エフゲニー・ムラヴィンスキー 〜革命後の貴族〜
2019.11.01
エフゲニー・ムラヴィンスキーは1938年から1988年まで50年間、ソ連最高のオーケストラ、レニングラード・フィルの常任指揮者を務めていた。国を代表する一流のオーケストラに一人の指揮者がここまで長く君臨した例はまれである。
ここまでの話だと、ムラヴィンスキーのストイックな音楽性に、ソ連政府のいかめしさを重ねて見る人もいるかもしれないが、それは誤った見方である。彼は共産党員でも何でもなく、ソ連政府を毛嫌いし、身近な人たちに不満を漏らしていた。彼は貴族の出身であり、ロシア革命のために家を失った過去があるのだ。政府の命令には従っても、自分が貴族の血を継いでいることを忘れていなかったことは容易に想像できる。彼の音楽性は、貴族的な高潔さに起因するものだった。
ムラヴィンスキーはレニングラード・フィルの指揮者を半世紀にわたって務め、質の高いコンサートで評価を高めた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番、第6番、第8番、第9番、第10番、第12番の世界初演も任されている。セッション録音は少ないが、ライヴ録音は数多く存在する。1973年には初めて来日し、伝説的な名演で聴衆を熱狂させた。ムラヴィンスキーは日本を気に入っていたようで、1970年代のうちに4回も来日した。
ソ連国内では名誉ある称号や賞を授与された。国外ではウィーン楽友協会の名誉会員に選ばれている。最後にコンサートの指揮台に立ったのは、1987年3月6日。演目はシューベルトの「未完成」とブラームスの交響曲第4番だった。1988年1月19日、死去。
セッション録音では、ドイツ・グラモフォンでのチャイコフスキーの交響曲第4番〜第6番が有名である。センチメンタルなところがなく、贅肉をそぎ落とした演奏だ。精度の高いアンサンブルと鋭角的な響きで聴き手を圧倒するかと思えば、雄大なスケール感で包み込み、優美なフレージングで酔わせる。いまだにチャイコフスキーの交響曲録音では、最高の演奏と評される名盤である。
ライヴ録音には「決定盤」と呼びたくなるほど素晴らしいものがたくさんある。ソ連国外では知名度が高いとは言えない作曲家の作品もあわせると相当な数にのぼる。なので、ここでは厳選して紹介したい。
確かな造型力と豊かなフレージングの妙を味わうなら古典派の作品が良い。代表的な名演として、モーツァルトの交響曲第39番(1965年2月26日ライヴ録音)、ベートーヴェンの交響曲第4番(1973年5月26日ライヴ録音)と第6番「田園」(1982年10月17日ライヴ録音)がある。第4番はリズムの刻み方が迫力満点だが、フレーズの歌わせ方に細かな配慮があり、アンサンブルも透徹していて、勢いだけの演奏にはなっていない。「田園」は清洌な名演奏で、第1楽章展開部におけるクレッシェンドの美しさは比倫を絶する。
シューベルトの未完成交響曲(1978年6月12、13日ライヴ録音)は、冒頭の弱音から緊張感と翳りが強く、甘美さはない。はっきり言えば、恐怖を催させる演奏で、とても気軽には聴けない。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』(1977年10月19日ライヴ録音)はムラヴィンスキーの超得意曲だが、気を抜いている様子は全くなく、濃密なアンサンブルと気高い歌心で旋律を紡いでいる。抜粋版では割愛されがちな「冬の森」を入れているのも良い。
20世紀の音楽だと、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」(1967年5月24日ライヴ録音)が忘れがたい。誇張ではなく、これは鬼気迫る壮絶な演奏である。暗い淵の前に立ちながら物怖じせず、表情一つ変えず、向かってくるものをなぎ倒しているような音楽だ。
ショスタコーヴィチの交響曲を聴くなら、第5番(1973年5月26日ライヴ録音)、第8番(1982年3月28日ライヴ録音)、第10番(1976年3月3日ライヴ録音)は外せない。その厳格な表現と胸に重くのしかかる緊張感は、ほかの指揮者からは得られないものだ。ムラヴィンスキーはしばしば作品の奥深くに手を突っ込み、大きなエネルギーを引き出してみせるが、この3作品では、凶暴さを極限まで表面化させている。とくに有名な第8番の第1楽章と第3楽章の演奏など、響きの鋭さに容赦がなくて心臓が痛くなる。
ムラヴィンスキー自身はショスタコーヴィチの交響曲について次のように語っている。
