忘れられた心理ゲーム ポール・モオラン『夜ひらく』のエピソードから
2012.06.16
ポール・モオランが書いた『夜ひらく』の中の一編「カタロオニュの夜」で、ある心理ゲームが紹介されている。
日曜日の夜、高名な歴史の教授のもとに集まった人々が、新種のゲームを行う。やり方は簡単である。まず、いくつかの項目が記された表に、自分で自分の点数を0点から20点までつける。その後、隣にすわっている人と表を交換し、点数を訂正し合う。項目数は20。美貌、魅力、姿態、怜智、天分、感受性、事務的才能、色気、情熱、羞恥心、手管、判断力、機智、宗教心、スノビズム、運勢、僥倖、意思、利己心、食道楽。お互いのことをどれくらい知っているかは関係ない。自分が適当だと思う訂正点数を記入すればよいだけである。
しかし、一体これは何を目的としたゲームなのか。
主人公の「私」は、隣にいるルメヂオス・シルヴァンという美女とこのゲームを行う。「美貌」についてルメヂオスが自分でつけた点数は18点、「私」が訂正してつけてやった点数は14点、「色気」についてのルメヂオスの自己採点は0点、「私」が訂正してつけたのは19点ーーという具合に。ゲームの相手、ルメヂオスは暗殺された無政府主義者の内縁の妻。もう恋はしないと決めている女である。小説では、この後、「私」がルメヂオスを食事と映画に誘う。ルメヂオスは承諾する。やがて2人はお互いを強く意識するようになり、恋愛へと発展する。
この小説が発表されたのは1922年のことである。作者のポール・モオランは作家兼外交官(「ポール・モラン」と表記されることも多い)。堀口大學による翻訳が出たのは1924年7月。作中に横溢する斬新な言語感覚は、日本の〈新感覚派〉の作家たちに大きな影響を与えた。いや、〈新感覚派〉だけではない。佐藤春夫までをも夢中にさせた(堀口大學とは盟友だった)。『時事新報』に寄せられた「『夜ひらく』を薦む」(1924年10月1日)によると、「逢ふ人ごとにすすめて読ませてみる」ほど興奮したようである。さらに、佐藤はこんな風に評している。
「此作はただ欧州動乱後の混乱しきった各国社会の状態を描き、個人主義的の思想や快楽追究的の生活が究極に達してそれ自身で滅落する状態などを描くかたはら、新らしい文明の基調となる可きところのものは民衆の中の一人としての自我を発見することにあるといふふうな理想を仄かに描いてゐるのではないのでせうか」
民衆の中の一人としての自我を発見すること。ーー先述のゲームは、ひょっとすると自我の発見を目的としたものなのだろうか。どうもそうではなさそうである。
吉行淳之介は初期作品「薔薇販売人」(1950年)で、ポール・モオランを引用している。薔薇売りと偽る会社員の檜井二郎が、人妻ミワコを誘惑するために、「面白い遊びを教えてあげましょう」といい、紙と鉛筆を用意させるのである。その「面白い遊び」が『夜ひらく』のゲームというわけ。なお、ここでは項目が14にまで絞られている。容貌、スタイル、色気、怜智、判断力、情熱、意思、羞恥心、手くだ、嫉妬心、感受性、宗教心、運勢、才能。これらを20点満点で自己採点し、相手が訂正する。
このゲームについて、吉行はこう解説している。
「これは危険な遊びである。モオランは、これを多人数の遊戯として取り上げたが、それが二人の男女のあいだで行われる場合、その危険の意味は更に微妙になる。これを始める以前と以後では、二人の関係は違ったものになってしまうのだ」
それまでは距離のあった男女を急速に近づける反面、長年付き合っているカップルの関係に暗雲をもたらすことにもなり得る。そういう意味で、吉行は「危険」といっているのである。
小説の中では、ミワコが「ダメよ、わたし、うまく書けない」と自己採点を拒否する。そこで檜井がまず彼女のことを採点し、それを彼女に訂正させることになる。それでも、結果的にはうまくいく。どうやらこのゲームには決まった手順はないらしい。こうなってくると、本当にゲーム自体に意味があるのかどうかも疑わしくなってくる。
とはいえ、これはドナルド・G・ダットンとアーサー・P・アロンによる「吊り橋実験」以上の歴史を持つ恋愛心理実験なのである。この遊戯をモオランが考えたのか、酔狂な心理学者が考えたのか、そこまではわからないが、「自己採点」、「他者による訂正」という作業が、複数の人間のはっきりしない関係にメスを入れて、相手のことを必要以上に意識させると共に、自分の本心や欲望を見つめ直す効果をもたらすことは間違いなさそうである。
最近、あることがきっかけでこのゲームを思い出した。人事考課である。そのやり方は企業によってまちまちだろうが、自己による評価、上司による訂正、という手順で行われるケースは珍しくない。中には、部下と上司が互いに評価・訂正し合う企業もある。むろん、そこには「姿態」、「色気」、「羞恥心」などという項目は入ってこない(入ったら大変なことになる)。しかし、やっていることは似たり寄ったりだ。それが仕事を目的としたものなのか、恋愛を目的としたものなのかの違いである。もとを辿れば、案外、『夜ひらく』に端を発しているのかもしれない。
