文化 CULTURE

赤毛のアン 何処かにあるはずのグリーン・ゲイブルズ

2011.09.17
 その女の子と出会ったのは、僕が5歳の時だった。面白い娘だとは思っていたが、さほど関心を持つことはなかった。しかし約30年ぶりに再会し、僕は激しく惹かれるようになったのだ。その娘の名前はアン・シャーリー。プリンス・エドワード島のグリーン・ゲイブルズで暮らす、赤い髪をした女の子だ。

 『赤毛のアン』に初めて触れたのは、僕が子供の頃、日曜日の夜に放送されていたアニメ番組枠「世界名作劇場」だった。『母をたずねて三千里』『あらいぐまラスカル』『トム・ソーヤーの冒険』など、様々な作品を観たが、そんな中で『赤毛のアン』が特に好きだったわけではない。女の子が主人公なので、少年だった僕には感情移入出来なかったのだろう。赤毛を「にんじん! にんじん!」とからかったギルバートを石板で殴りつけたり、赤毛を黒く染めようとして不気味な緑色になってしまったり、ハツカネズミが溺れ死んだメイプルシロップをお客さんに出してしまったり。アンがしでかす天才的な失敗を見てゲラゲラ笑っていただけだったと思う。

 約2年前のこと。仕事が一段落した夕方、僕はふとTVをつけた。すると懐かしい『赤毛のアン』が始まった。その時放送されたのは、たしか第22話「香料ちがい」だったと思う。町に新しくやってきた牧師夫妻をおもてなしするため、一生懸命ケーキを焼いたアン。しかし、誤って痛み止めの塗り薬を香り付けに使ってしまう。そんなケーキを牧師夫妻に出してしまったため、アンは「毒殺しようとした!なんて思うかもしれないわ」などと泣き喚く。いくら何でもあまりにも大袈裟なので笑ってしまったが、それと同時に、何だか激しく胸が震えるのを感じ、僕は戸惑った。自分に何が起きたのか、暫くはよく分からなかったのだが、徐々に正体が掴めてきた。アンのダイナミックな失敗の向こう側から浮かび上がる善良さに、僕は心を動かされたようなのであった。

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 僕は清く正しい物語、登場人物が大嫌いだ。少年達が助け合う『十五少年漂流記』よりも残虐に殺し合う『蝿の王』の方が断然楽しいに決まっているし、善玉が悪党と闘うハリウッド西部劇よりも、金に汚い主人公が泥まみれで這いずり回るマカロニウエスタンを好むし、好きなヒロインは女囚、スケ番、ズベ公ばかりだ。しかし、アンだけは別なのだ。彼女だけは何かが違う。アンの善良さには嫌みが全くないからだと思う。アンにはいやらしい計算が一切ない。人のために善かれと思い、常に真っ直ぐ行動するが、並み外れた想像力や生真面目さによって、常人では仕出かし得ない斬新な失敗を創出してしまう。ドジも行き過ぎると苛立ちを誘うし、わざとらしい。押しつけがましい善良さは、ただただ腹立たしいだけだ。そのどちらにも陥らないこの娘、アン・シャーリーとは、一体何なのだろう? その謎を探るかのように、僕は『赤毛のアン』を毎日TVで観るようになった。すぐにルーシー・モード・モンゴメリによる原作小説も読み始めた。小説でもアンは実に魅力的な女の子であり、僕はシリーズを夢中になって読み漁った。下北沢の中古レコード屋でアニメ『赤毛のアン』のオリジナルサウンドトラックのLP盤を発見し、周囲のロックマニアの視線を気にしつつ購入したこともあった。そして、僕はついにアニメの全話を収録したDVDボックスセットまで買ってしまったのであった。