「交響曲第5番、第6番、第8番は、どれも強い問題提起から音楽が始まっています。この導入部の問題提起が動機となり、次第に遠く離れるような、むなしい感じの曲想に変わります。そして繊細な旋律が続くのです。第8番の第1楽章の根底にある感情は、空虚であり、かつ繊細なものです。人間の魂が何かに向かって必死に努力しても報われず、無残に滅びることを表現しています」
先述のドキュメンタリーに収録されたインタビューからの引用である。この発言を踏まえて耳を傾けると、主題の扱いにいかに神経が注がれているかがよく分かるのではないか。
ムラヴィンスキーはベルリオーズ、ドビュッシー、オネーゲルなどフランスの作品も巧みに指揮した。レパートリーはかなり広い。そして気の抜けた駄演は、私の知る限り一つもない。とはいえ、ライヴということもあって録音年代のわりに音質の良くないものが多い。先に挙げた「田園」も大好きな演奏なのだが、マイクの位置が変なので不満はどうしても残る。
ムラヴィンスキーの指揮は貴族的な高潔さを感じさせる。彼は聴衆に媚びるような真似はしなかった。ソビエト共産党に属さず、宗教団体にも属さなかったのは、あくまでも純粋に、高踏的に、政治や宗教を介さず、直接的に音楽と向き合い、作品を正しく表現したかったからだろう。そうした信条の基盤となっているのは、おそらく彼自身の貴族的な資質なのではないかと私には思える。
【関連サイト】
EVGENY MRAVINSKY(CD)
2003年に制作されたドキュメンタリーによると、楽団内には厳しい規律があり、団員が5分でも遅刻すると2週間の停職処分を受けたという。リハーサルの映像では、納得がいくまで細部の表現を磨いている様子を見ることができるが、そこからは異様な緊張感が伝わってくる。ムラヴィンスキーのそばで仕事をしていた後輩マリス・ヤンソンスによると、その指揮は「成り行きに任せるということがなかった」という。
ここまでの話だと、ムラヴィンスキーのストイックな音楽性に、ソ連政府のいかめしさを重ねて見る人もいるかもしれないが、それは誤った見方である。彼は共産党員でも何でもなく、ソ連政府を毛嫌いし、身近な人たちに不満を漏らしていた。彼は貴族の出身であり、ロシア革命のために家を失った過去があるのだ。政府の命令には従っても、自分が貴族の血を継いでいることを忘れていなかったことは容易に想像できる。彼の音楽性は、貴族的な高潔さに起因するものだった。
1903年6月4日、ムラヴィンスキーはサンクト・ペテルブルクに生まれた。貴族の子として教育を受け、音楽を愛する両親の影響でピアノを習っていたが、1917年にロシア革命が起こると境遇が一変し、共同住宅で暮らすことになった。1922年、15歳年上の女性と結婚。その後、レニングラード音楽院に入学し、作曲や指揮法を学び、1931年に卒業。1938年には全ソ指揮者コンクールで優勝し、若干35歳でレニングラード・フィルの常任指揮者となった。
元貴族であるムラヴィンスキーが順調にキャリアを積み重ねた背景には、叔母であり、ボリシェヴィキの大物であったアレクサンドラ・コロンタイの影響力もあったと言われている。しかしながら、コロンタイはスターリン独裁後の政府と必ずしも良好な関係にあったとは言えないので、どこまで信憑性があるのかは分からない。ムラヴィンスキー自身は、KGBの意向を無視して同性愛者の楽団員を守ろうとし、1960年代半ばには失脚寸前に追い込まれていたらしい。ムラヴィンスキーはレニングラード・フィルの指揮者を半世紀にわたって務め、質の高いコンサートで評価を高めた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番、第6番、第8番、第9番、第10番、第12番の世界初演も任されている。セッション録音は少ないが、ライヴ録音は数多く存在する。1973年には初めて来日し、伝説的な名演で聴衆を熱狂させた。ムラヴィンスキーは日本を気に入っていたようで、1970年代のうちに4回も来日した。
ソ連国内では名誉ある称号や賞を授与された。国外ではウィーン楽友協会の名誉会員に選ばれている。最後にコンサートの指揮台に立ったのは、1987年3月6日。演目はシューベルトの「未完成」とブラームスの交響曲第4番だった。1988年1月19日、死去。
セッション録音では、ドイツ・グラモフォンでのチャイコフスキーの交響曲第4番〜第6番が有名である。センチメンタルなところがなく、贅肉をそぎ落とした演奏だ。精度の高いアンサンブルと鋭角的な響きで聴き手を圧倒するかと思えば、雄大なスケール感で包み込み、優美なフレージングで酔わせる。いまだにチャイコフスキーの交響曲録音では、最高の演奏と評される名盤である。
