音楽 CLASSIC

キリル・コンドラシン 〜ソ連の勇将〜

2012.08.05
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 キリル・コンドラシンの名前は、ダヴィッド・オイストラフやエミール・ギレリスといったソ連の名演奏家たちの協奏曲録音で知った。彼らの伴奏指揮者として必ずといっていいほどコンドラシンの名前が記されていたのである。そのため、私はしばらくの間、コンドラシンに対して「すぐれた伴奏指揮者」というイメージしか抱いていなかった。それが変わったのは、だいぶ経ってからのことである。

 ソ連を代表する大指揮者は誰かと問われて真っ先に思い浮かぶのは、レニングラード・フィルを率いていたエフゲニー・ムラヴィンスキー。コンドラシンはどちらかというとムラヴィンスキーの陰に隠れているようにみえる。しかし、ショスタコーヴィチの交響曲第4番や第13番「バビ・ヤール」を聴けば、そんな印象は過去のものになるだろう。
 コンドラシンが作り出す音楽は、理性と感情が対等にせめぎ合うドラマ。刺さるような緊迫感、明確なダイナミズムが、聴き手に襲いかかる。それでいて音の芯は清澄である。荒れ狂う烈火のような音が発せられる時も、コンドラシンの目は常に大きく見開かれている。オーケストラやソリストの個性、実力を、引き出すだけ引き出して、まるで勇将のように統率する。これらを聴いた当時、私は社会人になったばかりでお金もなかったが、遅れを取り戻すべく、この指揮者の録音をあれこれと探しはじめた。

 キリル・ペトローヴィチ・コンドラシンは1914年3月6日にモスクワに生まれた。指揮に興味を抱いたのは、14歳の時。同じ頃、作曲家、批評家、教師として知られるニコライ・ジリャーエフの個人レッスンを受け、音楽家として目覚める。1931年、モスクワ中央子供劇場で指揮。1932年から1936年まではモスクワ音楽院でボリス・ハイキンに師事。それと並行して1934年ネミローヴィチ・ダーンシェンコ記念モスクワ音楽劇場の副指揮者となり、同年10月プランケットのオペレッタ『コルヌヴィルの鐘』で正式デビュー。1936年から1943年までマールイ劇場、1943年から1956年までボリショイ劇場の常任指揮者として活躍する。1958年には第1回チャイコフスキー国際コンクールの優勝者ヴァン・クライバーンの凱旋公演の指揮者として、アメリカへ。コンドラシンの名前は西側に知られた。
 1960年モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。この辺りから、指揮棒を使うよりも手と目の動きで指揮することを好むようになる。以後、まだ当時のソ連では珍しかったマーラーの交響曲を積極的に取り上げたり、ショスタコーヴィチの交響曲第4番、第13番「バビ・ヤール」といった〈問題作〉の初演を敢行したりと己の信念を貫く活動を展開する。1975年にモスクワ・フィルを退いてからは海外で客演する機会が増え、1978年、ついにオランダへ亡命。アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者となり、精力的にコンサートや録音を行っていたが、それも束の間、1981年3月7日にマーラーの交響曲第1番「巨人」を指揮した後、心臓発作で急逝した。

 亡命後に初めてリリースされたウィーン・フィルとのドヴォルザークの「新世界」や、コンセルトヘボウ管とのボロディンの交響曲第2番は、コンドラシンの熱い音楽性が噴出した録音として広く知られている。前者など、旋律を流さずに切り立たせるかのような指揮ぶりで、最もポピュラーな交響曲のひとつを聴いているような気分に全くならない。絶唱のような「新世界」である。
 とはいえ、これらの録音だけでコンドラシンの気質を掴むことはできない。例えば、1966年にモスクワ・フィルを指揮した時のプロコフィエフの交響曲第1番「古典」を聴いてみよう。きっと多くの人が、そのきびきびとした躍動感、端正な響き、変幻自在のうねりに舌を巻くことだろう。〈作品の持ち味〉と〈演奏者の持ち味〉を最大限引き出す能力に長けたコンドラシンは、リストのピアノ協奏曲第2番でもめざましい指揮を披露する。これを聴いていると、とんでもない傑作にでも接しているような気分にさせられる。また、ソリストのヤーコフ・フリエールが大ピアニストに思えてしまうほど、巧みに引き立てている。

 そして、忘れてはならないのが、ショスタコーヴィチの作品。20世紀を代表するこの大作曲家の精髄を味わう上でも、コンドラシンが遺した交響曲全曲のレコードはかけがえのない遺産である。特筆すべきは、やはり第4番と第13番「バビ・ヤール」。この難物を振り、コンドラシンの右に出る者はいない。自ら作曲家の使徒となり、一つ一つの音を咀嚼し、確信に満ちたアゴーギクでテンポを引き締める。粉飾はない、あるのは作品の核のみだ。

 第4番は、モスクワ・フィルとの録音も良いが、個人的にはシュターツカペレ・ドレスデンを振った時の〈ドイツ初演〉の音源の方に、深甚たる感銘を受ける。ここぞという時の強音の凄まじさ、獰猛な強音の渦の中にも色彩が見えてくるアンサンブルは、さすがシュターツカペレ・ドレスデンといいたくなる。第13番「バビ・ヤール」のライヴ音源は甲乙つけがたい。もっとも、甲乙つける必要もないだろう。私が所有しているのは、紆余曲折を経て実現した初演の翌日の、深い闇を見つめるような1962年盤、生々しく肌に刺さるような1963年盤、アルトゥール・エイゼンの独唱にうちのめされる1967年盤、バイエルン放送響を指揮した、鼓膜を燃やし尽くすような1980年盤の4種。重量級の内容なので、そう何度も聴けるものではない。いずれも聴き手の感性に爪痕を残す演奏である。交響曲以外では、初演を務めた『ステパン・ラージンの処刑』が壮烈な大演奏。名盤としてショスタコーヴィチ・ファンに愛聴されている。

 来日コンサートの音源も聴くことができる。悲劇の成就に向かって暗く険しい道を進んでいくようなチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」(1967年4月4日)、迷いなく快刀乱麻を断つといった風情のショスタコーヴィチの交響曲第6番(1967年4月18日)......ともにコンドラシンの実力を示す名演奏だ。日本初演となった、虚飾や誇張を排したマーラーの交響曲第9番も貴重な記録である。

 人生最後の日に指揮したマーラーの交響曲第1番「巨人」。これについては、以前も書いたことがあるが、音源の向こう側に異様なほど澄んだ空気が広がっている。何かが起こりそうな気配。そんな中、コンドラシンは作品の構造を透かして見せるような指揮によって、私たちの手をとり、迷いなくフィナーレへと導いていく。濃厚なパトスが勢いよく膨れ上がっても、統御力がゆるむことはない。私たちは安心して彼の指揮に身を預けることができる。これがライヴで行われている、という事実には驚くほかない。
 マーラーとショスタコーヴィチの両方の指揮に長けているマエストロは、たくさんいるようで、実際のところはそれほど多くない。コンドラシンはそういう指揮者の最高峰に位置する人である。ただし、マーラーの交響曲第2番と第8番に関しては、録音がない。合唱の扱いに長けていた人だけに、もし指揮をしていたらどんな演奏になっていたのだろう、と思わずにはいられない。
(阿部十三)


【関連サイト】
キリル・コンドラシン(CD)