ナタン・ミルシテイン 〜20世紀最高のヴィルトゥオーゾ〜 [続き]
2015.03.24
成熟したヴィルトゥオーゾの遺産
ナタン・ミルシテインはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」全曲を2度録音している。1967年に出版されたヨアヒム・ハルトナックの『二十世紀の名ヴァイオリニスト』には、ミルシテインが演奏した「シャコンヌ」について、「彼はこの作品の構築とポリフォニーを、透明な追跡可能なものにしている。旋律の内包するものは彼の音のあたたかさに包まれて、魅惑にあふれた天使の歌となるほどの美しさに発展している」と書かれているが、これは1960年代以前の録音を聴いた上での評である。1973年に録音されたものは、構築的でポリフォニックであるだけでなく、懐の深さ、スケールの大きさ、重量感をたたえており、響きの芯から美しい。技巧の誇示も表層的な小細工も一切ない。この格調の高さは、「シャコンヌ」のみならず、無伴奏全曲を通して言えることである。ミルシテインは、ローベルト・C・バッハマンによるインタビューで、「ヴィルトゥオーゾというのは、専門家の最高位のことをさすのだと、私は考えています」と語っているが、この言葉を踏まえて言えば、彼のバッハは、享楽に溺れず、練習に練習を重ね、健康な肉体を保ちながら69歳になり、真の意味でヴィルトゥオーゾとして成熟した芸術家の遺産と呼ぶにふさわしい。
ミルシテインが協奏曲の中で最も愛したベートーヴェンの作品については、ライヴ音源も含めて何種類か録音があるが、大半は手放しで絶賛できるものではない(第3楽章は常に良い)。みずみずしい音楽の息吹きや上に突き抜けるような高揚感が不足している。ただ、1968年9月29日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの演奏は、熱い音が迸っており、スケール感も十分。指揮はサー・エイドリアン・ボールト、オケはロンドン・フィル。ボールトのサポートは見事としか言いようがなく、そのおかげもあってミルシテインのヴァイオリンが生き生きと歌っている。ミルシテインはオーケストラにおける指揮者の存在意義に懐疑的だったが、ボールトとは相性が良かったようだ。
自ら弾き振りを行ったバッハの協奏曲、モーツァルトの協奏曲は、美音にくるまれた端正な演奏で、味わい深いという感じではないが、奏者の主張が変に強いものよりは好感が持てる。ミルシテインは若い頃、指揮者不在のペルジムファンズ・オーケストラ(首席ヴァイオリン奏者はレフ・ザイトリン)と協演したことがあり、その時の感動が忘れられず、再現を試みたのかもしれない。
ミルシテインについてよく言われる「若い頃はテクニックばかりで深みに欠けていた」というのは、必ずしも真実ではない。少なくとも、全てにはまることではない。例えばペルゴレージ(ロンゴ編)のソナタ第12番(1937年録音)、タルティーニ(クライスラー編)の「悪魔のトリル」(1938年録音)などは文句なしの名演で、技巧のための技巧に傾いていないことは明らかだし、ヴィヴァルディの一連のソナタも聴き手を十分満足させる出来である。また、バッハの無伴奏のみならず、ヴィヴァルディやペルゴレージの名曲をリサイタルで積極的に取り上げ、その普及を促した功績も見落としてはならない。
ミルシテインの政治的立場
盟友ホロヴィッツとの友情は長く続き、アルトゥーロ・トスカニーニとホロヴィッツが不仲になっていた時は、仲裁役まで務めたらしい。2人が一緒に録音したのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番(1950年録音)のみだが、魅力的な演奏である。ほかにベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番を録音する計画もあったようだが、ホロヴィッツが違う作品を録音したいと提案し、折り合わずに終わった。
趣味は絵を描くことで、玄人はだしだった。シェーンベルクとは絵の話題を通じて親しくなったようである。映画界とも縁があり、『西部戦線異状なし』や『雨』で知られるルイス・マイルストン監督はミルシテインの従兄。『西部戦線〜』の撮影現場を見学しに行ったこともある。マイルストンが催すパーティーはチャップリンやピックフォードが顔を見せる華やかなものだったが、「政治的にはソ連寄りの集まり」で、ミルシテインの肌には合わなかった。ミルシテインは反共的な立場をとり、政治的な発言も多かった。回想録には次のように書かれている。
ときどき「音楽家は上手に演奏させよ、だが政治の外に置いておけ。政治は彼らの知ったことではない」ということが言われる。私は常にこう答えるーー「政治は政治家だけに任せるには重大すぎる」。音楽家(もちろん、全ての芸術家)の自然な成長は、彼らの置かれる環境しだいである。それゆえに私たちは、彼らのコンディションを良好なものにするように努めなければならない。
1940年代の終わりには、パリでの公開討論会ーーテーマは「ロシアはツァーの時代よりも自由であるか」ーーに招待され、レイモン・アロン、ルイ・アラゴン、ジャン=ポール・サルトルたちと同席した。そして、ソ連を褒め称える人たち(アラゴンやサルトルのことだろう)に我慢できなくなり、「皆さんは事実を知らない。ツァーの時代には今よりももっと政治的な自由があったのです!」と発言した。ロシア革命とその後の数年間を実地で体験した彼にとって、革命後のソ連は帰りたい母国ではなかったのである。
[参考文献]
ヨアヒム・ハルトナック『二十世紀の名ヴァイオリニスト』(松本道介訳 1970年 白水社)
ローベルト・C・バッハマン『大演奏家との対話』(村上紀子訳 1980年 白水社)
ナタン・ミルスタイン/ソロモン・ヴォルコフ『ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』(青村茂/上田京訳 2000年 春秋社)
【関連サイト】
ナタン・ミルシテイン 〜20世紀最高のヴィルトゥオーゾ〜
NATHAN MILSTEIN
