カルロス・クライバー 〜生ける伝説と呼ばれた男〜
2011.02.26
20世紀に活躍したスターたちを見送るのは辛いことである。これはクラシックのジャンルに限った話ではない。21世紀になり、自分たちが生まれる前から当然のように存在し、第一線で活躍していた人たちが、次々と寿命を迎えている。年齢を考えれば仕方ないことなのかもしれないが、そうと分かってはいても寂しい限りである。と同時に、偉大なる20世紀の巨星を見送るのが自分たちの世代の役割なのかとも思う。その真価を21世紀に伝えることが出来るギリギリの世代に生まれた者として。
大指揮者と呼ばれた人の大半は、20世紀に亡くなっている。21世紀に亡くなったのは、パッと思い出せる範囲で言うと、朝比奈隆、ギュンター・ヴァント、カルロス・クライバー、カルロ・マリア・ジュリーニ、ジャン・フルネ、ルドルフ・バルシャイ。大指揮者の定義も人によっていろいろなので、誰も彼もというわけにはいかないが、彼らをそう呼んで異論のある人はほとんどいないだろう。
私が最もショックを受けたのは、カルロス・クライバーの死である。まだ70代前半だった。亡くなるまでの数年間は指揮台に上がることもなく、闘病生活を続けていたという。
滅多にコンサートを行わず、生ける伝説などと呼ばれていた人だけに、今後いつ再び我々の前に登場するか、あまり期待はできなかった。それでも、心のどこかで「カルロスがまたコンサートを開いてくれるんじゃないか」と、ファンはどうしてもそう思わずにはいられなかった。そんなはかない望みをかけることに人生の楽しみを感じていた人も多いはずだ。私もその一人だった。極端なことを言えば、コンサートを開かなくてもいいから、ずっと生きていて、我々を期待させたままにしておいてくれればよかった。ファンにとってカルロス・クライバーとはそれくらいの存在だったのである。しかし、2004年の7月13日にそれも終わってしまった。
クライバーという人はそのキャリアからして変わっていた。父は戦前にベルリン国立歌劇場の音楽監督を務めた名指揮者、エーリッヒ・クライバー。幼いカルロスは、ナチスの政策に反抗した父に伴われ、ブエノスアイレスに移住。1952年、22歳の時にラ・プラタの劇場で初指揮を体験し、2年後にはポツダムの劇場でオペレッタを振り、ヨーロッパ・デビュー。その際、著名なエーリッヒの息子であることを隠し、カール・ケラーという偽名を使っていた。それから間もなくライン・ドイツ・オペラの指揮者となり、以後チューリヒ歌劇場、ヴュルテンベルク州立歌劇場、バイエルン州立歌劇場を渡り歩く。音楽以外の責任(オーケストラや歌劇場に付き物の政治的な面倒事)を負うことを拒否し、常任指揮者や音楽監督などの要職には就こうとしなかった。名声が高まったのは60年代後半から。レパートリーが狭く、コンサートの数が少なく、キャンセル魔で、録音恐怖症で、インタビュー嫌いで、それでも、いったん指揮台に立てば華麗なタクトで観客も評論家も虜にしてしまう。彼こそ真の意味でのカリスマであった。
ちなみに、自分の活動スタイルについて、クライバーは独特のユーモアを交え、「腹が減った時だけ、指揮をやる」と語っていたらしい。この一見身も蓋もない言葉が意味するものは、ポストにしがみつき、スケジュールに流され、音楽活動をルーティン・ワークのようにこなしている人々への静かな反発であり、そういうことを当然のようにさせているクラシック界という名のビジネス社会に対する自分なりの態度表明でもあった、と私は思う。日本には74年に初来日。旅行嫌いのわりに5回も来日した。最後の来日公演となったのは94年の『薔薇の騎士』である。
