読書について この罰せられざる悪徳
2012.07.28
『狭き門』や『チボー家の人々』の翻訳で知られる仏文学者、山内義雄のエッセイ集『遠くにありて』の中に、「書籍の周囲」と題された短い文章がある。自身の読書愛を吐露した内容で、それによると、疎開先が空襲で焼けて書物を失い、4日間読書することなく過ごしたことがあるという。その「外から強いられた、何とも抗いようのない空白」について、山内は次のように書いている。
「私はその四日間、一冊の本も手にすることなしに過したその四日間、この世に生を享けて初めて知ったと言って誇張でないほどな一種『孤独地獄』の気持を思い知らされました」
戦争中のことである。本を失った程度で地獄という言葉を使うのは大げさではないか、と思う人もあるかもしれないが、山内にとってはその程度では済まないのである。彼は「突然足許にひらいた黒闇々の深淵」を感じながら、「まだいくらかの和書の残っているのを心頼りに、這々の体で東京の住居に戻って来た」という。
このエッセイの中で、山内はヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』を紹介し、共感を表明している。これは、宿題のための読書、利益のための読書といった「何かのため」の読書ではなく、純粋に本を味わうための読書を推奨する情熱的な読書論だ。ラルボー自身は、「読書という快楽、孤独な、冴えない、しかし美しい快楽を謳ったこの散文のエレジー」と自作を表現している。
「罰せられざる悪徳」ーーきわめて魅惑的なタイトルだが、これはアメリカの詩人、ローガン・ピアソール・スミスの散文詩から拝借した言葉である。ラルボーは、その散文を本の冒頭で紹介している。
「この間、地下鉄の中ですっかり腐り切った私は、何かこの人生に許された楽しみとでもいったやうなものを考えて、そこに心の支えを求めようとした。だが、その何れ一つ、私の興味に値するものはなかった。酒も、栄養も、友情も、食い物も、恋愛も、美徳の観念も。然らば果たして、端の端までこの乗り物に乗りつづけ、何等変哲のない地上の世界にふたたび面をのぞける意味が何処にある?
このとき突然、私の頭には読書のことが閃いた。あの至醇なる読書のたのしみ。さうだ、百年の歳月を以てしても曇らすことなきこの喜び、極めて洗練され、しかも罰せらるることなきこの悪徳、極めて利己的であり、しかも明朗にして、永続性のあるこの陶酔、さうだ。これあるによって人生活くるに足る!」
私にとっては、酒も、栄養も、友情も、食い物も、恋愛も、美徳の観念も興味に値するが、読書の快楽が特別な位置にあることには共感できる。人は、読書をしながら、現実のことなどそっちのけで、想像を絶するようなことをやってのけるヒーローや、悪魔に魂を売った邪悪な犯罪者や、救いようのない泥沼に陥っている恋人たちや、自堕落で破滅的な人々と心理的に交わる。夢中になれば、同化もする。それによって現実の何かが変わるとか、利益が得られるとか、功利的な思考が絡んでいるわけではない。全ては読書という行為の中で完結する。別に、誰からも罰せられる筋合いはない。
ただ、山内はこの「罰せられざる悪徳」のたのしみを知っているだけに、別のエッセイ「父の心配 子供の読書」でこんなことを書いている。14才になった娘が、父親の書架に興味を持ち、本を読み始めるのだが、そのチョイスが気になって仕方ない、というのだ。
「そのうちケセル(ケッセル)の『昼顔』が持ち出されようとしているのに気がついてはッとおどろく。つづいてラクロの『危険な関係』をねらっているらしいのを見て心胆寒からしめられる」
その後、娘はルナールの『にんじん』を読み始めるのだが、周知の通り、主人公は母親を愛していない。これも「親たちにとって中々油断出来ない代物」である。それでは、一体何を読めばいいのか。オチとして、山内は『アルプスの山の娘』を読む娘の姿を見て、安堵を覚える。
もっとも、『にんじん』を読もうが、『昼顔』を読もうが、『危険な関係』を読もうが、それによって母親のことを嫌いになったり、売春をはじめたり、インモラルな賭けに興じたりすることはないだろう。親が子供の心配をするのはわかるが、そういうことは読書が理由で起こるわけではない。読書とは昇華行為である。何かにつけ「本の責任」を口にする人は、自分のしつけのまずさや子供の資性(檀一雄風にいえば「資性劣弱」)を棚に上げて、本をスケープゴートにしているにすぎない。平たくいえば、責任転嫁である。
