ダフネ・デュ・モーリア 聖地に挑む人々 [続き]
2012.01.14
デュ・モーリアのファンの間で神品と評されている「モンテ・ヴェリタ」(1952年、『林檎の木』収録)も、2人の男とファム・ファタールの話である。
主人公「わたし」の親友で登山仲間のヴィクターが、不思議な魅力を持つ女性アンナと結婚する。登山に興味を持ったアンナは、ある日、ヴィクターを置き去りにしてモンテ・ヴェリタの山へ向かい、それきり戻ってこなくなる。村人たちの話によると、モンテ・ヴェリタの住人サセルドテッサは特別な力を持ち、13才以上の女子を招き寄せ、山に住まわせているのだという。
心配するヴィクターがモンテ・ヴェリタに登り、待ち続けて数日後、アンナが姿を現す。深い奈落に隔てられた岩壁を背に立つ彼女は、すでにサセルドテッサの一員になっていた。
「ここはわたしにとって天国なの。モンテ・ヴェリタからふつうの世界に戻るくらいなら、いますぐ何百フィートも下の岩に身を投げて死ぬわ」
と言われ、絶望するヴィクター。彼は下山し、「わたし」にこれまでの経緯を打ち明ける。
それから20年以上の年月を経た後、ヴィクターと再会した「わたし」は、重病を患う親友のため、そしてアンナに惹かれている自分自身のために、モンテ・ヴェリタに登ることを決意する。
モンテ・ヴェリタ(真実の山)は、デュ・モーリア版シャングリラである。モンテ・ヴェリタに住めば永遠の若さが得られるし、精神的にも満たされる。デュ・モーリアはフランク・キャプラ監督の『失はれた地平線』を観ていたか、ジェームズ・ヒルトンの原作を読んでいたに違いない。「わたし」が乗っている飛行機をアンナがモンテ・ヴェリタの近くに不時着させるくだりは、『失はれた地平線』へのオマージュだろう。ただし、シャングリラとモンテ・ヴェリタの間には決定的な相違点がある。モンテ・ヴェリタは人間的な愛情を受けつけないのだ。
少女たちが岩山で行方不明になる話で思い出すのは、ピーター・ウィアー監督の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』である。原作はジョーン・リンジーで、実際に起こった事件に基づいていると言われているが、現在証拠となる資料が存在しないため、フィクション説が優勢である。「モンテ・ヴェリタ」が何らかの影響を与えた可能性もあるかもしれない。
『レベッカ』にも『レイチェル』にも「モンテ・ヴェリタ」にも共通していることがある。聖地によそ者がやってくるという図式だ。聖地とは、『レベッカ』なら「マンダレイ」、『レイチェル』なら「コーンウォール」、「モンテ・ヴェリタ」なら「モンテ・ヴェリタ」である。よそ者は、『レベッカ』の「わたし」、『レイチェル』の「レイチェル」、「モンテ・ヴェリタ」の「わたし」である。いずれもよそ者たちの目的や希望や企みは果たされずに終わる。
「皇女」(1959年、『破局』収録)にも、ロンダ公国という聖地が登場する。ロンダは「歓楽と癒しと平和の国」である。宗教はない。必要がないからである。女性たちも美しい。このシャングリラのような国の最大の資産は、泉から湧き出る水だ。「この水をある種の薬品と調合して用いると、永遠の若さを保つ効能」があるのだ。その秘法は大公だけが知っている。
ロンダ公国に不協和音を起こすのは、マーコイとグランドスである。2人は厳密にいうと「よそ者」ではないが、陰湿で、貪欲で、外国文化に影響されている。ヨーロッパを旅した2人は、半年後、「胸に不満の種を宿して帰国し、そのときは意識していなかったが、それはやがて熟し、芽生えんばかりとな」る。
新聞記者となったマーコイは〈ロンダ・ニューズ〉にこう書く。
「われわれは、老いも若きもひっくるめ、なにゆえわれわれ自身の所有物をわれわれから奪い上げている政府に唯々諾々として支配されているのか。われわれみんなが支配者たりうるのだ。それなのに、われわれは支配されている」
こうした記事を読み続けるうちに、国民はそれまで感じたことのなかった不満を感じるようになる。そして、幾世紀にもわたり平和統治してきた王家に対し、こんな不満を抱くようになる。
「なんの権利があって、あいつはおれたちを支配しているんだ」
