音楽 CLASSIC

カール・シューリヒト 〜本物の至芸〜

2013.07.17
至高の世界へと導く術

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 カール・シューリヒトは、作品の核に凝縮されている美質を腕力ではなく知の力で表へと引き出す達人だった。録音の際は、細かい書き込みをしたオーケストラのパート譜を一式抱えて臨んでいたようだが、その表現がトリビアリズムに陥ったり、頭でっかちになることはなかった。しばしば「淡々としている」とか「誇張がない」と評されるからといって、冷たいとか物足りないということも全くない。それどころか、彼の指揮棒から引き出されるオーケストラの響きは、高みへと向かおうとする自発的な意思と生命力に溢れている。時折、その響きが炎のようになって奔出することもある。ただ、そういった演奏を含めても一貫していえるのは、情熱の押し売り、安っぽい過剰さ、鼻につくわざとらしさとは程遠い境地にいた、ということ。慧眼ぶりを殊更アピールせずとも、その指揮が一音たりともおろそかにしないこまやかな神経と、鋭い知性に裏打ちされたものであったことは明白である。

 1880年7月3日、カール・シューリヒトはドイツ領ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)に生まれた。父はオルガン職人、母は歌手であり、ピアニストでもあった。ベルリンでフンパーディンクに、ライプツィヒでレーガーに師事。各地の劇場で修行を積み、1910年にルール合唱団のコンサートでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』を指揮し、成功を収めた。以後、『ミサソレ』はシューリヒトのキャリアの節目に欠かせない曲となる。
 1912年にヴィースバーデンの音楽監督(後に音楽総監督)に就任。1944年までそのポストにとどまり、当地の音楽振興に力を注いだ。第二次世界大戦末期には、エルネスト・アンセルメの計らいでスイスに移住。スイス・ロマンド管弦楽団を指揮し、賞賛される。国際的キャリアが本格的にスタートしたのは70歳になってからで、デッカへの録音、ウィーン・フィルから全幅の信頼を寄せられるきっかけとなった「モーツァルト週間」、そのウィーン・フィルとのアメリカ演奏旅行、ヨーロッパ演奏旅行などで名声を高めた。1960年にはウィーン・フィルの名誉会員の称号を授与されたが、まさにその年の夏、ザルツブルク音楽祭で指揮したモーツァルトの「プラハ」のライヴ音源は、今もって超えるもののない至高の演奏としてファンに愛聴されている。1965年頃から体調が悪化し、1967年1月7日にスイスのコルソーで亡くなった。

 この指揮者が歩んだ人生の足跡は、ミシェル・シェヴィ著『大指揮者カール・シューリヒト 生涯と芸術』にある程度まで詳しく記されている。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、エルネスト・アンセルメ、唯一の弟子アタウルフォ・アルヘンタとの交流についても簡潔に書かれている。シューリヒトは指揮者としての評価が高いわりにまとまった資料が多いとはいえないので、こういう伝記本は貴重である。


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