ジネット・ヌヴー 〜炎のヴァイオリニスト〜
2011.10.10
ジネット・ヌヴーのヴァイオリンは胸を突き刺すような鋭い音で聴く者をとらえて離さない。フレーズのどこを切っても鮮血が飛び散りそうなほど熱い情熱が脈打っている。ただし、エモーショナルで尖った音だけがヌヴーの個性というわけではない。彼女の演奏家としての特性はむしろ、火を噴くような荒々しいパトスの奔出、集中力に支えられた逞しい造型感、油絵のような色彩感が統合された妙味にある。
ヌヴーは1919年8月11日にパリに生まれた。親戚に「オルガン交響曲」で知られる作曲家のシャルル=マリー・ヴィドールがいる。ヴァイオリニストである母親のレッスンを受け、7歳の時に初めて公開演奏を行う。ジョルジュ・エネスコの講習会にも参加。情熱的な演奏を披露するヌヴーを見て、エネスコは「消防を呼びたいくらいの烈しい熱演だ」と叫んだという。パリ音楽院ではジュール・ブーシュリに師事。僅か8ヶ月在学しただけでプルミエ・プリを得て卒業。カール・フレッシュの指導を受け、いよいよ才能が開花する。
1935年3月、15歳のヌヴーは第1回ヴィエニャフスキ・コンクールに出場した。ヴィエニャフスキの生誕100年を記念するこの大会には世界各国から有望株がこぞって参加。その中にはソ連から送り込まれた名手、26歳のダヴィッド・オイストラフの姿もあった。審査員にはフランス人はおらず、ヌヴーには不利な状況に見えた。が、最高点を獲得したのは彼女だった。2位のオイストラフに26点もの差をつけての文句なしの優勝だった。ちなみに3位にはアンリ・テミアンカ、7位にはイダ・ヘンデル(当時7歳。ただし生年については諸説ある)、9位にはブロニスワフ・ギンペルの名前が見られる。夢のような大会だったのだ。
これによりヌヴーの名は世界に広まり、各地から出演契約が殺到したが、間もなく戦争が勃発。20代前半の大事な時期に満足な活動が出来なかったことが惜しまれる。終戦後は再び海外で演奏活動を行い、名声を博す。しかし、それも長くは続かなかった。1949年10月28日、3度目の渡米の際に、ヌヴーが乗っていた旅客機がアゾレス諸島の山中に墜落。伴奏者だった兄のジャン(イーヴ・ナットに師事した優れたピアニストだった)と共に、30歳で亡くなった。没後、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が授与され、パリ市に「ジネット・ヌヴー街」(第18区)が設けられた。
残された録音は数えるほどしかないが、どれを聴いても燃えるように熱いヴァイオリンの音を体感することが出来る。うわべの美しさに無関心で、作品の内奥に迫るべく一音一音に全身全霊を注ぎ込む彼女の演奏には、命がけで弾いているような切迫感と集中力がみなぎっている。理智的で綺麗に整理された演奏とは正反対を行くものだ。
ただし、どれも音質が古い。本当のヌヴーの音色はどうだったのだろう。「音源より」魅力的だったのだろうか。彼女の場合、音質の古さもハンデとならず、むしろ混沌とした狂熱的雰囲気を醸成する一助となっているので、その辺が判別しづらい。
昔から名録音として賞賛されているのが、1948年5月3日にハンブルクで演奏されたブラームスのヴァイオリン協奏曲。指揮はハンス・シュミット=イッセルシュテット、オケは北ドイツ放送交響楽団である。この日、シュミット=イッセルシュテットの好サポートを得たヌヴーは絶好調だったに違いなく、鋭い音がしなやかに伸び、高音もヒステリックにならず、音楽的な高揚感に溢れている。まるで女神アテナが乗り移って弾いているかのよう。音質も比較的良好だ。これはたしかに賞賛され続けるだけの価値がある。
イサイ・ドブロウェン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏による1946年8月の録音も情熱的で、それでいて格調高い名演だが、ライヴ盤に比べるとスケールがやや小さい。1948年4月25日のライヴ盤はロジェ・デゾルミエール指揮、フランス国立放送管弦楽団の演奏。これはスケールの大きな演奏だが、音質が劣悪である。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、2種類の音源が私の手元にある。1949年5月1日(指揮はヴィレム・ヴァン・オッテルロー)と9月25日(指揮はハンス・ロスバウト)のライヴ盤だ。前者のヌヴーは低調で、指揮者とも呼吸が合っていないし、ミスも多い。一方、後者は感動的な熱演になっている。とくに第2楽章の詩的な美しさは筆舌に尽くしがたい。ヌヴーのヴァイオリンは相変わらず飾り気がないが、燃えるような情熱を秘めながら、献身的にベートーヴェンに奉仕している。
ヌヴーのベートーヴェンに対して「熟成された美しさがない」といった批評をする人がいるが、それは彼女が若くして亡くなったことを前提にした「ないものねだり」みたいなものである。そこまで「熟成」を求めるならば、ほかのヴァイオリニストで聴けばよい。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲とショーソンの「詩曲」もヌヴーの十八番。彼女が亡くなった時、シベリウスは「私の協奏曲を不朽のものにしたのはジネットです」と言ったという。ライヴでこそ本領を発揮する彼女にとって、1945年11月のスタジオ録音盤は、会心の出来とは言えないかも知れないが、アダージョは絶品である。第2楽章がこんなに感動に満ちた音楽だったとは、と驚かされるに違いない。
ショーソンの「詩曲」の方は、1946年8月の録音(指揮はイサイ・ドブロウェン)と1949年1月のライヴ音源(指揮はシャルル・ミュンシュ)がある。いずれも深い森の中にいるような神秘感、そして暗い情念の蠢きと迸りを表現した名演。ライヴの映像をブリュノ・モンサンジョン監督作『アート・オブ・ヴァイオリン』で観ることが出来るが、ミュンシュのことをじっと見つめるヌヴーの強い眼差しが、怖くなるほど印象的だ。