同じようなことは漫画についてもいえる。昔、漫画がスケープゴートにされ、あの漫画は駄目、この漫画も駄目、という裁定がなされていた頃を思い出す。高校時代の話である。当時私は図書委員で、いろいろな人から議論をふっかけられた。残酷描写がある漫画を読んだら犯罪者になる確率が上がるとか、そんな話を大真面目にする人もいた。その説に従えば、私と同世代で、子供の頃に『キン肉マン』や『ブラック・エンジェルズ』や『北斗の拳』を熱心に読んでいた人たちは、みんな危険人物ということになる。むしろそういう漫画があったことで救われた人の方が圧倒的に多いように思うのだが。
音楽や映画と同様、本のない人生は、私には考えられない。何か読んでいる本がないと、落ち着かないのである。これは一種の病気だろう。電車やバスも、基本的に、私にとっては読書をする場所である。誰かと一緒にいる時は別として、よほどのことがない限りは、寝て過ごしたり、車窓の風景を眺めたり、乗客を観察したりすることはない。まず読書を選択する。
今、通勤電車で読んでいるのは、古井由吉の『仮往生伝試文』。ずっと読みたかったものだが、ようやく手をつけることができた。特異な言語感覚と時空感覚を持ち、読みやすいわけではなく、読みにくいわけでもなく、微妙なニュアンスまで咀嚼することを要求しているようで、とくにそこまで要求していないような、なんというか、距離感が定めにくい作品である。そのくせ続きを読みたくなる。そして、いわば毎日のように「往生」している。およそ通勤時にふさわしい作品とはいえないが、足を踏み入れてしまった以上、最後のページを繰るまで、立ち止まることはできない。
余談だが、ローガン・ピアソール・スミスには広く知られた名言がある。
「人生で目標とすべきことは2つある。1つめは、欲しいものを手に入れること。2つめは、手に入れたものを楽しむことだ。しかし、2つめを達成することができるのは、賢人だけである」
胸にしみる言葉である。
これを卑近な例に置き換えると、私の家にはまだ読めていない分厚い本が数冊ある。読破するには、それなりの時間と心の余裕が必要なものばかりだ。手に入れたはいいが、いつになったら読めるのか、わからない。
【関連サイト】
ヴァレリー・ラルボー
山内義雄
「私はその四日間、一冊の本も手にすることなしに過したその四日間、この世に生を享けて初めて知ったと言って誇張でないほどな一種『孤独地獄』の気持を思い知らされました」
戦争中のことである。本を失った程度で地獄という言葉を使うのは大げさではないか、と思う人もあるかもしれないが、山内にとってはその程度では済まないのである。彼は「突然足許にひらいた黒闇々の深淵」を感じながら、「まだいくらかの和書の残っているのを心頼りに、這々の体で東京の住居に戻って来た」という。
このエッセイの中で、山内はヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』を紹介し、共感を表明している。これは、宿題のための読書、利益のための読書といった「何かのため」の読書ではなく、純粋に本を味わうための読書を推奨する情熱的な読書論だ。ラルボー自身は、「読書という快楽、孤独な、冴えない、しかし美しい快楽を謳ったこの散文のエレジー」と自作を表現している。
「罰せられざる悪徳」ーーきわめて魅惑的なタイトルだが、これはアメリカの詩人、ローガン・ピアソール・スミスの散文詩から拝借した言葉である。ラルボーは、その散文を本の冒頭で紹介している。
「この間、地下鉄の中ですっかり腐り切った私は、何かこの人生に許された楽しみとでもいったやうなものを考えて、そこに心の支えを求めようとした。だが、その何れ一つ、私の興味に値するものはなかった。酒も、栄養も、友情も、食い物も、恋愛も、美徳の観念も。然らば果たして、端の端までこの乗り物に乗りつづけ、何等変哲のない地上の世界にふたたび面をのぞける意味が何処にある?
