フリッツ・ブッシュ 〜音楽の生命力〜 その2
2011.09.09
グラインドボーン音楽祭のメンバーを起用した1930年代のオペラ録音(『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』『ドン・ジョヴァンニ』)の中では、『コジ・ファン・トゥッテ』が抜群に素晴らしい。これは『コジ』演奏史に残る屈指の名演である。カットの問題はあるが、『コジ』がここまで生き生きと演奏され、歌手たちのエネルギーが躍動している例はほとんどない。
このオペラの性格を決定するのはデスピーナである。彼女を悪意に満ちた邪悪な人物にするか、やり手婆みたいな女にするか、陽気で何も考えてない冒険好きの小娘にするか、その設定次第でオペラ全体の空気が変わる。どのみち観る者に複雑な思いをさせる「毒」の入ったオペラなのだから、徹底的に毒々しいものにすればいい、と言う人もいるが、その手の演奏は本当に気が滅入る。せめてどす黒いニュアンスや遣る瀬なくなるようなリアリティは排除し、悪意のない陽気さと遊戯感覚を保って演じてほしいものだ。そんな理想をイレーネ・アイジンガーのデスピーナは体現している。アイジンガーは陽気で愛嬌があってはしこい小間使いそのものである。ブッシュの指揮も深刻ぶることなく、絶妙な軽やかさとテンポ設定で、高きより低きに流れるが如く音楽を進行させている。どこまでもみずみずしい不朽の『コジ』である。
なお、ブッシュの『コジ』にはもう一種類、1951年7月に行われたグラインドボーン音楽祭でのライヴ盤がある。フィオルディリージをセーナ・ユリナッチが歌っているというだけでも聴く価値はあるが、肝心のデスピーナの魅力が足りない。
モーツァルト以外のオペラでは、ヴェルディの『仮面舞踏会』の録音が出色の出来映えだ。これは1951年2月15日に行われた放送録音で、オーケストラはケルン放送交響楽団。レナート役を歌っているのは若き日のディートリヒ・フィッシャー=ディースカウである。ドイツ語版だが、これはヴェルディ指揮者としても定評のあったブッシュの真価を知る上で絶対に外せない遺産だ。モーツァルト・オペラの時とはまた全然違って、緊迫感溢れるドラマティックな演奏で聴き手の集中力を逸らさせない。ブッシュというと「戦前の指揮者」というイメージが強いが、戦後、しかも晩年にも、こんな求心力を持っていたのだ。
残念なのは、彼が指揮したR.シュトラウスのオペラをほとんど聴けないことである。まともに残っているのは『エジプトのヘレナ』の抜粋録音くらいではないだろうか。よく知られているように、『インテルメッツォ』『エジプトのヘレナ』の上演に感激したシュトラウスは、新作『アラベラ』の初演をブッシュに託したが、ナチスのせいでその希望は叶わなかった。シュトラウスを魅了した『インテルメッツォ』はどんな風だったのか。『アラベラ』を指揮していたらどういう演奏になったのか。今となってはただ想像するしかない。
オペラ以外の録音もあるが、何をおいても聴いておきたいのは、ハイドンの交響曲第100番「軍隊」、シューマンの交響曲第4番、ブラームスの交響曲第2番である。これらの作品には「名盤」と呼ばれる録音が少なからず存在するが、ブッシュが持っている語り口は誰にも真似出来ない。ハイドンの交響曲第100番「軍隊」のアゴーギクなどまさに匠の技。力点をうまく配分しながら音楽を運び、フィナーレで一気に畳み掛ける。オーケストラはウィーン交響楽団。いかにも昔のウィーンのオーケストラらしい響きも魅力だ。
シューマンの交響曲第4番は第1楽章から燃え上がるような演奏で聴き手を圧倒するが、白眉はなんといっても第4楽章の序奏。この部分についてはフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの演奏が最高とされているが、ブッシュ&北ドイツ放送交響楽団の演奏も凄絶で、世界を一変させるようなマグマの不穏な蠢きを感じさせる。ブッシュのデモーニッシュな一面が表れた稀有な熱演だ。
ブラームスの交響曲第2番の音源は数種類あるが、いずれも拍節感が非常に特徴的である。おそらく師匠シュタインバッハ直伝のものだろう、間合いを取りながら、しっかりと空に刻みつけるように演奏している。飾り気がないようでいて、その実、旋律を細かく起伏させ、陰翳を施しているところも心憎い。フィナーレの怒濤の勢いは1931年2月にシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したライヴ盤が最高だろう。ただ、音質はかなり古い。
せめてあと10年長生きしていたら、と思わずにいられない。そうすれば再びドイツで輝かしいキャリアを築けただろうし、ステレオ録音も残せただろう。が、そんなことを考えても仕方ない。我々に出来るのは、まだ埋もれているかもしれない垂涎の音源がリリースされる日を待つことだけだ。個人的には、マリア・チェボターリがドレスデン時代にミミ役を歌った『ラ・ボエーム』が発掘され、発売されることを切望している。
