エミール・ギレリス 〜鉄の意思のピアニスト〜
2014.04.21
ギレリスのプロフィール
エミール・ギレリスは多面的な魅力を持ったピアニストである。かつては「鋼鉄のタッチ」と評され、それが彼のイメージを狭めていた節もあるが、遺された多くの録音に虚心坦懐に耳を傾ければ、強靭で決然たる打鍵や猛烈な疾走感だけでなく、音色の美しさやフレージングの柔らかさも持ち味であることが分かるはずだ。
若い頃からギレリスの技術は大きな注目の的となっていた。完璧な技術を問題視する批評家もいた。しかしギレリスの魅力は、技術そのものよりも、作品世界にのめり込む姿勢の深さ、潔さ、ひたむきさにある。そこから、仰ぎ見たくなるような雄々しさ、神々しさが発現する。完璧な技術の持ち主という前提があると、聴き手はミスタッチに対して変に敏感になる。同じようにミスタッチをしても大目に見られるピアニストと比べると、これはフェアとはいえない。
私にとって、エミール・ギレリスは世界で最も好きなピアニストである。その定員が2人に増えたり、3人に増えたりすることはあるが、ギレリスの名前が消えることはない。高校時代に初めてブラームスのピアノ協奏曲第1番のレコードを聴いた時から、それはずっと変わらない。
1916年10月16日、エミール・ギレリスはオデッサに生まれた。5歳の時にヤーコフ・トカチに師事し、1930年からベルタ・レインバリド(レイングバルド)に師事。1933年5月、弱冠16歳にして全ソ音楽コンクールで優勝。その後もレインバリドのレッスンを受けた。1935年からモスクワ音楽院でゲンリヒ・ネイガウスの教えを受けるが決裂。ネイガウスについて、ギレリスは「一切の会話も一切の話し合いも、私たちの間にはありませんでした」と語っている。1936年にウィーン国際コンクールで2位、1938年にイザイ国際コンクールで優勝(2位はモーラ・リンパニー、7位はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ)、国際的名声を得る。1940年、ピアニストのローザ・タマルキーナと結婚(タマルキーナは1950年死去)。
戦後、ソ連政府によって西側に送り出され、フランスやイタリアでコンサートを行い、1955年にアメリカ・デビュー。初めて「鉄のカーテン」を越えて訪米したソ連のピアニストとなる。各国でめざましい演奏を繰り広げ、センセーションを巻き起こす一方、母国ではチャイコフスキー・コンクールの審査委員長を務め、ヴァン・クライバーンやグリゴリー・ソコロフが飛躍するきっかけを与えた。1970年代からドイツ・グラモフォンで録音を開始し、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、グリーグ等の作品を録音。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音に力を入れていたが、5曲のソナタを残したまま1985年10月14日に急逝した。
人格者として
2007年に出版されたグリゴーリー・ガルドン著『エミール・ギレリス もうひとつのロシア・ピアニズム』には、生前ギレリスがソ連国内で不当な評価を受けていたことが、攻撃的な言葉を交えて、綿々と綴られている。信者の多いリヒテルをギレリスより格上とする見方にも、「否」をつきつけている。
ギレリスと交流のあった著者は、このピアニストの全てを絶賛する勢いで書いているので、私のようなファンが読んでも、「さすがにそれはいい過ぎではないか」と感じる部分が多い。ただ、それくらい書かないと現代の読者には分かってもらえない、という思いが著者の中にあったことは推察出来る。
ギレリスはスターリンのお気に入りだった。そのせいでソ連体制に比較的従順だったピアニストと見られがちだが、それは誤っている。
1941年、ゲンリヒ・ネイガウスが逮捕された時、釈放させるべくスターリンに直談判したのは、ほかならぬギレリスである。ネイガウスはギレリスの師匠だったが、この師弟は全くソリが合わなかった。にもかかわらず、水面下で行動を起こしたのである。この事実は、ギレリスの死後明らかにされた。1958年にアメリカ人ピアニスト、ヴァン・クライバーンがチャイコフスキー・コンクールで優勝した時、舞台裏で当局に脅されながら、フルシチョフの了解をとりつけた審査委員長もギレリスである。
ここでワレリー・アファナシエフの言葉を紹介しておく。
「ギレリスは私のためにたくさんのことをしてくれた。だが、それについて知ったのはつい最近のことである。彼はそのことについて一度も語ったことはなかった。誰かを助けることを好んだが、それを人前で明らかにすることはなかった。多くの人たちが、助けられたことを今もって知らない。私はそのことについてさまざまな情報源から今も耳にしている。......誰でも自分の善行を他人に吹聴するものだ。だが善良な彼はこの種の吹聴を全くしていない」
リヒテルやラザール・ベルマンのことを、自分よりすぐれたピアニストとして西側に紹介したのもギレリスだったといわれている。そして、彼自身は己の功績を口にすることは一度もなく、誰からも感謝されなくていいと考えていた。「人助けをした時には、他人に口外するものではない」ーーこれはギレリスの言葉である。
【関連サイト】
エミール・ギレリス 〜鉄の意思のピアニスト〜 [続き]
