グリゴリー・ソコロフ 〜聴覚を支配する音〜
2013.04.16
2004年にグリゴリー・ソコロフのコンサート映像がDVD化された時、日本では知名度が高いとはいえないこの大ピアニストについて、私は次のように書いたことがある。
「現在は西欧を中心にマイペースの活動を行ない、その名声はすでに不動の高みに達している。にもかかわらず、日本で目立つかたちで紹介される機会はなく、情報が増えない。はっきりいえばマイナー扱いされている節すらある。しかし、現代最高峰のピアニストに対するこのような状況も今後は変わっていくに違いない。それほど素晴らしいコンサート映像が、このたびブリュノ・モンサンジョンから届けられたのである」
このシャンゼリゼ劇場でのライヴ演奏に対する感想は当時も今も変わらない。しかし、残念ながら、日本におけるソコロフの知名度は当時と今であまり変化していないようである。最近来日していないこと、長いキャリアのわりに音源が少ないことが影響しているのは間違いない。
2013年現在、私が最もコンサートで聴きたい現役ピアニストはグリゴリー・ソコロフである。1950年4月18日生まれなので、もう63歳になる。レニングラード音楽院で学び、1966年にチャイコフスキー国際コンクールで優勝。日本にも何度か来て演奏しているが、いつの頃からか、来日のニュースを全く聞かなくなった。
来日しないのなら、こちらから出向くしかない。というわけで、会社を一週間ほど休んで聴きに行く計画を立てるのが毎度の恒例行事のようになっている。そして結局、休暇を取り損ね、実演に接することができないまま今日に至っている。
非公式の音源はさておき、正規音源の数は少ないので、すぐに集めることができる。そのどれもが誇張抜きに神品と呼びたくなるような演奏だ。バッハの『フーガの技法』、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』、ショパンのエチュード(作品25)、ブラームスのラプソディ......これらを聴かずに作品の内奥を論じていいものだろうか。ショパンのピアノ協奏曲第1番も名演(レーベルはオイロディスク)。タッチに清潔感があり、表現の一つ一つが非常に繊細で、えもいわれぬ抒情美を醸している。
極め付きは、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。これはチャイコフスキー・コンクール優勝後に録音されたもの。つまり1966年、16歳の時の演奏である。かつて、私はこれをレコードで聴いた時、感動のあまり身動きできなくなり、胸が燃えるように熱くなったものである。その感動はCDで聴いても変わらない。完璧無比なテクニック、明晰で風格あふれる音、一瞬にして神韻縹渺たる世界を我々の眼前に広げてみせる魔法のように繊細なアーティキュレーション。こんなピアニストと同じ時代に生きていることを幸福と思わずにはいられない。
1982年2月27日のレニングラード・コンサートで披露された『ゴールドベルク変奏曲』も、この作品の中に組み込まれている何層もの旋律のドラマを浮き彫りにした演奏で、じっと耳を傾けていると、あたかも長い旅に出て、旅先で思索に耽っているような心持ちになる。聴き通すにはかなりのエネルギーを要するが、それだけに聴き終えた後の充実感(達成感といってもよい)もひとしおだ。
チャイコフスキー・コンクールで優勝した時、審査員長だったエミール・ギレリスは、「ソコロフの新鮮で若さにあふれた演奏は、舞台を支配し、自分自身を支配し、オーケストラをも支配した」と評したが、その全身全霊を傾けた集中力、一音に充溢する緊張感は、聴き手の聴覚までも支配する。その音は、私たちの耳を鋭敏にし、細かい響きのニュアンスをきっちりと伝えてくる。だから私たちは、演奏の中で瞬間的に起こる小さな奇跡を聴き逃すことがない。サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番第1楽章冒頭のカデンツァ、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番第1楽章のコーダ、ショパンの「木枯らし」、クープランの「ティク・トク・ショク」......いずれも奇跡の産物である。無論、このようなこともピアノという楽器を奥の奥まで知り尽くしているからこそ出来るのである。畢竟、彼はピアノも支配している、といえるだろう。
個人的には、バロック、古典派、擬古典派の作品をソコロフのピアノで聴くのが好きである。彼がギレリスやリヒテルとはまた違う解釈のディメンションを作り出すのは、そういう作品を弾く時である。とはいえ、生演奏で聴けるなら、シューマンでもブラームスでもいい。とにかく本物の音を聴きたい。ちなみに、2013年夏のザルツブルク音楽祭ではベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」を演奏するらしい。どうやらまた旅行計画を練る時期が来たようである。
