ペーター・マークについて
2022.06.04
美しいメロディーがより美しくなる
おなじみの作品が新鮮な魅力を放ったり、なじみのない作品が親しげに響いたとき、決して誇張ではなく、芸術の深い部分と調和したような気持ちになる。ペーター・マークはそういう感動を与える指揮者である。新鮮な魅力を放つといっても、それが単に奇を衒ったものなら二度聴けば飽きる。マークの指揮はそうではなく、独特の表現が全て音楽的に響くのだ。間の取り方も、内声部の歌わせ方も変わっている。そして何より美しい。この人の手にかかると、美しいメロディーがより美しくなる気がする。
マークは有名無名を問わず、様々なオーケストラを指揮した。お世辞にもうまいとは言えない小規模なオーケストラも率いた。それでも彼の指揮は雄弁だ。団員たちと意思疎通をし、ベストを尽くさせ、自分が表現したいことを聴き手に伝える。こういうことはオーケストラとの間に信頼関係がなければ成立し得ない。おそらく団員たちに「この人のためなら」と思わせるような人間的魅力があったのだろう。かつてハンス・フォン・ビューローは、指揮者の責任の重さについて「下手なオーケストラはない。ただ下手な指揮者がいるだけだ」と語ったらしいが、マークの録音を聴いていると、その通りだと思わされる。
ペーター・マークの略歴
ペーター・マークは1919年5月10日、スイスのザンクト・ガレンに生まれた。父親は元牧師の経歴を持つ哲学教授であり音楽批評家、母親はヴァイオリニスト、母方の曽祖母はクララ・シューマンの教えを受けたピアニストだという。なお、大おじには指揮者のシュタインバッハ兄弟がいる。兄エミールはワーグナーと、弟フリッツはブラームスと親交があったことで有名だ。
マークは幼いころからピアノを弾いていたが、学問への興味も深く、チューリヒ大学、ジェノヴァ大学で神学と哲学を学んだ。その傍ら、パリへ行き、アルフレッド・コルトーに師事。その後、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏した際、意気投合し、多大な影響を受けた。そして、フルトヴェングラーの勧めで指揮者になることを決意、1944年から助手として働き、この偉大な指揮者から多くのことを教わった。1946年からはエルネスト・アンセルメの助手となり、翌年独り立ちした。
1947年、スイスのビール・ゾロトゥルン歌劇場の指揮者に就任。1952年から1955年までデュッセルドルフ歌劇場の首席指揮者、1955年から1959年までボン市立劇場の音楽監督を務め、同時期にモーツァルトのオペラ指揮者として成功を収めた。レコーディングも積極的に行い、順調にキャリアを積んでいたが、1962年に全ての予定をキャンセル。香港へ行き、禅の修行に勤しんだ。純粋に音楽のことでなく、自分自身のこと、成功のこと、野心のことを考えてしまう自分の状態に疑問を感じたのだという。
1964年、ウィーン・フォルクスオーパーの首席指揮者として活動を再開し、1972年には『ドン・ジョヴァンニ』を指揮してメトロポリタン歌劇場に初登場。その後、パルマとトリノのテアトロ・レージョの音楽監督に就任し、さらに1983年から2001年までパドヴァ・ヴェネト管弦楽団、1984年から1991年までベルン交響楽団の音楽監督を務めた。日本にもたびたび訪れ、東京都交響楽団を指揮し、オーケストラ団員にも聴衆にも愛された。2001年4月16日、81歳で死去。
輝ける才能の結晶
ペーター・マークについて、「いつの間にか出世街道からはずれてしまった」とか「レパートリーが狭くて世渡り下手」と書かれている資料がある。おそらく彼の才能と実力なら、確実に主要オーケストラの首席指揮者になれただろう。しかし、そのまま進むことに疑問を抱いた。他人は簡単に「出世街道からはずれた」と言うが、そこには当人にしか分からない芸術家としての精神的な危機があったのだと思う。それを脱した後、マークは成熟した音楽家になった。遺された録音がそのことを証明している。レパートリーも狭くない。古典だけでなくマリピエロやルンドクヴィストなど20世紀の音楽も振っているし、知名度の低いオペラもたくさん振っている。
若い頃にデッカで録音したものは、輝ける才能の結晶だ。音楽に眩しいほどの生気がある。特にモーツァルトの交響曲第32番(1959年録音)、交響曲第38番「プラハ」(1959年録音)、歌劇『ルーチョ・シッラ』序曲(1959年録音)、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」(1960年録音)、劇音楽『真夏の夜の夢』(1957年録音)、『フィンガルの洞窟』(1960年録音)、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』序曲は素晴らしい。「プラハ」は序奏から創意がある。アンサンブルはやや粗いが、活力に満ちていて、みずみずしいパワーに屈服させられる。『フィンガルの洞窟』も陰翳に富んだ名演奏で、クライマックスでは熱気を増した響きが光彩となり波となって聴き手を覆い尽くす。
