文化 CULTURE

花と冒険[考察・エッセイ]

崖に咲く花はなぜ美しいのか

「文化」についてのエッセイ。
テーマは文学、思想、民俗、絵画、漫画、アイドル、ゲーム、玩具、世相...。
ハイカルチャーとサブカルチャーの境も関係なく、流行も関係なく、
日常の死角にある「文化」を語る。

  • 竹内によると、近代化が始まった頃の日本はアジア的連帯へ向かうこともあり得たが、その可能性は「明治三十年代、つまり日清戦争から日露戦争にかけて漸次消滅した」(「孫文観の問題点」『思想』1957年6月号)という。「私は今日、日本がアジア的連帯を回復することを希望し、そのための条件を『理論的に』作り出したいと念願している。これは私の実践要求である」(「孫文観の問題...

    [続きを読む](2023.08.20)
  • 「近代の超克」は戦争責任論でもある。この評論が発表されたのは1959年11月、安保闘争の時期である。竹内は「近代の超克」を脱稿する前後、安保問題研究会に出席したり、安保批判の会に参加したりしていた。多くの人と同様、日本が戦争に巻き込まれるかもしれないと危惧していたからである。そんな竹内が、単なる研究対象として「近代の超克」を取り上げたとは思えない。個人的趣味...

    [続きを読む](2023.08.15)
  • 1959年11月発行の『近代日本思想史講座』第7巻に掲載された「近代の超克」は、1942年に『文学界』誌上で行われたシンポジウム「近代の超克」の内容を検証した評論で、竹内の代表作の一つであり、当時大きな注目を浴びた。戦後、近代の超克は「戦争とファシズムのイデオロギイを代表するもの」として、知識青年たちを熱狂させ、死へと駆り立てたシンボルとして語り継がれていた...

    [続きを読む](2023.08.12)
  • 「日本共産党論3」が書かれた1950年の時点では、竹内は平和論ないし平和運動に対して、やや距離を置いていた。平和に賛成すれば平和が実現すると信じる人は、無力であるものを有力と認識しているようなものである。そういう人は、「ひとたび現実的な力にぶつかれば、おなじ基盤で力の讃美に移る」。竹内自身、平和のために組織した力が、まるごと戦争に持っていかれるのを目の当たり...

    [続きを読む](2023.08.10)
  • 1950年1月、コミンフォルムは「日本の情勢について」という論文で、日本共産党の平和革命路線を批判した。日本共産党の指導者、野坂参三を名指しし、「アメリカ占領下の日本における平和革命路線はアメリカ帝国主義への妥協・屈服」という烙印を押したのである。それに対し、日本共産党は反論したが、結局、コミンフォルムに全面謝罪した。その有り様は、竹内の目から見ると、「権威...

    [続きを読む](2023.08.07)
  • 竹内が望んだのは「素朴なナショナリズムの精神を回復」(「ナショナリズムと社会革命」『人間』1951年7月号)させることであり、それは国民文学の創造へと結びつくはずだった。ここで国民文学とは何かという話になるわけだが、これが少々厄介で、「そのものとして存在しないし、イメージをえがくことさえも、十分にはこころみられていない」(「国民文学の問題点」『改造』1952...

    [続きを読む](2023.08.05)
  • 歴史上にはきちんと検証されないまま放置されている問題が山ほどある。皆で示し合わせたように、なんとなく触れられなくなった問題もある。過去のあやまちをタブー視し、見て見ぬふりをした挙句、何が問題だったのか忘れてしまうというパターンも少なくない。評論家の竹内好はそういったタブーを根から掘り起こし、議論の俎上にのせた。戦争の暗い記憶と結びついた日本浪曼派、近代の超克...

    [続きを読む](2023.08.04)

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