ハンス・クナッパーツブッシュ 〜ワーグナーへの忠誠〜 第1章
2011.05.10
ハンス・クナッパーツブッシュは1888年3月12日、ドイツのエルバーフェルトに生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、12歳の時に児童オーケストラを指揮、いつしかオペラ指揮者を夢見るようになる。親からは音楽の道に進むことを反対されるが、1908年、ボン大学で学業を修めることを条件に、ケルン音楽院に通う許しを得る。音楽院ではブラームスと親交のあったフリッツ・シュタインバッハに指揮を師事。当時は劣等生とみなされていたらしい。1910年より指揮者として活動し、ミュールハイム=ルール劇場、ボーフム市立劇場に勤める(どちらも経営状態が悪く、閉鎖された)。また、1909年(もしくは1908年)から1912年の夏はバイロイト音楽祭で助手の仕事に就き、『ニーベルングの指環』の初演者であるハンス・リヒターから大きな影響を受けた。1913年に学位請求論文「ワーグナーの『パルジファル』におけるクンドリーの本質」を提出。同年故郷のエルバーフェルト歌劇場に第二指揮者のポストを得て、ルイ・エメ・マイヤールの『隠者の小鐘』で正式にデビューした。
1913年12月31日の深夜、それまでバイロイト音楽祭でしか上演できなかった舞台神聖祝典劇『パルジファル』が解禁。クナは病気で降板した第一指揮者エルンスト・クノッホに代わり、1914年1月31日、初めてこの作品を指揮した。そして第一指揮者に就任。第一次世界大戦が勃発すると徴兵され、1917年まで軍務に服していたという。
1918年にライプツィヒ市立歌劇場の指揮者、翌年にはデッサウのフリードリヒ劇場の指揮者になる。そこで人気を得るが、1921年4月、ワーグナーを貶める記事を書いた「アンヘルト展望」の批評家に憤慨し、コンサート前に弾劾演説を行う。この行為はマスコミの反感を買い、以後、デッサウでのクナッパーツブッシュの立場は悪くなった。1922年、ワーグナーの街ミュンヘンに移り、ブルーノ・ワルターの後任としてバイエルン州立歌劇場の音楽総監督に就任。ワーグナー作品の上演で成功を重ね、ミュンヘンの偶像となった。1929年に批評家とまた問題を起こしているが、地位は安泰だった。
状況が変わってくるのは1933年にナチスが政権を獲得してからである。ヒトラーはクナッパーツブッシュが指揮するワーグナーを嫌っていた。「彼の指揮するオペラを聴くのは苦行そのものだ。オーケストラは音が大きすぎ、ヴァイオリンは管楽器に妨害され、歌手の声はかき消されている」「指揮者は狂人のようなジェスチャーに没頭している。彼のことは見ない方がいい」「クナッパーツブッシュはミュンヘンにふさわしい指揮者ではない。クレメンス・クラウスの方が適任である」といった発言が記録されている。
かたやクナもヒトラーのことを嫌っていた。お互い熱烈なワグネリアンであるにもかかわらず、理解し合えなかったようである。
クナッパーツブッシュのキャリア最大の汚点と言われる出来事が起こるのもこの時期である。トーマス・マンが行った「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大」の講演内容に対し、クナッパーツブッシュが噛み付いたのである。「ミュンヘン最新報」に掲載された「リヒャルト・ワーグナーの都市ミュンヘンの抗議」、これを書いて署名を集めたのはクナッパーツブッシュだったという。スイスでこのニュースを知ったマンはショックを受け、身の危険を感じ、ドイツへの帰国を断念する。
一指揮者による抗議からトーマス・マン排斥のムードにまで高まった背景にはナチスの存在があったといわれる。クナッパーツブッシュ自身はナチを嫌っていたが、ナチはこれを最も手強い反ナチであるトーマス・マンを撃墜する絶好の機会として利用したのだろう。とはいえ、クナが抗議運動の中心人物だったことには変わりない。ナチ党のお膝元ミュンヘンのファナティックなムードと、クナッパーツブッシュが抱いているヒステリックなまでのワーグナー崇拝が絡み合い、こういう事態を招いたのである。
