かれているのは船で旅立った女性(女友達のレディ・メアリー・ライゴンか、元婚約者のヘレン・ウィーヴァー)と推理されている。第14変奏〈E.D.U.〉はエドゥー、自分自身のこと。勇ましく始まり、自分の人生に欠かせない第1変奏と第9変奏が回想され、やがて力強さを増し、オルガンを伴った壮大なクライマックスを築く。
録音が多いので何を聴けば良いのか迷うが、この作品を得意とした4人のイギリスの指揮者(トーマス・ビーチャム、エイドリアン・ボールト、マルコム・サージェント、ジョン・バルビローリ)が指揮したものなら、どれを聴いても満足感を得られると思う。私が好きなボールトとバルビローリの録音は少なくとも5種類以上ある。ボールト盤の中では、1961年にロンドン・フィルを指揮したものが理想的だ。表現意欲が旺盛で、叙情性も迫力もある。ただ、包み込むような優しさがあるのは、1970年にロンドン響を指揮したもので、人生が美しく総括されていくような感覚を抱かせる。「ニムロッド」も感動的だ。バルビローリ盤では、1956年にハレ管を指揮したものが情感豊かで、歌心に満ちている。表現は成熟しているが予定調和の演奏ではなく、クレッシェンド毎にオーケストラの音が情熱的にうねっている。
ピエール・モントゥーも『エニグマ変奏曲』を十八番としていた人で、やはり録音は5種類以上ある。その中では、1962年にロンドン響を指揮した時のライヴ録音が圧巻だ。気迫のこもった演奏で、しかも統率が取れている。「ニムロッド」で過剰な演出をしていないところも好感が持てる。第12変奏ではチェロ、第13変奏ではヴァイオリンのフレージングが絶妙で、濃厚な味わいがある。こんな演奏をコンサートでやってのける指揮者が86歳とは......。ゲオルク・ショルティが晩年にウィーン・フィルを指揮したものも素晴らしい。主題を聴くだけでこのオケの音の美しさに酔わされるし、ショルティもフレーズを慈しむように指揮している。「ニムロッド」は微かな弱音で始まり、速めのテンポで盛り上がる。オイゲン・ヨッフム指揮が1975年にロンドン響を指揮したものは、スケールの大きな演奏になっていて、テンポは遅めだが、無駄な弛みは一切ない。楽器の音にやさしさが感じられる。
「これは」と思う演奏には、だいたい英国の指揮者、もしくは英国のオーケストラが関わっている。エルガー自身が1926年に指揮した貴重な音源もある。ポルタメントが多用されているので、好みは分かれるだろう。第1変奏が丁寧に、熱い思いを込めて演奏されているのが印象的で、キャロラインへの思いを感じさせた。21世紀以降では、オリジナル版を取り上げたマーク・エルダー盤(2002年録音)が品の良い情緒に溢れていて良い。主題のフレージングには、エルガー自身の録音からの影響がうかがえる。
【関連サイト】
エドワード・エルガー
[1857.6.2-1934.2.23]
『エニグマ変奏曲』(管弦楽のための独創主題による変奏曲)
【お薦めの演奏】(掲載ジャケット:上から)
ジョン・バルビローリ指揮
ハレ管弦楽団
録音:1956年
エイドリアン・ボールト指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1961年
ピエール・モントゥー指揮
ロンドン交響楽団
録音:1962年(ライヴ録音)
[1857.6.2-1934.2.23]
『エニグマ変奏曲』(管弦楽のための独創主題による変奏曲)
【お薦めの演奏】(掲載ジャケット:上から)
ジョン・バルビローリ指揮
ハレ管弦楽団
録音:1956年
エイドリアン・ボールト指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1961年
ピエール・モントゥー指揮
ロンドン交響楽団
録音:1962年(ライヴ録音)
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