ここからはマーコイとグランドスの思惑通りに事が進む。彼らはいわばスヴェンガリである。スヴェンガリとは、デュ・モーリアの祖父ジョージ・デュ・モーリアの小説『トリルビー』に出てくる催眠術師。国民は、革命家の仮面をつけたスヴェンガリによって催眠状態に陥る。まもなく革命が起こり、大公は虐殺され、ロンダ公国はロンダ共和国に変わる。
地球上にいる誰もがシャングリラやモンテ・ヴェリタを望んでいるわけではない。人間には獣性があり、嫉妬心があり、所有欲があり、闘争本能がある。そこを突かれたらどうなるか。デュ・モーリアはそういう人間性を踏まえた上で、革命を描く。肯定的にも否定的に扱わない。その筆致は常にクールだ。そこもまた読者に冷え冷えとした恐怖を催させる。
しかし、マーコイとグランドスの目的は本当に達せられたのだろうか。否である。彼らは「革命の真の目的」だった泉の水の秘密を知ることができなかった。革命家たちはその秘密を握る唯一の存在である皇女を捕え、「追従からはじまり、強姦、拷問、監禁、飢餓、疫病に至るあらゆる手段」を用いて聞き出そうとしたが、皇女は口を割らなかった。そのためにマーコイとグランドスは不老長寿を手にすることなく世を去る。かくして聖地への侵犯は失敗に終わるのだ。
繰り返すが、デュ・モーリアは『レベッカ』だけの作家ではない。彼女は様々なジャンルで才能を発揮し、小説のみならず戯曲やノンフィクションも手がけていた。現在、それらの作品のうち何作が国内で入手できるのだろう。昔、三笠書房から出ていた『デュ・モーリア作品集』が復刊すればいいのだが、そんな気配はなさそうだ。伝記や研究本も国内ではみかけない(マーガレット・フォースターが書いた伝記を海外から取り寄せることは可能である)。英国文学史を扱った書籍などを読んでも、デュ・モーリアの名前が飛ばされているケースが多々ある。無神経な話だ。今後、ジェーン・オースティンやエミリー・ブロンテやヴァージニア・ウルフを生んだイギリスの天才作家として、その真価が知られる日は来るのだろうか。
【関連サイト】
ダフネ・デュ・モーリア 聖地に挑む人々
Daphne Du Maurier
ダフネ・デュ・モーリア(書籍)
主人公「わたし」の親友で登山仲間のヴィクターが、不思議な魅力を持つ女性アンナと結婚する。登山に興味を持ったアンナは、ある日、ヴィクターを置き去りにしてモンテ・ヴェリタの山へ向かい、それきり戻ってこなくなる。村人たちの話によると、モンテ・ヴェリタの住人サセルドテッサは特別な力を持ち、13才以上の女子を招き寄せ、山に住まわせているのだという。
心配するヴィクターがモンテ・ヴェリタに登り、待ち続けて数日後、アンナが姿を現す。深い奈落に隔てられた岩壁を背に立つ彼女は、すでにサセルドテッサの一員になっていた。
「ここはわたしにとって天国なの。モンテ・ヴェリタからふつうの世界に戻るくらいなら、いますぐ何百フィートも下の岩に身を投げて死ぬわ」
と言われ、絶望するヴィクター。彼は下山し、「わたし」にこれまでの経緯を打ち明ける。
それから20年以上の年月を経た後、ヴィクターと再会した「わたし」は、重病を患う親友のため、そしてアンナに惹かれている自分自身のために、モンテ・ヴェリタに登ることを決意する。
モンテ・ヴェリタ(真実の山)は、デュ・モーリア版シャングリラである。モンテ・ヴェリタに住めば永遠の若さが得られるし、精神的にも満たされる。デュ・モーリアはフランク・キャプラ監督の『失はれた地平線』を観ていたか、ジェームズ・ヒルトンの原作を読んでいたに違いない。「わたし」が乗っている飛行機をアンナがモンテ・ヴェリタの近くに不時着させるくだりは、『失はれた地平線』へのオマージュだろう。ただし、シャングリラとモンテ・ヴェリタの間には決定的な相違点がある。モンテ・ヴェリタは人間的な愛情を受けつけないのだ。
少女たちが岩山で行方不明になる話で思い出すのは、ピーター・ウィアー監督の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』である。原作はジョーン・リンジーで、実際に起こった事件に基づいていると言われているが、現在証拠となる資料が存在しないため、フィクション説が優勢である。「モンテ・ヴェリタ」が何らかの影響を与えた可能性もあるかもしれない。