1934年の秋、ヒトラーの息がかかった演出家オスカー・ヴァレックがバイエルン州立歌劇場支配人の座に就任。クナッパーツブッシュはヴァレックと度々衝突する。そして12月、舌禍事件が起こる。客演でオランダに行った際、ナチ党員の外交官を相手に、クナッパーツブッシュは「あなたは仕方なしのナチですか?」と尋ねたのだ。いうまでもなく外交官は憤慨した。
このことが引き金となり、翌年クナッパーツブッシュはミュンヘンを追放された。全ての役職を解かれた彼は、1936年から終戦までウィーンを拠点にして活動していた。さすがに公の場でナチを揶揄するような発言をすることはなくなったようだが、ヒトラーの演説が劇場内のスピーカーから聞こえてくると、灰皿を投げつけていたという。ナチ党員が「ハイル・ヒトラー!」と挨拶をすると、「私の前でそのくだらない挨拶をするのはやめてくれ」と怒ったという証言もある。むろん自分でそういう挨拶をすることも拒否し、あえてズボンに手を突っ込んだまま「グーテン・モルゲン!」と挨拶していた。
終戦後、ミュンヘンの指揮台に戻ったクナッパーツブッシュだったが、今度は連合国側から反ユダヤ主義者として指揮活動禁止処分を受ける。ヒトラーに嫌われ、ナチスに睨まれながら、出来る範囲で反ナチの精神を保持してきたクナにしてみれば、この処分は屈辱だったに違いない。この誤解が解けるまでの間に、クナは周囲に人を寄せつけなくなったという。
1946年12月に無罪の判決が下り、翌年1月、バンベルク交響楽団のコンサートで復帰。ここからは栄光の歩みである。ウィーン・フィル、ミュンヘン・フィルと密接な関係を保ちながら、1951年のバイロイト音楽祭再開時には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『指環』『パルジファル』を指揮して絶賛を博す。以後、ワーグナーの孫ヴィーラントの斬新な演出スタイル「新バイロイト様式」に腹を立てて出場辞退した1953年を除き、死の前年の1964年まで毎年バイロイト音楽祭の指揮台に立った。「神」であるワーグナーへの忠誠から、ほとんど無償で指揮をしていたという。1961年に胃の手術をしてから急速に体力が衰え、椅子に座って指揮をするようになる。1964年秋に自宅で大腿骨を骨折、静養していたが、体力は回復することなく、1965年10月25日に77歳で亡くなった。
1913年12月31日の深夜、それまでバイロイト音楽祭でしか上演できなかった舞台神聖祝典劇『パルジファル』が解禁。クナは病気で降板した第一指揮者エルンスト・クノッホに代わり、1914年1月31日、初めてこの作品を指揮した。そして第一指揮者に就任。第一次世界大戦が勃発すると徴兵され、1917年まで軍務に服していたという。
1918年にライプツィヒ市立歌劇場の指揮者、翌年にはデッサウのフリードリヒ劇場の指揮者になる。そこで人気を得るが、1921年4月、ワーグナーを貶める記事を書いた「アンヘルト展望」の批評家に憤慨し、コンサート前に弾劾演説を行う。この行為はマスコミの反感を買い、以後、デッサウでのクナッパーツブッシュの立場は悪くなった。1922年、ワーグナーの街ミュンヘンに移り、ブルーノ・ワルターの後任としてバイエルン州立歌劇場の音楽総監督に就任。ワーグナー作品の上演で成功を重ね、ミュンヘンの偶像となった。1929年に批評家とまた問題を起こしているが、地位は安泰だった。
状況が変わってくるのは1933年にナチスが政権を獲得してからである。ヒトラーはクナッパーツブッシュが指揮するワーグナーを嫌っていた。「彼の指揮するオペラを聴くのは苦行そのものだ。オーケストラは音が大きすぎ、ヴァイオリンは管楽器に妨害され、歌手の声はかき消されている」「指揮者は狂人のようなジェスチャーに没頭している。彼のことは見ない方がいい」「クナッパーツブッシュはミュンヘンにふさわしい指揮者ではない。クレメンス・クラウスの方が適任である」といった発言が記録されている。