EMIL GILELS(emilgilels.com)
EMIL GILELS(CD)
エミール・ギレリスは多面的な魅力を持ったピアニストである。かつては「鋼鉄のタッチ」と評され、それが彼のイメージを狭めていた節もあるが、遺された多くの録音に虚心坦懐に耳を傾ければ、強靭で決然たる打鍵や猛烈な疾走感だけでなく、音色の美しさやフレージングの柔らかさも持ち味であることが分かるはずだ。
若い頃からギレリスの技術は大きな注目の的となっていた。完璧な技術を問題視する批評家もいた。しかしギレリスの魅力は、技術そのものよりも、作品世界にのめり込む姿勢の深さ、潔さ、ひたむきさにある。そこから、仰ぎ見たくなるような雄々しさ、神々しさが発現する。完璧な技術の持ち主という前提があると、聴き手はミスタッチに対して変に敏感になる。同じようにミスタッチをしても大目に見られるピアニストと比べると、これはフェアとはいえない。
私にとって、エミール・ギレリスは世界で最も好きなピアニストである。その定員が2人に増えたり、3人に増えたりすることはあるが、ギレリスの名前が消えることはない。高校時代に初めてブラームスのピアノ協奏曲第1番のレコードを聴いた時から、それはずっと変わらない。
1916年10月16日、エミール・ギレリスはオデッサに生まれた。5歳の時にヤーコフ・トカチに師事し、1930年からベルタ・レインバリド(レイングバルド)に師事。1933年5月、弱冠16歳にして全ソ音楽コンクールで優勝。その後もレインバリドのレッスンを受けた。1935年からモスクワ音楽院でゲンリヒ・ネイガウスの教えを受けるが決裂。ネイガウスについて、ギレリスは「一切の会話も一切の話し合いも、私たちの間にはありませんでした」と語っている。1936年にウィーン国際コンクールで2位、1938年にイザイ国際コンクールで優勝(2位はモーラ・リンパニー、7位はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ)、国際的名声を得る。1940年、ピアニストのローザ・タマルキーナと結婚(タマルキーナは1950年死去)。
戦後、ソ連政府によって西側に送り出され、フランスやイタリアでコンサートを行い、1955年にアメリカ・デビュー。初めて「鉄のカーテン」を越えて訪米したソ連のピアニストとなる。各国でめざましい演奏を繰り広げ、センセーションを巻き起こす一方、母国ではチャイコフスキー・コンクールの審査委員長を務め、ヴァン・クライバーンやグリゴリー・ソコロフが飛躍するきっかけを与えた。1970年代からドイツ・グラモフォンで録音を開始し、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、グリーグ等の作品を録音。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音に力を入れていたが、5曲のソナタを残したまま1985年10月14日に急逝した。
人格者として
2007年に出版されたグリゴーリー・ガルドン著『エミール・ギレリス もうひとつのロシア・ピアニズム』には、生前ギレリスがソ連国内で不当な評価を受けていたことが、攻撃的な言葉を交えて、綿々と綴られている。信者の多いリヒテルをギレリスより格上とする見方にも、「否」をつきつけている。
ギレリスと交流のあった著者は、このピアニストの全てを絶賛する勢いで書いているので、私のようなファンが読んでも、「さすがにそれはいい過ぎではないか」と感じる部分が多い。ただ、それくらい書かないと現代の読者には分かってもらえない、という思いが著者の中にあったことは推察出来る。
ギレリスはスターリンのお気に入りだった。そのせいでソ連体制に比較的従順だったピアニストと見られがちだが、それは誤っている。
1941年、ゲンリヒ・ネイガウスが逮捕された時、釈放させるべくスターリンに直談判したのは、ほかならぬギレリスである。ネイガウスはギレリスの師匠だったが、この師弟は全くソリが合わなかった。にもかかわらず、水面下で行動を起こしたのである。この事実は、ギレリスの死後明らかにされた。1958年にアメリカ人ピアニスト、ヴァン・クライバーンがチャイコフスキー・コンクールで優勝した時、舞台裏で当局に脅されながら、フルシチョフの了解をとりつけた審査委員長もギレリスである。
ここでワレリー・アファナシエフの言葉を紹介しておく。
「ギレリスは私のためにたくさんのことをしてくれた。だが、それについて知ったのはつい最近のことである。彼はそのことについて一度も語ったことはなかった。誰かを助けることを好んだが、それを人前で明らかにすることはなかった。多くの人たちが、助けられたことを今もって知らない。私はそのことについてさまざまな情報源から今も耳にしている。......誰でも自分の善行を他人に吹聴するものだ。だが善良な彼はこの種の吹聴を全くしていない」
リヒテルやラザール・ベルマンのことを、自分よりすぐれたピアニストとして西側に紹介したのもギレリスだったといわれている。そして、彼自身は己の功績を口にすることは一度もなく、誰からも感謝されなくていいと考えていた。「人助けをした時には、他人に口外するものではない」ーーこれはギレリスの言葉である。
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