豊かさを増して深まる表現
1960年代半ばからはVox、ARTS、IMPなど様々なレーベルに、様々なオーケストラと共に録音していた。まず挙げるべき代表的な録音は、シューベルトの交響曲全集(フィルハーモニア・フンガリカ/1969年録音)、ベートーヴェンの交響曲全集(1994年、1995年録音/パドヴァ・ヴェネト管)、メンデルスゾーンの交響曲全集(1997年、2000年録音/マドリッド響)、モーツァルト後期交響曲集(1996年、1997年録音/パドヴァ・ヴェネト管)。さらに付け加えるなら、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」(ベルン響/1986年録音)、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」(ベルン響/1986年録音)、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」(都響/1986年録音)、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と愛の死(都響/1995年)あたりだろう。
「プラハ」、「ジュピター」、「田園」、「新世界より」を聴けば分かるように、この時期になると表現に深みが出てきて、指揮者の音楽性の豊かさがそのままオーケストラの音にあらわれている。かつての才能とパワーで押し切る感じではない。無理のないテンポで、絶対的な確信をもって指揮している。そのフレージングやアゴーギクは独特だが説得力があり、経過句に深い意味を持たせるとともに、「主題が現れる」という当たり前のことを特別な出来事のように感じさせる。主題の響かせ方、歌わせ方のうまさは、シュトラウスのワルツ集(RAIローマ響/1993年録音)でも示されている。「皇帝円舞曲」で主題が奏でられる時の高揚感は、思い出すだけでワクワクする。
オペラ、協奏曲の録音と映像
オペラの録音だと、マスネの『マノン』(ミラノ・スカラ座管/1969年ライヴ録音)、ヴェルディの『ルイーザ・ミラー』(ナショナル・フィル/1978年録音)が超名演だ。マークは、全体の流れを見ながらドラマを盛り上げるのがうまい。『ルイーザ・ミラー』には馴染みがないという人は多いと思うが、そういう人でも一点の曇りもない歌心と求心力に満ちた演奏に心を掴まれるだろう(歌手がカバリエとパヴァロッティであることも魅力的)。まずは序曲だけでも聴いてほしい。
協奏曲では、バリー・タックウェル独奏のモーツァルトのホルン協奏曲集(ロンドン響/1960年、1961年録音)、エディット・パイネマン独奏のドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲(チェコ・フィル/1966年録音)、ペーター・ヤブロンスキー独奏のグリーグのピアノ協奏曲(フィルハーモニア管/1993年録音)が絶品。グリーグのピアノ協奏曲のクライマックスの壮大さはマークらしい表現で、私は好きである。シューマンの「序奏とアレグロ・アパッショナート」(スイス・イタリア放送管/1998年録音)も良い。独奏はベネデット・ルポ。これは個人的に偏愛している作品なので、録音してくれただけでも嬉しい。
ドヴォルザークの「新世界より」のライヴ映像もある。収録年は1996年で、オーケストラはスイス・イタリアーナ管(Silverline ClassicsのDVDで、「新世界より」のトラックが探しにくいが、「Audio」メニューに収録されている)。マークは低めの位置で指揮棒を振り、勢いで流すような動きはしない。その指揮法は個性的なものには見えないが、どの楽章にもマークらしい創意があり、新鮮に響くポイントがある。最も美しいのは第4楽章の第2主題が回想されるところで、団員たちが生き生きと、ひたむきに演奏しているのが伝わってくる。もっとうまいオーケストラは山ほどあるのに、この演奏でしか味わえない感動があり、また聴きたくなる。なぜ、こんな風に指揮をすることができるのだろう。マークの経歴を振り返ると、音楽の神秘に包まれたコルトーやフルトヴェングラーという存在がいるので、ひょっとすると、その辺に秘密があるかもしれない。
(阿部十三)
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