1945年の「皇帝」 〜ギーゼキングの真価〜
2011.04.13
ワルター・ギーゼキングの「皇帝」といえば、ヘルベルト・フォン・カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団と組んだ録音が有名である。昔から名演として知られているので、聴いたことがある人も多いだろう。アルチェオ・ガリエラ/フィルハーモニア管弦楽団との録音もあるが、こちらはカラヤン盤に比べると薄味すぎて物足りない。そこが自己主張の強いベートーヴェンらしくなくてかえって良いと言う人もいるようだが......。
しかし、このピアニストにはそんな「皇帝」たちを失脚させてしまうような録音がある。第2次世界大戦末期に演奏された、マグネットフォンによるステレオ・レコーディングの「皇帝」だ。これより先にカラヤンがブルックナーの交響曲第8番第4楽章をマグネットフォンで録音しているが、作品を全曲通したのはこの「皇帝」が最初らしい。そこから浮き上がってくる鮮やかな立体的音響はとても1940年代のものとは思えない。当時のドイツの技術力の高さがここにはっきりと示されている。10年前、初めてこの「皇帝」を聴いた時はその予想外の素晴らしさに心底驚いたものである。皮肉なことに、ギーゼキングが戦後吹き込んだ音源のどれよりも音質が良いのだ。このCDは廃盤、再発、廃盤を繰り返しているようだが、絶対廃盤にすべきではない。
録音されたのは1945年1月23日(1944年秋と記載されている盤もあるが誤り)。この日、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーもベルリンで演奏会を開いていた。モーツァルトの交響曲を指揮している途中、空襲で停電になり中断。一時間後にコンサートが再開されると、フルトヴェングラーはブラームスの交響曲第1番を指揮、それは言語を絶する凄絶な演奏となった。幸い第4楽章の音源が残っているが、ここには指揮者、オーケストラを支配していた異常な心理状態が刻印されている。観客も束の間の憩いを求めて来ているのではない。文字通り命を賭けて聴いているのだ。そんな雰囲気がスピーカーから漏れてくる。
その演奏会と時を同じくして、同じベルリンで、ギーゼキングたちがステレオ録音に挑んでいた。
素晴らしいのは音質だけではない。音質はあくまでも引き立て役。主役はギーゼキングのピアノだ。当時49歳、体力気力共に充実していた時期のギーゼキングのピアノがここまで格調高く、美しく、天然水のように清冽なものだったとは、私は知らなかった。
ギーゼキングの音源は戦前戦後含めていろいろと聴いてはいる。正直に言うと、圧倒された経験は一度もない。かつてベストセラーになった中村紘子の『ピアニストという蛮族がいる』に、閨秀ピアニストの久野久がギーゼキングのピアニッシモを聴いてショックを受けた、というようなことが書かれていたが、私には理解出来なかった。その意味が「皇帝」を聴いてようやく分かった。威風あたりを払い、毅然として雑念のかけらもない。こんな演奏をステレオで残してくれたことには感謝してもしきれない。
リリース時は「爆撃音が聞こえる」と話題になった。たしかにそれらしい音が何度も聞こえてきて、ヒヤリとさせられる。近くで空襲があればピアノも録音機器も揺れると思うのだが、真相はどうなのだろう。私にはなんとも断言出来ない。しかし数時間後、数分後、数秒後、自分たちの命がどうなってしまうか全く分からない絶望的な状況下だったことには変わりない。それでも最高の音楽を奏でようとするその覚悟と矜持は、現代を生きる私たちの耳にも切実に響くに違いない。
繰り返すが、このCDは絶対廃盤にすべきではない。
(阿部十三)
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」(1945年ステレオ)
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