クライバーの録音で正規盤として出ているのは10枚余りにすぎない。ベートーヴェン、ウェーバー、シューベルト、ブラームス、ワーグナー、ヴェルディ、J.シュトラウスII世......そのどれもが密度が濃く、驚くほど鮮明で、生命感にあふれ、作品の魅力を満喫させる演奏だ。どうすればこんな表現が可能になるのか。その辺に興味がある方は、南ドイツ放送交響楽団(シュトゥットガルト放送交響楽団)のリハーサル模様と本番を収録した映像があるので、そちらを見ることをおすすめする。オーケストラに執拗なまでに指示を与える若きクライバーの姿が眩しいかぎりである。『魔弾の射手』のリハーサル中、彼は言う。「おカタイ演奏に傾きつつあるようだ。それは一番避けたかったことですね。無難にすませるくらいなら、批判されて殴られる方がマシです」。綿密なリハーサルをしておきながら予定調和を嫌う彼の音楽との向き合い方がよく表れた言葉である。
私にとってクライバーとはまずオペラの指揮者であり、その録音の中から一枚を選ぶとすれば、どうしても『トリスタンとイゾルデ』ということになる。それまでワーグナーの世界にあと一歩どうしても踏み込めずにいた私を、クライバーはこの演奏によってワグネリアンへと変貌させてしまった。いわゆる絶叫型のワーグナー歌手と異なるマーガレット・プライスがイゾルデ役を歌っていたのも、当時の私には消化しやすかった。
今聴き直しても、やはり文句のつけようがない。細部のニュアンスにこだわりながら、全体の流れとダイナミズムを殺すことなく、この情念の怪物のような入り組んだ音楽を、鮮烈かつ奥行き感たっぷりに聴かせる。一言でいえば、繊細で大胆。こんなことを『トリスタン』で他の指揮者がやったら、神経がすり減って気が狂ってしまうに違いない。それをクライバーは巧みなアゴーギクを駆使して、生き生きと振ってみせるのである。
カルロス・クライバーはもういない。しかし、こういう音源が存在するだけでも、19世紀以前の人とはずいぶん環境が違う。その遺産がある分、私たちはまだ恵まれている。反面、そんな過去の指揮者の音源が絶賛され続けているために、新しいスターや新しい名盤が生まれにくくなっているのではないか、という見方も出来るわけだが。
【関連サイト】
Erich & Carlos Kleiber Page(英語)※日本語あり
大指揮者と呼ばれた人の大半は、20世紀に亡くなっている。21世紀に亡くなったのは、パッと思い出せる範囲で言うと、朝比奈隆、ギュンター・ヴァント、カルロス・クライバー、カルロ・マリア・ジュリーニ、ジャン・フルネ、ルドルフ・バルシャイ。大指揮者の定義も人によっていろいろなので、誰も彼もというわけにはいかないが、彼らをそう呼んで異論のある人はほとんどいないだろう。
私が最もショックを受けたのは、カルロス・クライバーの死である。まだ70代前半だった。亡くなるまでの数年間は指揮台に上がることもなく、闘病生活を続けていたという。
滅多にコンサートを行わず、生ける伝説などと呼ばれていた人だけに、今後いつ再び我々の前に登場するか、あまり期待はできなかった。それでも、心のどこかで「カルロスがまたコンサートを開いてくれるんじゃないか」と、ファンはどうしてもそう思わずにはいられなかった。そんなはかない望みをかけることに人生の楽しみを感じていた人も多いはずだ。私もその一人だった。極端なことを言えば、コンサートを開かなくてもいいから、ずっと生きていて、我々を期待させたままにしておいてくれればよかった。ファンにとってカルロス・クライバーとはそれくらいの存在だったのである。しかし、2004年の7月13日にそれも終わってしまった。