『レベッカ』にも『レイチェル』にも「モンテ・ヴェリタ」にも共通していることがある。聖地によそ者がやってくるという図式だ。聖地とは、『レベッカ』なら「マンダレイ」、『レイチェル』なら「コーンウォール」、「モンテ・ヴェリタ」なら「モンテ・ヴェリタ」である。よそ者は、『レベッカ』の「わたし」、『レイチェル』の「レイチェル」、「モンテ・ヴェリタ」の「わたし」である。いずれもよそ者たちの目的や希望や企みは果たされずに終わる。
「皇女」(1959年、『破局』収録)にも、ロンダ公国という聖地が登場する。ロンダは「歓楽と癒しと平和の国」である。宗教はない。必要がないからである。女性たちも美しい。このシャングリラのような国の最大の資産は、泉から湧き出る水だ。「この水をある種の薬品と調合して用いると、永遠の若さを保つ効能」があるのだ。その秘法は大公だけが知っている。
ロンダ公国に不協和音を起こすのは、マーコイとグランドスである。2人は厳密にいうと「よそ者」ではないが、陰湿で、貪欲で、外国文化に影響されている。ヨーロッパを旅した2人は、半年後、「胸に不満の種を宿して帰国し、そのときは意識していなかったが、それはやがて熟し、芽生えんばかりとな」る。
新聞記者となったマーコイは〈ロンダ・ニューズ〉にこう書く。
「われわれは、老いも若きもひっくるめ、なにゆえわれわれ自身の所有物をわれわれから奪い上げている政府に唯々諾々として支配されているのか。われわれみんなが支配者たりうるのだ。それなのに、われわれは支配されている」
こうした記事を読み続けるうちに、国民はそれまで感じたことのなかった不満を感じるようになる。そして、幾世紀にもわたり平和統治してきた王家に対し、こんな不満を抱くようになる。
「なんの権利があって、あいつはおれたちを支配しているんだ」
ここからはマーコイとグランドスの思惑通りに事が進む。彼らはいわばスヴェンガリである。スヴェンガリとは、デュ・モーリアの祖父ジョージ・デュ・モーリアの小説『トリルビー』に出てくる催眠術師。国民は、革命家の仮面をつけたスヴェンガリによって催眠状態に陥る。まもなく革命が起こり、大公は虐殺され、ロンダ公国はロンダ共和国に変わる。
地球上にいる誰もがシャングリラやモンテ・ヴェリタを望んでいるわけではない。人間には獣性があり、嫉妬心があり、所有欲があり、闘争本能がある。そこを突かれたらどうなるか。デュ・モーリアはそういう人間性を踏まえた上で、革命を描く。肯定的にも否定的に扱わない。その筆致は常にクールだ。そこもまた読者に冷え冷えとした恐怖を催させる。
しかし、マーコイとグランドスの目的は本当に達せられたのだろうか。否である。彼らは「革命の真の目的」だった泉の水の秘密を知ることができなかった。革命家たちはその秘密を握る唯一の存在である皇女を捕え、「追従からはじまり、強姦、拷問、監禁、飢餓、疫病に至るあらゆる手段」を用いて聞き出そうとしたが、皇女は口を割らなかった。そのためにマーコイとグランドスは不老長寿を手にすることなく世を去る。かくして聖地への侵犯は失敗に終わるのだ。
繰り返すが、デュ・モーリアは『レベッカ』だけの作家ではない。彼女は様々なジャンルで才能を発揮し、小説のみならず戯曲やノンフィクションも手がけていた。現在、それらの作品のうち何作が国内で入手できるのだろう。昔、三笠書房から出ていた『デュ・モーリア作品集』が復刊すればいいのだが、そんな気配はなさそうだ。伝記や研究本も国内ではみかけない(マーガレット・フォースターが書いた伝記を海外から取り寄せることは可能である)。英国文学史を扱った書籍などを読んでも、デュ・モーリアの名前が飛ばされているケースが多々ある。無神経な話だ。今後、ジェーン・オースティンやエミリー・ブロンテやヴァージニア・ウルフを生んだイギリスの天才作家として、その真価が知られる日は来るのだろうか。
(阿部十三)
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ダフネ・デュ・モーリア(書籍)
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