文化 CULTURE

軽信の時代

2011.02.09
 『動物農場』や『1984』などで知られるジョージ・オーウェルが1943年から1947年まで『トリビューン誌』に連載していたコラム「私の好きなように」の中に、「軽信の時代」と題された短い文章がある。そこでオーウェルは、ジョージ・バーナード・ショーが「現代の軽信は中世のそれよりも甚だしい」という警句を放ち、科学と医学への盲信を痛烈に批判したことを受けて、こう問うている。
「一体全体、なぜ我々は地球が丸いと本気で信じているのか」
 そして、その理由をいくつか述べた後、それぞれの論拠を薄弱であるとみなし、自分の知識は「推論や実験に基づいているものではなく、権威に基づいているものだ」と語る。

 これは1946年に書かれたものである。今は科学の進歩により事情が変わってきている。私たちは宇宙から撮られた地球の写真を見ており、宇宙飛行士たちの証言を聞いている。今、誰かが「地球は丸い」と言っても、それを軽信と誹る人はいないだろう。

 とはいえ、軽信の時代は相変わらず続いている。インターネット上では嘘、偏見、悪意から生まれた無数の誤情報がまことしやかに流布している。一見権威性をまとっているように見える紙媒体でも状況はさして変わらない。私たちは毎日のように信じさせられ、嘘をつかれ、また信じさせられ、嘘をつかれている。同じことの繰り返しだ。これらの情報を一種の宗教と見立てるなら、私たちは一日のうちに何度も改宗させられていることになる。

 現在では常識としてまかり通っているようなことも、その論拠はずいぶんと怪しいものだ。例えば食の分野。牛肉より鶏肉の方が健康に良い、パンよりお米の方が太りやすい、ワインのポリフェノールは動脈硬化や脳梗塞を防ぐ、何々は発がん性物質である......等々、誰もその理由を正確に述べることなど出来ないのに、「××大学の研究チームの調査によって明らかになった」といった言い方をされると簡単に信じてしまう。その実験の方法、プロセス、関係者たちの経歴に目を向けることもない。明日、全く逆の調査結果が出たと報じられれば、私たちは今度はそちらを信じるのだろう。

 もっとも、軽信を責めてばかりいても仕方がない。科学的な論拠(あるいは科学的と見せかけた論拠)を眼前に突き出されても、それが真に正しいかどうか、自分にとって受け入れるに値するものかどうかを見極める作業を怠ってはならない、とはよく言われる。しかし、情報ツールが多様化し、混在している今日、私たちに与えられる情報は常に過剰な状態にあり、それら一つ一つを吟味するには頭がいくつあっても足りないほどだ。

 それなら何も信じなければいい、という極端な意見も出てくるだろう。
 物事の正確さなど疑おうと思えばいくらでも疑える。誰かが己の人生をかけて真実を述べても、「どうせ嘘だろ」という心ない一言でケチがつく。それも健全ではない。軽信同様、軽疑も罪である。
 福澤諭吉も150年近く前に「学問のすゝめ」でこう述べている。

「事物の軽々信ずべからざること果して是ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。蓋し学問の要は、この明智を明らかにするに在るものならん」

 むろん、これを実践するには大層手間がかかるし、気力も要する。だからといって放棄してはいけない。

 少なくとも「誠実」であること。
 今、情報の発信者に求められているのは使い古されたこの二文字に尽きるのではないか。誠実であれば、正確さに近づくことが出来るはず。単純な話だ。誠実さは嘘や誤謬を超える。いい加減さ、日和見、売り上げ目当てーーこういうものが見え透いてしまっては、軽信にすら値しない。
(阿部十三)


【関連サイト】
Complete Works of George-Orwell(英語)
ジョージ・オーウェルの著作

【引用文献】
ジョージ・オーウェル「軽信の時代」(『象を撃つーーオーウェル評論集1』平凡社)
福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波書店)

月別インデックス