 この原稿を書くにあたって、『赤毛のアン』の第1話を久しぶりに観た。舞台は19世紀末。プリンス・エドワード島で暮らす初老の兄妹、マシュウとマリラは、農作業の手伝いをしてくれる男の子を、カナダ本土の孤児院から貰い受けることにする。しかし、やって来たのは11歳の女の子、アン・シャーリーであった。ーー第1話「マシュウ・カスバート驚く」は、奇跡のように美しい。ブライト・リバー駅に降り立ったアンは、線路脇に腰かけ、迎えを静かに待つ。周囲では鳥がさえずり、時間がゆっくりと流れてゆく。馬車でやってきたマシュウは、駅で待っていたのが女の子なのでびっくりしてしまう。しかし気が弱く、女の子が苦手でもある彼は何も言えず、アンを馬車に乗せてグリーン・ゲイブルズへ向かって走り出す。新生活への期待に胸を膨らませながら喋り続けるアン。「変わった娘だな」と思いつつも、話に耳を傾ける内に深い安らぎを覚え始めるマシュウ。彼らの束の間のドライヴの描写が実に素晴らしい。特に印象的なのは、白い花が満開のリンゴ並木、アン曰く「喜びの白い道」を通りがかるシーンだ。あまりにも綺麗な光景に心奪われ、息を呑むアン。風に吹かれた白い花びらはアンを乗せて舞い上がり、彼女の周りには妖精達が無邪気に踊る。アンの並み外れた想像力が見事に表現されている。

 この第1話以降も、絵によって言葉を越えたものを表現し得るアニメーションならではの特性を最大限に発揮し、『赤毛のアン』の物語は展開してゆく。アンの突拍子もない言動に笑いそうになるのを必死で堪え、彼女をたしなめるマリラの胸中を的確に反映した表情の描写などは、毎回アカデミー賞ものの演技力を見せる。こんな神憑った作品を手掛けたのは誰なのかとクレジットを調べたら、決してアニメに明るいわけではない僕でも知っている人々ばかりであった。宮崎駿、高畑勲、近藤喜文など、後にスタジオジブリで活躍するそうそうたる布陣が並んでいた。今になってみれば、実に贅沢な才能達によって作られたのが、アニメ『赤毛のアン』だったのだ。

 本作は音楽も名曲揃いだ。作曲:三善晃、作詞:岸田衿子、唄:大和田りつこによるオープニングテーマ「きこえるかしら」、エンディングテーマ「さめない夢」は、何度聴いても胸に沁みる。オーケストラを贅沢に使ったサウンドが高鳴り、のどかな馬車の歩みと平和なプリンス・エドワード島の風景を映し出す「きこえるかしら」。高速で奏でられるピアノが、アンの心の中で無限に広がる想像をイメージさせる「さめない夢」。子供も一緒に歌える平易な表現で『赤毛のアン』の世界観を鮮やかに浮き彫りにする岸田衿子の魔法のような歌詞、透明感溢れる歌声で安らぎいっぱいに語りかけてくれる大和田りつこ。魂の籠った音、言葉の全てに、今ここで改めて敬意を表したい。

 『赤毛のアン』は決して少女、女性のためだけの物語ではない。この世界に触れてもらえれば、多くの人は理解してくれると思う。とはいえ、何でこんなに僕は惹かれてしまうのだろう? 実は自分でもこの感情の全体像を、未だにハッキリと捉え切れていない。何やらとても曖昧模糊とした、物悲しい領域も広がっているのを感じる。その実感は「アンがもし現在の世界にいたとしたらどうなのだろう?」と想像した時に、僕の胸中で疼く。彼女みたいに善良で、清らかで、美しい心であることを許すほど、おそらく今の世界は甘くないだろう。とはいえ、『赤毛のアン』の舞台である19世紀末でも、アンのような人物が存在出来るほど現実は大らかではなかった可能性だってある。いつの時代でも『赤毛のアン』は、地上には存在し得ない甘美な理想、ファンタジーなのかもしれない。しかし、アンのような女の子が夢中で想像を膨らませて過ごし、ユニークな失敗をし続けることを許容する場所が、この世の何処かに必ずあって欲しい。現実の厳しさを大人として当然自覚しつつも、捨てたくはない理想・希望を保たせてくれるささやかな聖域、心の拠り所が、僕にとっての『赤毛のアン』なのかもしれない。
(田中大)


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