クライバーという人はそのキャリアからして変わっていた。父は戦前にベルリン国立歌劇場の音楽監督を務めた名指揮者、エーリッヒ・クライバー。幼いカルロスは、ナチスの政策に反抗した父に伴われ、ブエノスアイレスに移住。1952年、22歳の時にラ・プラタの劇場で初指揮を体験し、2年後にはポツダムの劇場でオペレッタを振り、ヨーロッパ・デビュー。その際、著名なエーリッヒの息子であることを隠し、カール・ケラーという偽名を使っていた。それから間もなくライン・ドイツ・オペラの指揮者となり、以後チューリヒ歌劇場、ヴュルテンベルク州立歌劇場、バイエルン州立歌劇場を渡り歩く。音楽以外の責任(オーケストラや歌劇場に付き物の政治的な面倒事)を負うことを拒否し、常任指揮者や音楽監督などの要職には就こうとしなかった。名声が高まったのは60年代後半から。レパートリーが狭く、コンサートの数が少なく、キャンセル魔で、録音恐怖症で、インタビュー嫌いで、それでも、いったん指揮台に立てば華麗なタクトで観客も評論家も虜にしてしまう。彼こそ真の意味でのカリスマであった。
ちなみに、自分の活動スタイルについて、クライバーは独特のユーモアを交え、「腹が減った時だけ、指揮をやる」と語っていたらしい。この一見身も蓋もない言葉が意味するものは、ポストにしがみつき、スケジュールに流され、音楽活動をルーティン・ワークのようにこなしている人々への静かな反発であり、そういうことを当然のようにさせているクラシック界という名のビジネス社会に対する自分なりの態度表明でもあった、と私は思う。日本には74年に初来日。旅行嫌いのわりに5回も来日した。最後の来日公演となったのは94年の『薔薇の騎士』である。
クライバーの録音で正規盤として出ているのは10枚余りにすぎない。ベートーヴェン、ウェーバー、シューベルト、ブラームス、ワーグナー、ヴェルディ、J.シュトラウスII世......そのどれもが密度が濃く、驚くほど鮮明で、生命感にあふれ、作品の魅力を満喫させる演奏だ。どうすればこんな表現が可能になるのか。その辺に興味がある方は、南ドイツ放送交響楽団(シュトゥットガルト放送交響楽団)のリハーサル模様と本番を収録した映像があるので、そちらを見ることをおすすめする。オーケストラに執拗なまでに指示を与える若きクライバーの姿が眩しいかぎりである。『魔弾の射手』のリハーサル中、彼は言う。「おカタイ演奏に傾きつつあるようだ。それは一番避けたかったことですね。無難にすませるくらいなら、批判されて殴られる方がマシです」。綿密なリハーサルをしておきながら予定調和を嫌う彼の音楽との向き合い方がよく表れた言葉である。
私にとってクライバーとはまずオペラの指揮者であり、その録音の中から一枚を選ぶとすれば、どうしても『トリスタンとイゾルデ』ということになる。それまでワーグナーの世界にあと一歩どうしても踏み込めずにいた私を、クライバーはこの演奏によってワグネリアンへと変貌させてしまった。いわゆる絶叫型のワーグナー歌手と異なるマーガレット・プライスがイゾルデ役を歌っていたのも、当時の私には消化しやすかった。
今聴き直しても、やはり文句のつけようがない。細部のニュアンスにこだわりながら、全体の流れとダイナミズムを殺すことなく、この情念の怪物のような入り組んだ音楽を、鮮烈かつ奥行き感たっぷりに聴かせる。一言でいえば、繊細で大胆。こんなことを『トリスタン』で他の指揮者がやったら、神経がすり減って気が狂ってしまうに違いない。それをクライバーは巧みなアゴーギクを駆使して、生き生きと振ってみせるのである。
カルロス・クライバーはもういない。しかし、こういう音源が存在するだけでも、19世紀以前の人とはずいぶん環境が違う。その遺産がある分、私たちはまだ恵まれている。反面、そんな過去の指揮者の音源が絶賛され続けているために、新しいスターや新しい名盤が生まれにくくなっているのではないか、という見方も出来るわけだが。
(阿部十三)
【関連サイト】
Erich & Carlos Kleiber Page(英語)※日本語あり
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