かたやクナもヒトラーのことを嫌っていた。お互い熱烈なワグネリアンであるにもかかわらず、理解し合えなかったようである。
クナッパーツブッシュのキャリア最大の汚点と言われる出来事が起こるのもこの時期である。トーマス・マンが行った「リヒャルト・ワーグナー その苦悩と偉大」の講演内容に対し、クナッパーツブッシュが噛み付いたのである。「ミュンヘン最新報」に掲載された「リヒャルト・ワーグナーの都市ミュンヘンの抗議」、これを書いて署名を集めたのはクナッパーツブッシュだったという。スイスでこのニュースを知ったマンはショックを受け、身の危険を感じ、ドイツへの帰国を断念する。
一指揮者による抗議からトーマス・マン排斥のムードにまで高まった背景にはナチスの存在があったといわれる。クナッパーツブッシュ自身はナチを嫌っていたが、ナチはこれを最も手強い反ナチであるトーマス・マンを撃墜する絶好の機会として利用したのだろう。とはいえ、クナが抗議運動の中心人物だったことには変わりない。ナチ党のお膝元ミュンヘンのファナティックなムードと、クナッパーツブッシュが抱いているヒステリックなまでのワーグナー崇拝が絡み合い、こういう事態を招いたのである。
1934年の秋、ヒトラーの息がかかった演出家オスカー・ヴァレックがバイエルン州立歌劇場支配人の座に就任。クナッパーツブッシュはヴァレックと度々衝突する。そして12月、舌禍事件が起こる。客演でオランダに行った際、ナチ党員の外交官を相手に、クナッパーツブッシュは「あなたは仕方なしのナチですか?」と尋ねたのだ。いうまでもなく外交官は憤慨した。
このことが引き金となり、翌年クナッパーツブッシュはミュンヘンを追放された。全ての役職を解かれた彼は、1936年から終戦までウィーンを拠点にして活動していた。さすがに公の場でナチを揶揄するような発言をすることはなくなったようだが、ヒトラーの演説が劇場内のスピーカーから聞こえてくると、灰皿を投げつけていたという。ナチ党員が「ハイル・ヒトラー!」と挨拶をすると、「私の前でそのくだらない挨拶をするのはやめてくれ」と怒ったという証言もある。むろん自分でそういう挨拶をすることも拒否し、あえてズボンに手を突っ込んだまま「グーテン・モルゲン!」と挨拶していた。
終戦後、ミュンヘンの指揮台に戻ったクナッパーツブッシュだったが、今度は連合国側から反ユダヤ主義者として指揮活動禁止処分を受ける。ヒトラーに嫌われ、ナチスに睨まれながら、出来る範囲で反ナチの精神を保持してきたクナにしてみれば、この処分は屈辱だったに違いない。この誤解が解けるまでの間に、クナは周囲に人を寄せつけなくなったという。
1946年12月に無罪の判決が下り、翌年1月、バンベルク交響楽団のコンサートで復帰。ここからは栄光の歩みである。ウィーン・フィル、ミュンヘン・フィルと密接な関係を保ちながら、1951年のバイロイト音楽祭再開時には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『指環』『パルジファル』を指揮して絶賛を博す。以後、ワーグナーの孫ヴィーラントの斬新な演出スタイル「新バイロイト様式」に腹を立てて出場辞退した1953年を除き、死の前年の1964年まで毎年バイロイト音楽祭の指揮台に立った。「神」であるワーグナーへの忠誠から、ほとんど無償で指揮をしていたという。1961年に胃の手術をしてから急速に体力が衰え、椅子に座って指揮をするようになる。1964年秋に自宅で大腿骨を骨折、静養していたが、体力は回復することなく、1965年10月25日に77歳で亡くなった。
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