2011年のベルリン・フィル来日公演 〜マーラーを聴いて〜
2011.11.25
2011年11月22日、ベルリン・フィルの来日公演をサントリーホールで聴いた。今年、クラシックのコンサートに行くのはこれで5回目。去年の5分の1しか行けていない。前半は相次ぐ来日公演キャンセルで予定が消え、後半は仕事に追われて予定が立てられなかった。行きたいコンサートがどれも平日だったのだ。しかしながら、今回のプログラムはマーラーの交響曲第9番。指揮者はサイモン・ラトル。平日とはいえ、これだけは聴き逃せない。もし仕事で行けないようなことになったら会社を去ろうとも思っていた。それくらい行きたかったのである。チケット代はS席で4万円。普通なら唖然とするような値段だが、私は後先顧みずに購入した。
コンサートは3月26日以来である。あの時は愛知県芸術劇場で名古屋フィルを聴いた。震災直後、キャンセルになったコンサートを少しでも取り戻すような気持ちで週末に駆けつけたのである。そこで味わった『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲と愛の死は、忘れられない。そう、私は味わうように聴いたのだ。演奏には粗もあったが、それより何より自分が生きていて、オーケストラと同じ空間に身を置いて、コンサートを聴いている、ということ自体に感動していた。これは決して当たり前のことではない、むしろ特別なことなのだ、と思い知らされた。こういう心理状態は、芸術を正当に批評したり鑑賞したりする上で適切なものとは言えないのかもしれないが、当時の私はそんな風にコンサートに接していたのである。
あれから8ヶ月が経った。
サイモン・ラトルは現代最高のマーラー指揮者である。そう言っても言い過ぎではないだろう。個人的にマーラーに興味を持ち始めたのも、ラトルが1986年に録音した『復活』を聴いてからである。交響曲第9番のコンサート音源(1993年録音、2007年録音の2種類あるが、後者の方)にも感銘を受けた。2004年に東京文化会館で聴いた第5番も大熱演だったし、2008年にサントリーホールで聴いた「リュッケルトの詩による5つの歌」も絶品だった。だから、当然の成り行きとして今回は期待が高まった。
私の方も3月と同じような心理状態にはない。単にコンサートが聴けるというだけでは満足出来なくなっている。ベルリン・フィルが来てくれたのだからそれ以上期待するな、というのは無理な注文である。
それで、実際の演奏はどうだったのか。端的に言うと、暗い情念たっぷりのマーラーとは趣の異なる音楽が響いていた。
この9番については、死と向き合いながら作曲された、というイメージが定着している。マーラー自身が楽譜に書き込んだ「さらば」「死に絶えるように」などといった言葉や、評論家パウル・ベッカーが付けた異名ーー「死が私に語ること」ーーの影響である。9つの交響曲を書いたら落命するという「9番のジンクス」もそのイメージを補強している。
他方、これを作曲していた1909年夏頃のマーラーの精神状態は非常に穏やかで、手紙にも「この上ない幸福な状態」と書いているのに、「死」と結びつけて語るのはおかしい、と考える人もいる。幸福な状態にあるのだから、「死」をテーマに作曲したわけがない、と断定するのは早計である。芸術家が内面に抱えているものなど外からでは分からない。創作の秘密はあくまでも秘密なのだ。ただ、9番を「死」の想念と情念の権化のように畏怖し、奉ることだけが能ではない。「死」からいったん離れてこの作品を見直してもバチはあたらないだろう。
ラトル&ベルリン・フィルの演奏では、第1楽章の出だしの美しさにまずゾクゾクさせられた。なんという弱音だろう。これだけで私は演奏の中に引き込まれた。が、間もなく「おや」と思った。弦楽器、管楽器、打楽器がお互いに歩み寄ることなく、それぞれの音が乖離して聞こえる。ところどころ音色やテンポに摩擦、軋轢が生じ、各パートがとけ合わずにゴツゴツとぶつかり合い、時に無機質な表情を見せる。個々の楽器の性能は発揮されているものの、それらが大きな流れの中で一体化していかないのだ。オットー・クレンペラーのように巨大建造物を構築していくようなスケール感もない。全体的に、シンフォニーというよりはせわしないラプソディーを聴いているような印象を受けた。この演奏を聴いて「死」や「情念」がどうのこうのと語る人は、ほとんどいないだろう。
