アルテュール・グリュミオー 〜限りなく美しい音〜
2022.11.04
森の中で歌うただ一羽の鳥
ヴァイオリンというものは、ここまで美しい音が出るのか。アルテュール・グリュミオーの録音を聴くたびに、そう思わされる。その音は艶やかでよく歌う。豊かな響きをもち、潤いがある。表現は端正で、貴族的と言いたくなるほど格調高い。切れ味はあるが、無理に力を入れて弾いているという印象がほとんどない。弟子のオーギュスタン・デュメイが伝えるところによると、そんなグリュミオーのことをアイザック・スターンは「森の中で歌うただ一羽の鳥のようだ」と評していたらしい。
グリュミオーは聴く者を威嚇せず、圧倒しない。奏法的には「弓を弦に押し付けるのではなく、弓の重みを弦にのせる」ことを重んじ、デュメイたちにもそうするように指導していた。「大きな音を出す時ほど、リラックスできていなければならない」「弦の上にある空間でいかに弓を操るかが重要だ」とも助言していた。
演奏法だけでなく、楽器の調整に関しても独自のこだわりがあった。15種類の弦を前にしてどれにするか悩んだり、職人に指板を17回も替えさせたりしたこともあった(18回目は職人に拒否された)。ある日の稽古中、グリュミオーが楽器の調整に対する不満を延々と漏らすと、当時デュオを組んでいたピアニストのクララ・ハスキルは、「お願いだから、弦のことであれこれ言うのをやめてくれない?」と怒ったという逸話も残っている。
65年の生涯
戦後、プロデューサーのウォルター・レッグに見出されてロンドンで活動を開始し、すぐに人気を博した。1949年にはブリュッセル音楽院の教授に就任、教育にも力を入れた。1950年にはクララ・ハスキルとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番を演奏して意気投合。そのまま協演を重ね、1960年にハスキルが急死するまで、モーツァルトやベートーヴェンのソナタなどで素晴らしい演奏を披露した。1954年にはパガニーニのヴァイオリン協奏曲第4番の蘇演を務め、成功。レコーディングも演奏活動も積極的に行い、1973年にはベルギー国王によって男爵に叙爵された。1986年10月16日、心臓発作で死去。ハスキルと同じく65歳だった。
理想的なバッハ、モーツァルト
ヘンデルのソナタ集(1966年録音)、ルクーのソナタ(1973年録音)、フォーレのソナタ第1番(1977年録音)も絶品。これ以上美しい音でこれらの作品を聴くことはできないのではないか。ヴァイオリンとピアノの両方を弾いた、多重録音によるモーツァルトのソナタ第41番、ブラームスのソナタ第2番(1959年録音)も面白い。思いのほかピアノの主張が強く、ヴァイオリンの方が控えめに聴こえる。
ヴァイオリン協奏曲の分野にも素晴らしい録音がある。パガニーニの協奏曲第4番(1954年録音)、ブラームスの協奏曲(1958年録音)、モーツァルトの協奏曲第3番、第5番(1961年録音)、ブルッフの協奏曲第1番(1962年録音)、サン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソ(1963年録音)、ベートーヴェンの協奏曲(1966年録音)、ヴィオッティの協奏曲第22番(1969年録音)、J.S.バッハの協奏曲第1番(1978年録音)である。
特にバッハ、ヴィオッティ、モーツァルトは最高だ。美しく繊細なだけでなく、音の響きにしっかりとした強度があり、弱々しくならない。トリルやヴィブラートにも技巧臭さがなく、なめらかに響く。モーツァルトの第3番の第3楽章に挿入されたアンダンテ部分は、いかにもグリュミオーらしい。短調の陰影のあるトリルには何のわざとらしさもなく、貴族的な気品が漂っている。タルティーニの「悪魔のトリル」(1956年録音)のような曲ですら、音楽の自然な流れが損なわれていない。
ショーソンの「詩曲」とラヴェルの「ツィガーヌ」はグリュミオーの十八番。録音の種類は複数あるが、モノラル盤の方が表現が引き締まっていて、演奏内容が充実している。バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全集(1960年〜1961年録音)も名盤。グリュミオーとバッハの相性は良い。美しく洗練されていて、力強さもあり、しかも慈愛の精神が感じられる。最後の公式録音となったのは、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集(1981年〜1983年録音)。余分な表情付けを排し、呼吸をするように旋律を紡いでいる。ハスキル盤と共に揃えておきたい録音だ。
(阿部十三)
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