【関連サイト】
フリッツ・ブッシュ 〜音楽の生命力〜 その1
フリッツ・ブッシュ(CD)
このオペラの性格を決定するのはデスピーナである。彼女を悪意に満ちた邪悪な人物にするか、やり手婆みたいな女にするか、陽気で何も考えてない冒険好きの小娘にするか、その設定次第でオペラ全体の空気が変わる。どのみち観る者に複雑な思いをさせる「毒」の入ったオペラなのだから、徹底的に毒々しいものにすればいい、と言う人もいるが、その手の演奏は本当に気が滅入る。せめてどす黒いニュアンスや遣る瀬なくなるようなリアリティは排除し、悪意のない陽気さと遊戯感覚を保って演じてほしいものだ。そんな理想をイレーネ・アイジンガーのデスピーナは体現している。アイジンガーは陽気で愛嬌があってはしこい小間使いそのものである。ブッシュの指揮も深刻ぶることなく、絶妙な軽やかさとテンポ設定で、高きより低きに流れるが如く音楽を進行させている。どこまでもみずみずしい不朽の『コジ』である。
なお、ブッシュの『コジ』にはもう一種類、1951年7月に行われたグラインドボーン音楽祭でのライヴ盤がある。フィオルディリージをセーナ・ユリナッチが歌っているというだけでも聴く価値はあるが、肝心のデスピーナの魅力が足りない。
モーツァルト以外のオペラでは、ヴェルディの『仮面舞踏会』の録音が出色の出来映えだ。これは1951年2月15日に行われた放送録音で、オーケストラはケルン放送交響楽団。レナート役を歌っているのは若き日のディートリヒ・フィッシャー=ディースカウである。ドイツ語版だが、これはヴェルディ指揮者としても定評のあったブッシュの真価を知る上で絶対に外せない遺産だ。モーツァルト・オペラの時とはまた全然違って、緊迫感溢れるドラマティックな演奏で聴き手の集中力を逸らさせない。ブッシュというと「戦前の指揮者」というイメージが強いが、戦後、しかも晩年にも、こんな求心力を持っていたのだ。
残念なのは、彼が指揮したR.シュトラウスのオペラをほとんど聴けないことである。まともに残っているのは『エジプトのヘレナ』の抜粋録音くらいではないだろうか。よく知られているように、『インテルメッツォ』『エジプトのヘレナ』の上演に感激したシュトラウスは、新作『アラベラ』の初演をブッシュに託したが、ナチスのせいでその希望は叶わなかった。シュトラウスを魅了した『インテルメッツォ』はどんな風だったのか。『アラベラ』を指揮していたらどういう演奏になったのか。今となってはただ想像するしかない。
オペラ以外の録音もあるが、何をおいても聴いておきたいのは、ハイドンの交響曲第100番「軍隊」、シューマンの交響曲第4番、ブラームスの交響曲第2番である。これらの作品には「名盤」と呼ばれる録音が少なからず存在するが、ブッシュが持っている語り口は誰にも真似出来ない。ハイドンの交響曲第100番「軍隊」のアゴーギクなどまさに匠の技。力点をうまく配分しながら音楽を運び、フィナーレで一気に畳み掛ける。オーケストラはウィーン交響楽団。いかにも昔のウィーンのオーケストラらしい響きも魅力だ。
シューマンの交響曲第4番は第1楽章から燃え上がるような演奏で聴き手を圧倒するが、白眉はなんといっても第4楽章の序奏。この部分についてはフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの演奏が最高とされているが、ブッシュ&北ドイツ放送交響楽団の演奏も凄絶で、世界を一変させるようなマグマの不穏な蠢きを感じさせる。ブッシュのデモーニッシュな一面が表れた稀有な熱演だ。
ブラームスの交響曲第2番の音源は数種類あるが、いずれも拍節感が非常に特徴的である。おそらく師匠シュタインバッハ直伝のものだろう、間合いを取りながら、しっかりと空に刻みつけるように演奏している。飾り気がないようでいて、その実、旋律を細かく起伏させ、陰翳を施しているところも心憎い。フィナーレの怒濤の勢いは1931年2月にシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したライヴ盤が最高だろう。ただ、音質はかなり古い。
せめてあと10年長生きしていたら、と思わずにいられない。そうすれば再びドイツで輝かしいキャリアを築けただろうし、ステレオ録音も残せただろう。が、そんなことを考えても仕方ない。我々に出来るのは、まだ埋もれているかもしれない垂涎の音源がリリースされる日を待つことだけだ。個人的には、マリア・チェボターリがドレスデン時代にミミ役を歌った『ラ・ボエーム』が発掘され、発売されることを切望している。
(阿部十三)
【関連サイト】
フリッツ・ブッシュ 〜音楽の生命力〜 その1
フリッツ・ブッシュ(CD)
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