ベルリン・フィルが本調子でないように感じたのは私だけではあるまい。エンジンがちゃんとかかっていないのに、強引に車を発進させてぶつかり合っているような渋滞感。あれはわざとやっていたのだろうか。とくにティンパニについては、よく鳴っているのだが、主張が激しく、音色に品が感じられなかった。
第2楽章では8挺のコントラバスが放つ低音を堪能した。席は16列目で上手側。低音の響きはかなりのものだった。木管の名技にも瞠目させられたが、弦と木管がしっかりと噛み合わないところは相変わらず。一言で言えば、息が合ってない。ただ、第1楽章の時よりはお互いが歩み寄っているように感じられた。第3楽章のロンド=ブルレスケの急迫感は、過去に生で聴いた9番の演奏中、最も激しかった。一部テンポがもたつきがちで、ぎこちなかったが、各パートが強音の飛沫を散らしながら猛進する様はなかなかの聴きものだった。
白眉はやはり終楽章のアダージョだろう。これが聴けただけでも、この場に居合わせた甲斐はあったというもの。第1楽章から気になっていた齟齬や摩擦がなくなり、美しい流れが生まれていた。耳の中に燻っていた違和感を解消させるほどのカタルシスは得られなかったが、音源でもインパクトのあった107小節以降のクライマックスへと至る過程には魅せられた。122小節からのヴァイオリンの見せ場にも(2007年に聴いたインバル&フィルハーモニア管の演奏ほどではないが)時間を止めるような美しさが確かにあった。
しかし、一番凄かったのは、なんと言っても「死に絶えるように」と指示された終わり方である。あれほど奏者の手垢を感じさせない無色透明の弱音、鳴っているのか鳴っていないのかそれさえ判然としないような弱音で聴かせてしまうオーケストラは、世界中を見渡しても皆無だろう。デリカシーの至芸である。「世界最高のオーケストラ」と言われる所以を改めて再確認した。
もし、これを数ヶ月前に聴いていたら何一つ不満など抱かなかったかもしれない。実際、私はこの貴重なチケットを入手した時、それだけでもう満足していたのだ。今回の演奏に不満を持つのが贅沢なことだとしたら、贅沢が言えるような状態に戻ったことをむしろ私は良しとしたい。
【関連サイト】
マーラー:交響曲第9番(CD)
コンサートは3月26日以来である。あの時は愛知県芸術劇場で名古屋フィルを聴いた。震災直後、キャンセルになったコンサートを少しでも取り戻すような気持ちで週末に駆けつけたのである。そこで味わった『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲と愛の死は、忘れられない。そう、私は味わうように聴いたのだ。演奏には粗もあったが、それより何より自分が生きていて、オーケストラと同じ空間に身を置いて、コンサートを聴いている、ということ自体に感動していた。これは決して当たり前のことではない、むしろ特別なことなのだ、と思い知らされた。こういう心理状態は、芸術を正当に批評したり鑑賞したりする上で適切なものとは言えないのかもしれないが、当時の私はそんな風にコンサートに接していたのである。
あれから8ヶ月が経った。
サイモン・ラトルは現代最高のマーラー指揮者である。そう言っても言い過ぎではないだろう。個人的にマーラーに興味を持ち始めたのも、ラトルが1986年に録音した『復活』を聴いてからである。交響曲第9番のコンサート音源(1993年録音、2007年録音の2種類あるが、後者の方)にも感銘を受けた。2004年に東京文化会館で聴いた第5番も大熱演だったし、2008年にサントリーホールで聴いた「リュッケルトの詩による5つの歌」も絶品だった。だから、当然の成り行きとして今回は期待が高まった。
私の方も3月と同じような心理状態にはない。単にコンサートが聴けるというだけでは満足出来なくなっている。ベルリン・フィルが来てくれたのだからそれ以上期待するな、というのは無理な注文である。
それで、実際の演奏はどうだったのか。端的に言うと、暗い情念たっぷりのマーラーとは趣の異なる音楽が響いていた。