【関連サイト】
ジネット・ヌヴー(CD)
ヌヴーは1919年8月11日にパリに生まれた。親戚に「オルガン交響曲」で知られる作曲家のシャルル=マリー・ヴィドールがいる。ヴァイオリニストである母親のレッスンを受け、7歳の時に初めて公開演奏を行う。ジョルジュ・エネスコの講習会にも参加。情熱的な演奏を披露するヌヴーを見て、エネスコは「消防を呼びたいくらいの烈しい熱演だ」と叫んだという。パリ音楽院ではジュール・ブーシュリに師事。僅か8ヶ月在学しただけでプルミエ・プリを得て卒業。カール・フレッシュの指導を受け、いよいよ才能が開花する。
1935年3月、15歳のヌヴーは第1回ヴィエニャフスキ・コンクールに出場した。ヴィエニャフスキの生誕100年を記念するこの大会には世界各国から有望株がこぞって参加。その中にはソ連から送り込まれた名手、26歳のダヴィッド・オイストラフの姿もあった。審査員にはフランス人はおらず、ヌヴーには不利な状況に見えた。が、最高点を獲得したのは彼女だった。2位のオイストラフに26点もの差をつけての文句なしの優勝だった。ちなみに3位にはアンリ・テミアンカ、7位にはイダ・ヘンデル(当時7歳。ただし生年については諸説ある)、9位にはブロニスワフ・ギンペルの名前が見られる。夢のような大会だったのだ。
これによりヌヴーの名は世界に広まり、各地から出演契約が殺到したが、間もなく戦争が勃発。20代前半の大事な時期に満足な活動が出来なかったことが惜しまれる。終戦後は再び海外で演奏活動を行い、名声を博す。しかし、それも長くは続かなかった。1949年10月28日、3度目の渡米の際に、ヌヴーが乗っていた旅客機がアゾレス諸島の山中に墜落。伴奏者だった兄のジャン(イーヴ・ナットに師事した優れたピアニストだった)と共に、30歳で亡くなった。没後、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が授与され、パリ市に「ジネット・ヌヴー街」(第18区)が設けられた。
残された録音は数えるほどしかないが、どれを聴いても燃えるように熱いヴァイオリンの音を体感することが出来る。うわべの美しさに無関心で、作品の内奥に迫るべく一音一音に全身全霊を注ぎ込む彼女の演奏には、命がけで弾いているような切迫感と集中力がみなぎっている。理智的で綺麗に整理された演奏とは正反対を行くものだ。
ただし、どれも音質が古い。本当のヌヴーの音色はどうだったのだろう。「音源より」魅力的だったのだろうか。彼女の場合、音質の古さもハンデとならず、むしろ混沌とした狂熱的雰囲気を醸成する一助となっているので、その辺が判別しづらい。
昔から名録音として賞賛されているのが、1948年5月3日にハンブルクで演奏されたブラームスのヴァイオリン協奏曲。指揮はハンス・シュミット=イッセルシュテット、オケは北ドイツ放送交響楽団である。この日、シュミット=イッセルシュテットの好サポートを得たヌヴーは絶好調だったに違いなく、鋭い音がしなやかに伸び、高音もヒステリックにならず、音楽的な高揚感に溢れている。まるで女神アテナが乗り移って弾いているかのよう。音質も比較的良好だ。これはたしかに賞賛され続けるだけの価値がある。
イサイ・ドブロウェン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏による1946年8月の録音も情熱的で、それでいて格調高い名演だが、ライヴ盤に比べるとスケールがやや小さい。1948年4月25日のライヴ盤はロジェ・デゾルミエール指揮、フランス国立放送管弦楽団の演奏。これはスケールの大きな演奏だが、音質が劣悪である。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、2種類の音源が私の手元にある。1949年5月1日(指揮はヴィレム・ヴァン・オッテルロー)と9月25日(指揮はハンス・ロスバウト)のライヴ盤だ。前者のヌヴーは低調で、指揮者とも呼吸が合っていないし、ミスも多い。一方、後者は感動的な熱演になっている。とくに第2楽章の詩的な美しさは筆舌に尽くしがたい。ヌヴーのヴァイオリンは相変わらず飾り気がないが、燃えるような情熱を秘めながら、献身的にベートーヴェンに奉仕している。
ヌヴーのベートーヴェンに対して「熟成された美しさがない」といった批評をする人がいるが、それは彼女が若くして亡くなったことを前提にした「ないものねだり」みたいなものである。そこまで「熟成」を求めるならば、ほかのヴァイオリニストで聴けばよい。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲とショーソンの「詩曲」もヌヴーの十八番。彼女が亡くなった時、シベリウスは「私の協奏曲を不朽のものにしたのはジネットです」と言ったという。ライヴでこそ本領を発揮する彼女にとって、1945年11月のスタジオ録音盤は、会心の出来とは言えないかも知れないが、アダージョは絶品である。第2楽章がこんなに感動に満ちた音楽だったとは、と驚かされるに違いない。
ショーソンの「詩曲」の方は、1946年8月の録音(指揮はイサイ・ドブロウェン)と1949年1月のライヴ音源(指揮はシャルル・ミュンシュ)がある。いずれも深い森の中にいるような神秘感、そして暗い情念の蠢きと迸りを表現した名演。ライヴの映像をブリュノ・モンサンジョン監督作『アート・オブ・ヴァイオリン』で観ることが出来るが、ミュンシュのことをじっと見つめるヌヴーの強い眼差しが、怖くなるほど印象的だ。
(阿部十三)
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