【関連サイト】
Grigory Sokolov
「現在は西欧を中心にマイペースの活動を行ない、その名声はすでに不動の高みに達している。にもかかわらず、日本で目立つかたちで紹介される機会はなく、情報が増えない。はっきりいえばマイナー扱いされている節すらある。しかし、現代最高峰のピアニストに対するこのような状況も今後は変わっていくに違いない。それほど素晴らしいコンサート映像が、このたびブリュノ・モンサンジョンから届けられたのである」
このシャンゼリゼ劇場でのライヴ演奏に対する感想は当時も今も変わらない。しかし、残念ながら、日本におけるソコロフの知名度は当時と今であまり変化していないようである。最近来日していないこと、長いキャリアのわりに音源が少ないことが影響しているのは間違いない。
2013年現在、私が最もコンサートで聴きたい現役ピアニストはグリゴリー・ソコロフである。1950年4月18日生まれなので、もう63歳になる。レニングラード音楽院で学び、1966年にチャイコフスキー国際コンクールで優勝。日本にも何度か来て演奏しているが、いつの頃からか、来日のニュースを全く聞かなくなった。
来日しないのなら、こちらから出向くしかない。というわけで、会社を一週間ほど休んで聴きに行く計画を立てるのが毎度の恒例行事のようになっている。そして結局、休暇を取り損ね、実演に接することができないまま今日に至っている。
非公式の音源はさておき、正規音源の数は少ないので、すぐに集めることができる。そのどれもが誇張抜きに神品と呼びたくなるような演奏だ。バッハの『フーガの技法』、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』、ショパンのエチュード(作品25)、ブラームスのラプソディ......これらを聴かずに作品の内奥を論じていいものだろうか。ショパンのピアノ協奏曲第1番も名演(レーベルはオイロディスク)。タッチに清潔感があり、表現の一つ一つが非常に繊細で、えもいわれぬ抒情美を醸している。
極め付きは、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。これはチャイコフスキー・コンクール優勝後に録音されたもの。つまり1966年、16歳の時の演奏である。かつて、私はこれをレコードで聴いた時、感動のあまり身動きできなくなり、胸が燃えるように熱くなったものである。その感動はCDで聴いても変わらない。完璧無比なテクニック、明晰で風格あふれる音、一瞬にして神韻縹渺たる世界を我々の眼前に広げてみせる魔法のように繊細なアーティキュレーション。こんなピアニストと同じ時代に生きていることを幸福と思わずにはいられない。
1982年2月27日のレニングラード・コンサートで披露された『ゴールドベルク変奏曲』も、この作品の中に組み込まれている何層もの旋律のドラマを浮き彫りにした演奏で、じっと耳を傾けていると、あたかも長い旅に出て、旅先で思索に耽っているような心持ちになる。聴き通すにはかなりのエネルギーを要するが、それだけに聴き終えた後の充実感(達成感といってもよい)もひとしおだ。
チャイコフスキー・コンクールで優勝した時、審査員長だったエミール・ギレリスは、「ソコロフの新鮮で若さにあふれた演奏は、舞台を支配し、自分自身を支配し、オーケストラをも支配した」と評したが、その全身全霊を傾けた集中力、一音に充溢する緊張感は、聴き手の聴覚までも支配する。その音は、私たちの耳を鋭敏にし、細かい響きのニュアンスをきっちりと伝えてくる。だから私たちは、演奏の中で瞬間的に起こる小さな奇跡を聴き逃すことがない。サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番第1楽章冒頭のカデンツァ、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番第1楽章のコーダ、ショパンの「木枯らし」、クープランの「ティク・トク・ショク」......いずれも奇跡の産物である。無論、このようなこともピアノという楽器を奥の奥まで知り尽くしているからこそ出来るのである。畢竟、彼はピアノも支配している、といえるだろう。
個人的には、バロック、古典派、擬古典派の作品をソコロフのピアノで聴くのが好きである。彼がギレリスやリヒテルとはまた違う解釈のディメンションを作り出すのは、そういう作品を弾く時である。とはいえ、生演奏で聴けるなら、シューマンでもブラームスでもいい。とにかく本物の音を聴きたい。ちなみに、2013年夏のザルツブルク音楽祭ではベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」を演奏するらしい。どうやらまた旅行計画を練る時期が来たようである。
(阿部十三)
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