クララ・ハスキル 〜彼女のように弾くことは誰にもできない〜
2024.02.06
特別な雰囲気
クララ・ハスキルはルーマニア出身のピアニストで、モーツァルト弾きとして定評があった。幼少期から才能を発揮していたが、病気等に悩まされて思うようにキャリアを積めず、実際に大きな注目を浴びたのは戦後、50歳を過ぎてからのことだった。
ハスキルのピアノの特徴を一言で表現するのは難しい。あっと言わせるような解釈があるわけでも、絢爛たる技巧があるわけでも、人間離れした迫力やスケール感があるわけでもない。ただ、ハスキルの演奏には、音楽を通じて作曲者の内面を語り聞かせるような雰囲気がある。決して騒がないし、口数も多くないが、献身的に音楽と向き合い、本質を外さない人の語り口だ。ピアノの音色は優しく、人懐っこく、そして寂しい。左手が雄弁で、強めの低音から深い寂寥が醸されている。
「ほかの人たちには努力や研究、内省によってもたらされるものが、クララには何の問題もなく天からもたらされているように思えた」ーーこれはニキタ・マガロフの言葉である。演奏自体は何かすごく変わったことをしているわけではないため、当たり前のようにピアノを弾いているとしか思えない、という人も多いだろう。しかしハスキルのように弾くことは誰にもできないのである。
65年の生涯
クララ・ハスキルは1895年1月7日、ルーマニアのブカレストに生まれた。4歳でピアノを始め、7歳の時にウィーンに移住し、リヒャルト・ロベルト(ルドルフ・ゼルキン、ジョージ・セルの師)に師事。1907年、パリ音楽院に合格。アルフレッド・コルトーに師事したが、コルトーはハスキルに対して冷淡だったという。その代わりにハスキルを指導したのは、ラザール・レヴィだった。1910年、パリ音楽院を卒業。コンサート活動を本格化させるが、12歳頃から患っている脊椎側弯症が悪化、それ以外にも数々の病気に悩まされた。
1920年代後半からパブロ・カザルス、ジョルジェ・エネスク、ウジェーヌ・イザイと共演したり、北米ツアーを行なったりして名声を高めるが、それも束の間、病気や事故のため、演奏会の数が減った。1942年、頭痛の悪化のためマルセイユで頭部手術を受けた後、スイスに移住。健康に気を遣いながら、たまにコンサートを開いていた。
戦後、ハスキルはこれまで以上に演奏会を行うようになる。すでに50歳を超えていたが、エネルギーはピークに達していた。欧州各国でリサイタルを開くだけでなく、レコーディングにも取り組み、国際的に高く評価された。1950年にはプラド音楽祭でアルトゥール・グリュミオーと初共演。その後も共演を重ね、「黄金のデュオ」と賞賛された。協奏曲を演奏する機会も増え、多くの指揮者と協演した。1957年、肺出血で入院し、半年後に退院。その後もコンサートとレコーディングを積極的に行ったが、1960年12月6日、ブリュッセル南駅の階段で転倒し、頭蓋骨を骨折。翌日亡くなった。
親交のあった人々
喜劇王チャールズ・チャップリンとは同じヴヴェイに住んでいたのが縁で交流するようになり、チャップリン家でピアノを弾くこともあったという。チャップリンはハスキルの才能に感嘆し、次のような賛辞を送っていた。「私の生涯に出会った天才は3人だけだ。 ウィンストン・チャーチル、アルバート・アインシュタイン、 そしてクララ・ハスキルである」ーーもっとも、チャーチル、アインシュタインは知っていても、ハスキルは知らないという人は多いだろう。伝記も驚くほど少ない。
ほかにもディヌ・リパッティ、ヴィルヘルム・バックハウス、ニキタ・マガロフ、ヨウラ・ギュラー、アルトゥール・グリュミオーと交流があった。同郷のリパッティとは特に親しく、姉弟のような絆で結ばれていた。リパッティ夫人によると、リパッティはハスキルのことを音楽の化身と呼び、「あんなに才能豊かな人が、全く控えめで自分に自信がないのが不思議でならない」と語っていたという。相性の良かった指揮者はエルネスト・アンセルメ、シャルル・ミュンシュ、イーゴリ・マルケヴィチ、ラファエル・クーベリック、フェレンツ・フリッチャイ。ヘルベルト・フォン・カラヤンもそこに加えていいかもしれない。カラヤンはハスキルに絶大な信頼を寄せ、丁重にもてなし、ピアノを引き立てるように指揮していた。
ハスキルが弾く協奏曲
レパートリーはバッハからヒンデミットにまで及ぶ。若い頃はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番も弾いていた。かつてはハスキルの名盤といえば「フリッチャイ、マルケヴィチと録音したモーツァルトの協奏曲」と決まっていたが、今では様々なライヴ音源が出回り、セッション録音とは一味違うハスキルの演奏を楽しめるようになっている。それでもやはりフリッチャイと組んだモーツァルトのピアノ協奏曲第27番(1957年録音)、マルケヴィッチと組んだピアノ協奏曲第20番(1960年録音)が名演であるという事実は変わらない。前者は天から降りてきたような雰囲気があり、後者はピアノから気迫と孤独感が滲み出ている。ライヴ音源の中では、シャルル・ミュンシュと協演した第23番(1959年ライヴ録音)、オットー・アッカーマンと協演した第9番(1954年ライヴ録音)が、演奏も音質も良い。
マルケヴィッチとはベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(1959年録音)、ファリャの「スペインの庭の夜」(1960年録音)、ショパンのピアノ協奏曲第2番(1960年録音)も録音している。忌憚なく言って、モーツァルトよりもこれらの録音の方がオーケストラ(ラムルー管)の響きに精彩がある。ウィレム・ファン・オッテルローが指揮したシューマンのピアノ協奏曲(1951年録音)は、ハスキルの長所がはっきりと出た演奏。孤独の淵を歩いたり、情熱的に燃えたり、高らかに飛翔したりと、様々なイメージを現出させる。第1楽章の展開部など実にロマンティックで、えもいわれぬ高揚感がある。左手の陰影の付け方も絶妙だ。それも計算している風ではなく、ほとんど本能的に弾いているようにしか思えない。
作品本来の姿
モーツァルトのピアノ・ソナタ第10番(1954年録音)、きらきら星変奏曲(1960年録音)、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番(1951年録音)、シューマンの「アベッグ変奏曲」(1951年録音)、「森の情景」(1954年録音)も不朽の遺産。いずれも無駄に構えることなく作品の本来あるべき姿を示すような演奏で、生命力に満ちている。グリュミオーと録音したモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集(1956年〜1958年録音)、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集(1956年〜1957年録音)は、自然な流れを重んじた表現で、フレージングも鮮やかだ。今もなお、このデュオによる録音を最上と評する人は絶えない。
ライヴ音源では、1953年のルートヴィヒスブルク・リサイタル、1956年のブザンソン・リサイタル、1957年のザルツブルク音楽祭ライヴ、1957年のエジンバラ音楽祭ライヴが有名。ハスキルの豊かな音楽性を伝える内容で、孤独な心に寄り添うようなピアノの音色に、思わず目頭が熱くなる。特にルートヴィヒスブルクで弾いたバッハの「トッカータ」とスカルラッティのソナタ、ブザンソンで弾いたモーツァルト、ザルツブルクで弾いたシューベルトは融通無碍で、微妙な陰影に富んだ名演である。
(阿部十三)
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