ライヴ録音には「決定盤」と呼びたくなるほど素晴らしいものがたくさんある。ソ連国外では知名度が高いとは言えない作曲家の作品もあわせると相当な数にのぼる。なので、ここでは厳選して紹介したい。
グリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲(1961年2月11日ライヴ録音)と、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」(1979年5月21日ライヴ録音)は、驚嘆に値する演奏だ。前者は超絶的なスピード感、後者は黒く渦巻く響きに言葉を失う。
確かな造型力と豊かなフレージングの妙を味わうなら古典派の作品が良い。代表的な名演として、モーツァルトの交響曲第39番(1965年2月26日ライヴ録音)、ベートーヴェンの交響曲第4番(1973年5月26日ライヴ録音)と第6番「田園」(1982年10月17日ライヴ録音)がある。第4番はリズムの刻み方が迫力満点だが、フレーズの歌わせ方に細かな配慮があり、アンサンブルも透徹していて、勢いだけの演奏にはなっていない。「田園」は清洌な名演奏で、第1楽章展開部におけるクレッシェンドの美しさは比倫を絶する。
シューベルトの未完成交響曲(1978年6月12、13日ライヴ録音)は、冒頭の弱音から緊張感と翳りが強く、甘美さはない。はっきり言えば、恐怖を催させる演奏で、とても気軽には聴けない。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』(1977年10月19日ライヴ録音)はムラヴィンスキーの超得意曲だが、気を抜いている様子は全くなく、濃密なアンサンブルと気高い歌心で旋律を紡いでいる。抜粋版では割愛されがちな「冬の森」を入れているのも良い。
20世紀の音楽だと、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」(1967年5月24日ライヴ録音)が忘れがたい。誇張ではなく、これは鬼気迫る壮絶な演奏である。暗い淵の前に立ちながら物怖じせず、表情一つ変えず、向かってくるものをなぎ倒しているような音楽だ。
ショスタコーヴィチの交響曲を聴くなら、第5番(1973年5月26日ライヴ録音)、第8番(1982年3月28日ライヴ録音)、第10番(1976年3月3日ライヴ録音)は外せない。その厳格な表現と胸に重くのしかかる緊張感は、ほかの指揮者からは得られないものだ。ムラヴィンスキーはしばしば作品の奥深くに手を突っ込み、大きなエネルギーを引き出してみせるが、この3作品では、凶暴さを極限まで表面化させている。とくに有名な第8番の第1楽章と第3楽章の演奏など、響きの鋭さに容赦がなくて心臓が痛くなる。
ムラヴィンスキー自身はショスタコーヴィチの交響曲について次のように語っている。
「交響曲第5番、第6番、第8番は、どれも強い問題提起から音楽が始まっています。この導入部の問題提起が動機となり、次第に遠く離れるような、むなしい感じの曲想に変わります。そして繊細な旋律が続くのです。第8番の第1楽章の根底にある感情は、空虚であり、かつ繊細なものです。人間の魂が何かに向かって必死に努力しても報われず、無残に滅びることを表現しています」
先述のドキュメンタリーに収録されたインタビューからの引用である。この発言を踏まえて耳を傾けると、主題の扱いにいかに神経が注がれているかがよく分かるのではないか。
ムラヴィンスキーはベルリオーズ、ドビュッシー、オネーゲルなどフランスの作品も巧みに指揮した。レパートリーはかなり広い。そして気の抜けた駄演は、私の知る限り一つもない。とはいえ、ライヴということもあって録音年代のわりに音質の良くないものが多い。先に挙げた「田園」も大好きな演奏なのだが、マイクの位置が変なので不満はどうしても残る。
ムラヴィンスキーの指揮は貴族的な高潔さを感じさせる。彼は聴衆に媚びるような真似はしなかった。ソビエト共産党に属さず、宗教団体にも属さなかったのは、あくまでも純粋に、高踏的に、政治や宗教を介さず、直接的に音楽と向き合い、作品を正しく表現したかったからだろう。そうした信条の基盤となっているのは、おそらく彼自身の貴族的な資質なのではないかと私には思える。
(阿部十三)
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