ナタン・ミルシテインはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」全曲を2度録音している。1967年に出版されたヨアヒム・ハルトナックの『二十世紀の名ヴァイオリニスト』には、ミルシテインが演奏した「シャコンヌ」について、「彼はこの作品の構築とポリフォニーを、透明な追跡可能なものにしている。旋律の内包するものは彼の音のあたたかさに包まれて、魅惑にあふれた天使の歌となるほどの美しさに発展している」と書かれているが、これは1960年代以前の録音を聴いた上での評である。1973年に録音されたものは、構築的でポリフォニックであるだけでなく、懐の深さ、スケールの大きさ、重量感をたたえており、響きの芯から美しい。技巧の誇示も表層的な小細工も一切ない。この格調の高さは、「シャコンヌ」のみならず、無伴奏全曲を通して言えることである。ミルシテインは、ローベルト・C・バッハマンによるインタビューで、「ヴィルトゥオーゾというのは、専門家の最高位のことをさすのだと、私は考えています」と語っているが、この言葉を踏まえて言えば、彼のバッハは、享楽に溺れず、練習に練習を重ね、健康な肉体を保ちながら69歳になり、真の意味でヴィルトゥオーゾとして成熟した芸術家の遺産と呼ぶにふさわしい。
ミルシテインが協奏曲の中で最も愛したベートーヴェンの作品については、ライヴ音源も含めて何種類か録音があるが、大半は手放しで絶賛できるものではない(第3楽章は常に良い)。みずみずしい音楽の息吹きや上に突き抜けるような高揚感が不足している。ただ、1968年9月29日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの演奏は、熱い音が迸っており、スケール感も十分。指揮はサー・エイドリアン・ボールト、オケはロンドン・フィル。ボールトのサポートは見事としか言いようがなく、そのおかげもあってミルシテインのヴァイオリンが生き生きと歌っている。ミルシテインはオーケストラにおける指揮者の存在意義に懐疑的だったが、ボールトとは相性が良かったようだ。
自ら弾き振りを行ったバッハの協奏曲、モーツァルトの協奏曲は、美音にくるまれた端正な演奏で、味わい深いという感じではないが、奏者の主張が変に強いものよりは好感が持てる。ミルシテインは若い頃、指揮者不在のペルジムファンズ・オーケストラ(首席ヴァイオリン奏者はレフ・ザイトリン)と協演したことがあり、その時の感動が忘れられず、再現を試みたのかもしれない。
ミルシテインについてよく言われる「若い頃はテクニックばかりで深みに欠けていた」というのは、必ずしも真実ではない。少なくとも、全てにはまることではない。例えばペルゴレージ(ロンゴ編)のソナタ第12番(1937年録音)、タルティーニ(クライスラー編)の「悪魔のトリル」(1938年録音)などは文句なしの名演で、技巧のための技巧に傾いていないことは明らかだし、ヴィヴァルディの一連のソナタも聴き手を十分満足させる出来である。また、バッハの無伴奏のみならず、ヴィヴァルディやペルゴレージの名曲をリサイタルで積極的に取り上げ、その普及を促した功績も見落としてはならない。
ミルシテインの政治的立場
盟友ホロヴィッツとの友情は長く続き、アルトゥーロ・トスカニーニとホロヴィッツが不仲になっていた時は、仲裁役まで務めたらしい。2人が一緒に録音したのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番(1950年録音)のみだが、魅力的な演奏である。ほかにベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番を録音する計画もあったようだが、ホロヴィッツが違う作品を録音したいと提案し、折り合わずに終わった。
趣味は絵を描くことで、玄人はだしだった。シェーンベルクとは絵の話題を通じて親しくなったようである。映画界とも縁があり、『西部戦線異状なし』や『雨』で知られるルイス・マイルストン監督はミルシテインの従兄。『西部戦線〜』の撮影現場を見学しに行ったこともある。マイルストンが催すパーティーはチャップリンやピックフォードが顔を見せる華やかなものだったが、「政治的にはソ連寄りの集まり」で、ミルシテインの肌には合わなかった。ミルシテインは反共的な立場をとり、政治的な発言も多かった。回想録には次のように書かれている。
ときどき「音楽家は上手に演奏させよ、だが政治の外に置いておけ。政治は彼らの知ったことではない」ということが言われる。私は常にこう答えるーー「政治は政治家だけに任せるには重大すぎる」。音楽家(もちろん、全ての芸術家)の自然な成長は、彼らの置かれる環境しだいである。それゆえに私たちは、彼らのコンディションを良好なものにするように努めなければならない。
(『ロシアから西欧へ』)
1940年代の終わりには、パリでの公開討論会ーーテーマは「ロシアはツァーの時代よりも自由であるか」ーーに招待され、レイモン・アロン、ルイ・アラゴン、ジャン=ポール・サルトルたちと同席した。そして、ソ連を褒め称える人たち(アラゴンやサルトルのことだろう)に我慢できなくなり、「皆さんは事実を知らない。ツァーの時代には今よりももっと政治的な自由があったのです!」と発言した。ロシア革命とその後の数年間を実地で体験した彼にとって、革命後のソ連は帰りたい母国ではなかったのである。
(阿部十三)
[参考文献]
ヨアヒム・ハルトナック『二十世紀の名ヴァイオリニスト』(松本道介訳 1970年 白水社)
ローベルト・C・バッハマン『大演奏家との対話』(村上紀子訳 1980年 白水社)
ナタン・ミルスタイン/ソロモン・ヴォルコフ『ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』(青村茂/上田京訳 2000年 春秋社)
【関連サイト】
ナタン・ミルシテイン 〜20世紀最高のヴィルトゥオーゾ〜
NATHAN MILSTEIN
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