文化 CULTURE

我が心の友、ハックルベリー・フィンのこと 後篇

2011.02.21
 前回紹介した通り、ハックは逃亡した黒人奴隷と共に旅をする。それは即ち、逃亡の幇助という反社会的行為だ。
 この物語の舞台は南北戦争前、 1830〜40年代頃のアメリカ南部。当時の南部では黒人が奴隷として働かされていた。非常に抵抗のある表現になってしまうがーー黒人奴隷とは単なる労働力。自由も権利も一切与えられず、牛馬などと同様に売り買いされる存在。白人の私有財産であったわけだ。ハックは南部で生れ育った少年であり、奴隷解放論者でも何でもない。だから物語中で何度も激しく悩む。他人の所有物である黒人奴隷の逃亡の手助けをする自分は悪人だ、と。実際、ハックは物語中でジムのことを大人達に引き渡そうと決心し、行動を起こしかけることすらある。しかし、結局彼はジムとの旅を止めない。心優しいジムを愛し、友人であり続ける。注目させられるのは、ハックのこの行動を支えているのは、「奴隷制なんて間違っている」という思想ではない点だ。ハックは物語の最後まで一貫して南部の常識を捨てず、ジムの逃亡の手助けを正当化しない。「自分は悪いことをしているのだ」と考え続ける。では、彼の行動を衝き動かしたのは何なのか? それは、ハックの表現を借りるならば「その時にいちばんやりやすいことをやろう」という信条だ。

 かりに、正しいことをして、ジムを引き渡したとしたら、今よりいい気分になっていただろうか? そうはならねえ。いやな気分だろうーー今と全然同じ気分だろうよ。それじゃ、せっかく正しいことをやろうとしたってなんの役に立つ? 正しいことをするほうが骨が折れて、まちがったことをするほうが骨が折れねえで、しかも報いは同じならば? おらは、ぐっとつまって、それに答えられなかった。そこでおらは、そんなことでくよくよするのはもうやめにして、これから先はいつでもその時にいちばんやりやすいことをやろうと思った。
(第十六章)

 粗野な表現で綴られているが、これは生々しい問題を突きつける部分だ。属している共同体で正しいとされ、常識とされていること/自分の心の本能が向かいたがること。この両者が必ずしも一致しないという体験は、ある程度の年月を生きてきた人ならば思い当たるだろう。そんな感情を抱えながら、ある者は違和感を押し殺して周囲の多数に従い、またある者は共同体に反旗を翻すわけだ。しかし、そのどちらも選べないことだって大いにあり得る。ハックの場合もまさにそうだ。彼を共同体への抵抗者であると考える人もいるだろうが、それは誤りだ。もしそうならば、ハックは奴隷解放論者になることによって、自身の行為を正当化出来る。悩み続けたりはしない。「共同体の正義」と「自身の反社会的行為を正当化出来る思想で裏打ちされた正義」、そのどちらにも寄ることなく、悶々としたポジションのままハックを漂わせ続けたところに、『ハックルベリー・フィンの冒険』の真の面白さ、深みはある。もしこれが奴隷制度と闘うことを決意する少年の物語ならば、これほどまでに現代人に対してもリアルなテーマを示す物語とはならなかっただろう。

 周囲にただただ無抵抗に流されることなく、かといって勇ましい革命家にもなれなかったハックが、僕はとても好きだ。自分の行動を支える確固たる何かを持たないままに自分の魂が欲することへと向かえる彼は、もしかしたら革命家以上に強い、真に心の綺麗な奴なのかもしれない......そんな感傷的なことを考えたりもする。おっと! また目の前の資料のマーク・トウェインの写真が僕をギロリと睨んでいる。そうであった。この小説の冒頭には、次のような文が掲げられているのだ。

 警告
この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。
著者の命によりて
兵器部長G・G

 僕は告訴も追放も射殺も御免こうむりたい臆病者だ。皆さんそれぞれに、気楽にこの素晴らしい小説を味わって頂けたら幸いだ。
(田中大)



【関連サイト】
THE OFFICIAL SITE OF MARK TWAIN(英語)

【引用文献】
マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険 上・下』
(西田実訳 岩波文庫)

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