このとき突然、私の頭には読書のことが閃いた。あの至醇なる読書のたのしみ。さうだ、百年の歳月を以てしても曇らすことなきこの喜び、極めて洗練され、しかも罰せらるることなきこの悪徳、極めて利己的であり、しかも明朗にして、永続性のあるこの陶酔、さうだ。これあるによって人生活くるに足る!」
(山内義雄訳)
私にとっては、酒も、栄養も、友情も、食い物も、恋愛も、美徳の観念も興味に値するが、読書の快楽が特別な位置にあることには共感できる。人は、読書をしながら、現実のことなどそっちのけで、想像を絶するようなことをやってのけるヒーローや、悪魔に魂を売った邪悪な犯罪者や、救いようのない泥沼に陥っている恋人たちや、自堕落で破滅的な人々と心理的に交わる。夢中になれば、同化もする。それによって現実の何かが変わるとか、利益が得られるとか、功利的な思考が絡んでいるわけではない。全ては読書という行為の中で完結する。別に、誰からも罰せられる筋合いはない。
ただ、山内はこの「罰せられざる悪徳」のたのしみを知っているだけに、別のエッセイ「父の心配 子供の読書」でこんなことを書いている。14才になった娘が、父親の書架に興味を持ち、本を読み始めるのだが、そのチョイスが気になって仕方ない、というのだ。
「そのうちケセル(ケッセル)の『昼顔』が持ち出されようとしているのに気がついてはッとおどろく。つづいてラクロの『危険な関係』をねらっているらしいのを見て心胆寒からしめられる」
その後、娘はルナールの『にんじん』を読み始めるのだが、周知の通り、主人公は母親を愛していない。これも「親たちにとって中々油断出来ない代物」である。それでは、一体何を読めばいいのか。オチとして、山内は『アルプスの山の娘』を読む娘の姿を見て、安堵を覚える。
もっとも、『にんじん』を読もうが、『昼顔』を読もうが、『危険な関係』を読もうが、それによって母親のことを嫌いになったり、売春をはじめたり、インモラルな賭けに興じたりすることはないだろう。親が子供の心配をするのはわかるが、そういうことは読書が理由で起こるわけではない。読書とは昇華行為である。何かにつけ「本の責任」を口にする人は、自分のしつけのまずさや子供の資性(檀一雄風にいえば「資性劣弱」)を棚に上げて、本をスケープゴートにしているにすぎない。平たくいえば、責任転嫁である。
同じようなことは漫画についてもいえる。昔、漫画がスケープゴートにされ、あの漫画は駄目、この漫画も駄目、という裁定がなされていた頃を思い出す。高校時代の話である。当時私は図書委員で、いろいろな人から議論をふっかけられた。残酷描写がある漫画を読んだら犯罪者になる確率が上がるとか、そんな話を大真面目にする人もいた。その説に従えば、私と同世代で、子供の頃に『キン肉マン』や『ブラック・エンジェルズ』や『北斗の拳』を熱心に読んでいた人たちは、みんな危険人物ということになる。むしろそういう漫画があったことで救われた人の方が圧倒的に多いように思うのだが。
音楽や映画と同様、本のない人生は、私には考えられない。何か読んでいる本がないと、落ち着かないのである。これは一種の病気だろう。電車やバスも、基本的に、私にとっては読書をする場所である。誰かと一緒にいる時は別として、よほどのことがない限りは、寝て過ごしたり、車窓の風景を眺めたり、乗客を観察したりすることはない。まず読書を選択する。
今、通勤電車で読んでいるのは、古井由吉の『仮往生伝試文』。ずっと読みたかったものだが、ようやく手をつけることができた。特異な言語感覚と時空感覚を持ち、読みやすいわけではなく、読みにくいわけでもなく、微妙なニュアンスまで咀嚼することを要求しているようで、とくにそこまで要求していないような、なんというか、距離感が定めにくい作品である。そのくせ続きを読みたくなる。そして、いわば毎日のように「往生」している。およそ通勤時にふさわしい作品とはいえないが、足を踏み入れてしまった以上、最後のページを繰るまで、立ち止まることはできない。
余談だが、ローガン・ピアソール・スミスには広く知られた名言がある。
「人生で目標とすべきことは2つある。1つめは、欲しいものを手に入れること。2つめは、手に入れたものを楽しむことだ。しかし、2つめを達成することができるのは、賢人だけである」
胸にしみる言葉である。
これを卑近な例に置き換えると、私の家にはまだ読めていない分厚い本が数冊ある。読破するには、それなりの時間と心の余裕が必要なものばかりだ。手に入れたはいいが、いつになったら読めるのか、わからない。
(阿部十三)
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