日曜日の夜、高名な歴史の教授のもとに集まった人々が、新種のゲームを行う。やり方は簡単である。まず、いくつかの項目が記された表に、自分で自分の点数を0点から20点までつける。その後、隣にすわっている人と表を交換し、点数を訂正し合う。項目数は20。美貌、魅力、姿態、怜智、天分、感受性、事務的才能、色気、情熱、羞恥心、手管、判断力、機智、宗教心、スノビズム、運勢、僥倖、意思、利己心、食道楽。お互いのことをどれくらい知っているかは関係ない。自分が適当だと思う訂正点数を記入すればよいだけである。
しかし、一体これは何を目的としたゲームなのか。
主人公の「私」は、隣にいるルメヂオス・シルヴァンという美女とこのゲームを行う。「美貌」についてルメヂオスが自分でつけた点数は18点、「私」が訂正してつけてやった点数は14点、「色気」についてのルメヂオスの自己採点は0点、「私」が訂正してつけたのは19点ーーという具合に。ゲームの相手、ルメヂオスは暗殺された無政府主義者の内縁の妻。もう恋はしないと決めている女である。小説では、この後、「私」がルメヂオスを食事と映画に誘う。ルメヂオスは承諾する。やがて2人はお互いを強く意識するようになり、恋愛へと発展する。
この小説が発表されたのは1922年のことである。作者のポール・モオランは作家兼外交官(「ポール・モラン」と表記されることも多い)。堀口大學による翻訳が出たのは1924年7月。作中に横溢する斬新な言語感覚は、日本の〈新感覚派〉の作家たちに大きな影響を与えた。いや、〈新感覚派〉だけではない。佐藤春夫までをも夢中にさせた(堀口大學とは盟友だった)。『時事新報』に寄せられた「『夜ひらく』を薦む」(1924年10月1日)によると、「逢ふ人ごとにすすめて読ませてみる」ほど興奮したようである。さらに、佐藤はこんな風に評している。
「此作はただ欧州動乱後の混乱しきった各国社会の状態を描き、個人主義的の思想や快楽追究的の生活が究極に達してそれ自身で滅落する状態などを描くかたはら、新らしい文明の基調となる可きところのものは民衆の中の一人としての自我を発見することにあるといふふうな理想を仄かに描いてゐるのではないのでせうか」
民衆の中の一人としての自我を発見すること。ーー先述のゲームは、ひょっとすると自我の発見を目的としたものなのだろうか。どうもそうではなさそうである。
吉行淳之介は初期作品「薔薇販売人」(1950年)で、ポール・モオランを引用している。薔薇売りと偽る会社員の檜井二郎が、人妻ミワコを誘惑するために、「面白い遊びを教えてあげましょう」といい、紙と鉛筆を用意させるのである。その「面白い遊び」が『夜ひらく』のゲームというわけ。なお、ここでは項目が14にまで絞られている。容貌、スタイル、色気、怜智、判断力、情熱、意思、羞恥心、手くだ、嫉妬心、感受性、宗教心、運勢、才能。これらを20点満点で自己採点し、相手が訂正する。
このゲームについて、吉行はこう解説している。
「これは危険な遊びである。モオランは、これを多人数の遊戯として取り上げたが、それが二人の男女のあいだで行われる場合、その危険の意味は更に微妙になる。これを始める以前と以後では、二人の関係は違ったものになってしまうのだ」
それまでは距離のあった男女を急速に近づける反面、長年付き合っているカップルの関係に暗雲をもたらすことにもなり得る。そういう意味で、吉行は「危険」といっているのである。
小説の中では、ミワコが「ダメよ、わたし、うまく書けない」と自己採点を拒否する。そこで檜井がまず彼女のことを採点し、それを彼女に訂正させることになる。それでも、結果的にはうまくいく。どうやらこのゲームには決まった手順はないらしい。こうなってくると、本当にゲーム自体に意味があるのかどうかも疑わしくなってくる。
とはいえ、これはドナルド・G・ダットンとアーサー・P・アロンによる「吊り橋実験」以上の歴史を持つ恋愛心理実験なのである。この遊戯をモオランが考えたのか、酔狂な心理学者が考えたのか、そこまではわからないが、「自己採点」、「他者による訂正」という作業が、複数の人間のはっきりしない関係にメスを入れて、相手のことを必要以上に意識させると共に、自分の本心や欲望を見つめ直す効果をもたらすことは間違いなさそうである。
最近、あることがきっかけでこのゲームを思い出した。人事考課である。そのやり方は企業によってまちまちだろうが、自己による評価、上司による訂正、という手順で行われるケースは珍しくない。中には、部下と上司が互いに評価・訂正し合う企業もある。むろん、そこには「姿態」、「色気」、「羞恥心」などという項目は入ってこない(入ったら大変なことになる)。しかし、やっていることは似たり寄ったりだ。それが仕事を目的としたものなのか、恋愛を目的としたものなのかの違いである。もとを辿れば、案外、『夜ひらく』に端を発しているのかもしれない。
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