音楽 CLASSIC

ショスタコーヴィチ 交響曲第6番

2024.07.08
抑えられない創作意欲

Shostakovich 6 j1
 ショスタコーヴィチの交響曲第6番は1939年に作曲され、1939年11月5日にエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルにより初演が行われた。大成功を収めた前作の第5番に比べると芳しい評価は得られなかったが、ショスタコーヴィチらしい革新性と諧謔性が十全に発揮された傑作である。

 作曲者自身の言葉によると、第6番は「春や喜びや生命の気分をあらわそうとした」ものらしいが、本音かどうかはわからない。形式主義だという批判が起こることを予測し、避けるためにそのように説明した可能性もある。当時のソ連における形式主義とは、平たく言うと、社会主義的でないこと、大衆への訴えかけが不足していることを指し、「形式主義者」のレッテルを貼られた芸術家は忌避された。実際、ショスタコーヴィチは1936年に批判の的となり、仕事が激減したことがある。

 しかしながら、第6番には音楽を通じて「人民に奉仕する」という信条よりも、芸術家として純粋に書きたいから書いてみたという創作意欲が漏れ出ている。まず第1楽章がラルゴ、第2楽章がアレグロ、第3楽章がプレストで、(ベートーヴェンの月光ソナタのように)作品全体を通して徐々に速度が上がっていく構成になっている。しかも第1楽章はソナタ形式ではない。第3楽章ではタンバリンが派手に鳴らされ、大騒ぎになる。魔女狩りのような形式主義批判を過度に恐れていたら、このような音楽は書かないだろう。

 第1楽章はラルゴ。ロ短調。交響曲の第1楽章としては異例とも言える長大な緩徐楽章である。冒頭で木管、ヴィオラ、チェロが抒情的な主題を奏で、暗く荘重な雰囲気が漂う。その後、様々な楽器が哀しげな旋律を奏でては消える。中間部に相当するところでは、弦楽器によるトリルが続く中、フルートが冒頭主題から派生した旋律を奏でる。不気味で寂しげな世界観だ。中間部を過ぎると、冒頭主題とそこから派生した旋律が静かに往来し、やがて美しい響きの中に溶け込んでいく。

 第2楽章はアレグロ。ト長調。スケールの大きなスケルツォ的な楽章である。小クラリネットが主題を奏でた後、様々な旋律がリズミカルに躍動し、せわしなく変奏される。様々な楽器が活躍するだけでなく、木管がマーラー風に響いたり、聖歌「願わくば、神おきたまえ」を思わせるフレーズが少しだけ現れたりしながら、徐々に勢いをつけて高揚する。クライマックスでの壮烈なティンパニのソロを経て、再び冒頭の旋律が再現され、前半が繰り返されるのかと思いきや、大幅にひねりが加えられ、シニカルな雰囲気が漂う。

 第3楽章はプレスト。ロ長調。ギャロップ風の激しい音楽で、冒頭のロンド主題が何度も繰り返される。この主題から発展した複数の旋律が交錯していく中、タンバリンやシロフォンが加わり、アンサンブルは華やかさを増す。やがて豪壮なトゥッティに達すると静かになり、細かくリズムを変えながら進行する。まもなくヴァイオリン独奏が始まり、冒頭主題を導き、前半が再現される。コーダでは前半に現れた旋律がバッカス的な放埒さを以て再現され、豪快な盛り上がりをみせる。最終的には血湧き肉躍る狂宴となって曲を閉じる。

 暗く重たい調子で始まり、輝かしく終わるという構成は、「苦悩から勝利へ」というメッセージに結びつけて考えられることが多いが、この作品からはむしろ諧謔性やアイロニーのようなものを感じる。始まりを暗く、終わりを明るくして、「苦悩から勝利へ」のパターンに即しているように見せながら、アクロバティックな音楽的表現を試みているような印象さえある。前作の第5番で表現された「社会主義リアリズム」に感動した観客は、おそらく第6番の放埒さに面食らい、困惑したことだろう。

 1953年にスターリンが亡くなった後、ショスタコーヴィチは交響曲第10番を書いた。その評価をめぐる論争が起こった時、作曲家は「私は第10番で人間の感情と情熱を描きたかった」と語った。この発言は第6番にも当てはまるかもしれない。人間の感情は型にはまったものではなく、こうあるべきという抑圧のもとでは苦しくなる。音楽も然りだ。使命感や義務感だけでは良いものは生まれない。ショスタコーヴィチが意識していたかどうかはともかく、フィナーレの爆発力にはそんな窮屈な抑圧を蹴散らす勢いがある。

 名盤とされる音源のほとんどは、ロシア出身の指揮者が遺したものである。特に初演を務めたエフゲニー・ムラヴィンスキー、キリル・コンドラシン、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが指揮したものは、どれもアンサンブルが引き締まっていて、凄まじい緊張感があり、強弱のメリハリが尋常でなく、ダイナミックだ。中庸の境界線を軽々と超えていくところが、聴いていて心地よい。私がよく聴くのは、コンドラシンが来日公演で指揮した1967年盤。一切もたつくことなくスマートに進行するところが好みである。強音は苛烈で申し分なく、弱音の冷たい美しさも耳にしみる。

Shostakovich 6 j2
 マリス・ヤンソンス指揮、バイエルン放送響の演奏(2013年ライヴ録音)はスケールが大きいだけでなく、楽器の響きも美しい。第1楽章冒頭から深みのあるアンサンブルで魅了する。弦の細かい動きにもニュアンスがあり、木管の音を重ねていく手際も繊細。第1楽章がここまで幻想的に演奏された例は少ないのではないか。ただ、強音ではゾッとするほど迫力を増し、熱烈なエネルギーが噴き出す。第2楽章、第3楽章のトゥッティは特に圧巻で、音楽が荒波のように押し寄せてくる。打楽器の響きが鋭いだけでなく、重みがあるところも素晴らしい。

 パーヴォ・ベルグルンド盤、アンドリス・ネルソンス盤も多くの人に聴かれるべき名演奏。エネルギーや勢いだけでなく、作品の細部も丁寧に表現している。ほかにもベルナルト・ハイティンク盤、ネーメ・ヤルヴィ盤、ヴァシリー・ペトレンコ盤など良い演奏はたくさんある。録音に関する限り、比較的当たり外れのない作品だと思う。
(阿部十三)


【関連サイト】
Shostakovich Symphony No.6(CD)
ドミトリ・ショスタコーヴィチ
[1906.9.25-1975.8.9]
交響曲第6番 ロ短調 作品54

【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
キリル・コンドラシン指揮
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1967年(ライヴ)

マリス・ヤンソンス指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:2013年(ライヴ)

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