文化 CULTURE

悪魔のようなあいつ 風と共に散った三億円事件

2012.01.21
 1968年12月10日に起きた三億円事件をモチーフとして制作され、1975年に放送されたTVドラマ『悪魔のようなあいつ』。演出・プロデュースを久世光彦が手掛け、脚本は長谷川和彦、主演は沢田研二。原作コミックは原作・阿久悠、作画・上村一夫。藤竜也、荒木一郎、若山富三郎、細川俊之、篠ひろ子らが出演。作詞・阿久悠、作曲・大野克夫の主題歌「時の過ぎゆくままに」が大ヒット......話題に事欠かない作品であるにも拘わらず再放送は一度もなく、2001年のDVDリリースまでソフト化されたこともなかったため、永らく「伝説のTVドラマ」であった。僕が本作を初めて観たのは数年前だが、あの衝撃は何だか全てが夢だったようにも思える。不気味なトラウマのようであり、甘美な思い出のようにも感じられる。

 刻々と迫っていた三億円事件の時効、1975年12月10日をカウントダウンするような形で、同年6月〜9月にわたって『悪魔のようなあいつ』は放送された。「犯人は一体どんな奴なのか」ーー誰もが想像するほかなかった謎に対して本作が示したのは、「可門良」という沢田研二が演じた美青年だ。事件当時、自動車の修理工だった可門良。三億円を強奪した後はバーのシンガー、コールボーイとして生計を立てながら時効の日を指折り数えている。しかし、警察の捜査が迫り、彼が犯人であると察した人々も近づいてくるようになる。さらには不治の病「グリオブラストーマ」が進行し、彼の肉体と精神を蝕んでいく......。拷問、流血、殺人、恐喝、社会的弱者の蹂躙、強姦、同性愛を想起させる描写など、TV放送の倫理規定に挑むかのようなセンセーショナルな要素が満載であるのも、本作の魅力の一面だとは思う。しかし、この物語が何よりも映し出して止まないのは、ガラス細工のように脆くて儚いロマンチシズムだ。

 可門良は金が欲しいから三億円強奪を実行した。言うまでもない。しかし、彼が欲していたのは、金と交換で手に入れられる家、車、女......などではない。金というものが象徴する絶対的な力。それをただひたすらに心の拠り所としている様子が、物語の端々から窺われる。「この三億円がなかったら俺は何者でもなかったよ。ただの薄汚い、何も出来ないそこいらのチンケな野郎だったよ。その辺のさ、工場の工員か、売れもしない弾き語りのギター弾きか、コールボーイ。淫売野郎だよ」ーーあるシーンで可門良は吐き捨てるかのように語る。果たして本当に三億円は可門良を何者かにしたのか? おそらく彼にも何とも言えないのだと思う。しかし、その迷いを振り切るかのように、彼は金が授けるはずの力を懸命に信じて行動し続ける。三億円を使って架空の島へ渡るという夢を語り、「なけりゃ、ぶっ建っててやるよ」とも語る。狂気の果ての支離滅裂な言動ばかりとも映るが、彼が抱いている気持ちを自分自身と重ね合わせる人は少なくないのではないだろうか。何かが足りず、何かが苛立たしく、何かが変わって欲しい。しかし、何が足りなくて、何が苛立たしくて、何が変わって欲しいのかよく分からない。そんな現状を覆す存在として彼が信じ、愛し抜いたのが「三億円」。「三億円」と共に彼が迎える結末は哀しくも美しい。ラストシーンで血まみれの可門良が浮かべたあの不敵な笑顔は、思い出す度に僕の心を激しく掻き乱す。

 「形の見えない、出口の見えない無間地獄との格闘」という点で、これは監督・長谷川和彦、主演・沢田研二によって後に制作された『太陽を盗んだ男』(1979年)の原型と位置付けることも出来るだろう。原爆を製造して巨大な力を手にしつつも、何をしたら良いのか分からなくなる中学教師・城戸誠は、可門良と重なり合う存在だ。そして、可門良も城戸誠も、行きつく先は無様極まりない。しかし、たとえ愚かさに衝き動かされていたとしても見えない敵へと突進し、散っていった彼らは「無」ではない。不条理と理不尽だらけの世界を、たとえ僅かであったとしてもその爪で抉った彼らの姿は、我々に何かを伝えて止まない。そんな人物像を全17話にわたって異様な筆圧で描いた『悪魔のようなあいつ』は、実に不思議な魅力を持ったTVドラマなのだ。
(田中大)


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