この9番については、死と向き合いながら作曲された、というイメージが定着している。マーラー自身が楽譜に書き込んだ「さらば」「死に絶えるように」などといった言葉や、評論家パウル・ベッカーが付けた異名ーー「死が私に語ること」ーーの影響である。9つの交響曲を書いたら落命するという「9番のジンクス」もそのイメージを補強している。
他方、これを作曲していた1909年夏頃のマーラーの精神状態は非常に穏やかで、手紙にも「この上ない幸福な状態」と書いているのに、「死」と結びつけて語るのはおかしい、と考える人もいる。幸福な状態にあるのだから、「死」をテーマに作曲したわけがない、と断定するのは早計である。芸術家が内面に抱えているものなど外からでは分からない。創作の秘密はあくまでも秘密なのだ。ただ、9番を「死」の想念と情念の権化のように畏怖し、奉ることだけが能ではない。「死」からいったん離れてこの作品を見直してもバチはあたらないだろう。
ラトル&ベルリン・フィルの演奏では、第1楽章の出だしの美しさにまずゾクゾクさせられた。なんという弱音だろう。これだけで私は演奏の中に引き込まれた。が、間もなく「おや」と思った。弦楽器、管楽器、打楽器がお互いに歩み寄ることなく、それぞれの音が乖離して聞こえる。ところどころ音色やテンポに摩擦、軋轢が生じ、各パートがとけ合わずにゴツゴツとぶつかり合い、時に無機質な表情を見せる。個々の楽器の性能は発揮されているものの、それらが大きな流れの中で一体化していかないのだ。オットー・クレンペラーのように巨大建造物を構築していくようなスケール感もない。全体的に、シンフォニーというよりはせわしないラプソディーを聴いているような印象を受けた。この演奏を聴いて「死」や「情念」がどうのこうのと語る人は、ほとんどいないだろう。
ベルリン・フィルが本調子でないように感じたのは私だけではあるまい。エンジンがちゃんとかかっていないのに、強引に車を発進させてぶつかり合っているような渋滞感。あれはわざとやっていたのだろうか。とくにティンパニについては、よく鳴っているのだが、主張が激しく、音色に品が感じられなかった。
第2楽章では8挺のコントラバスが放つ低音を堪能した。席は16列目で上手側。低音の響きはかなりのものだった。木管の名技にも瞠目させられたが、弦と木管がしっかりと噛み合わないところは相変わらず。一言で言えば、息が合ってない。ただ、第1楽章の時よりはお互いが歩み寄っているように感じられた。第3楽章のロンド=ブルレスケの急迫感は、過去に生で聴いた9番の演奏中、最も激しかった。一部テンポがもたつきがちで、ぎこちなかったが、各パートが強音の飛沫を散らしながら猛進する様はなかなかの聴きものだった。
白眉はやはり終楽章のアダージョだろう。これが聴けただけでも、この場に居合わせた甲斐はあったというもの。第1楽章から気になっていた齟齬や摩擦がなくなり、美しい流れが生まれていた。耳の中に燻っていた違和感を解消させるほどのカタルシスは得られなかったが、音源でもインパクトのあった107小節以降のクライマックスへと至る過程には魅せられた。122小節からのヴァイオリンの見せ場にも(2007年に聴いたインバル&フィルハーモニア管の演奏ほどではないが)時間を止めるような美しさが確かにあった。
しかし、一番凄かったのは、なんと言っても「死に絶えるように」と指示された終わり方である。あれほど奏者の手垢を感じさせない無色透明の弱音、鳴っているのか鳴っていないのかそれさえ判然としないような弱音で聴かせてしまうオーケストラは、世界中を見渡しても皆無だろう。デリカシーの至芸である。「世界最高のオーケストラ」と言われる所以を改めて再確認した。
もし、これを数ヶ月前に聴いていたら何一つ不満など抱かなかったかもしれない。実際、私はこの貴重なチケットを入手した時、それだけでもう満足していたのだ。今回の演奏に不満を持つのが贅沢なことだとしたら、贅沢が言えるような状態に戻ったことをむしろ私は良しとしたい。
(阿部十三)
【関連サイト】
マーラー:交響曲第9番(CD)
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