文化 CULTURE

美術館の底力 千葉市美術館について

2012.08.11
 それは、朝からうららかに晴れた、ある春の日のこと。国際線に乗るために新東京国際空港(現成田国際空港)のある成田市には何度も足を踏み入れたことはあるが、同市を擁する千葉県の県庁所在地、千葉市には一度も行った経験のなかった筆者は、今から遡ること16年前の1996年4月17日、生まれて初めてJR千葉駅に降り立った。千葉市の空もまた、筆者の住む横浜と同じように抜けるように青く、春のやわらかな陽光が燦々と降り注いでいたのを今でも鮮明に記憶している。目的はただひとつ、その前年に開館したばかりの千葉市美術館(以下、千葉市美)で開催中の『開館記念[4]大英博物館 肉筆浮世絵名品展』を観ること。更に言えば、たった1枚の肉筆画ーー溪斎英泉画「手鏡を見る美人図」ーーの実物を生きているうちに目にし、生涯の記憶に留めるためだけに、朝6時に起床して、東京を通り越して千葉駅、延いては千葉市美を目指したのである。そしてーー

 その美術館は、荘厳なネオ・ルネッサンス様式の建物(旧川崎銀行千葉支店を改修したもの)に、千葉市中央区役所と併設されていた。それまでにも数多くの美術館に足を運んできたのだが、千葉市美のような形態は初めてだったせいもあってか、入り口で少々、戸惑いを覚えたものである。が、現在はフリー・スペース(展示会のチラシなどが置いてある)になっている1階の入り口奥の空間は、開館当時、ミュージアム・ショップだったため、ミュージアム・グッズ・フリークの筆者は、先ずそこへ目が行った。美術館の良し悪しがミュージアム・ショップで判る場合が少なくないからである。上階にある展示会場に行く前に、吸い寄せられるようにふらふら〜っとミュージアム・ショップへと足を踏み入れてしまったのだが、一見して「ここはデキる!」とピンと来た。京都市に本社がある、日本美術のミュージアム・グッズ専門店、便利堂と提携しているという点も、筆者を酔わせるには充分だ。

chibashibi_a
 それより展示会場へ急がねば......。後ろ髪を引かれる思いでミュージアム・ショップを後にし、エレベーターで上階の展示会場へ。長い年月の間に約100ヶ所近くの美術館を観て回っていると、弥が上にも細部に神経を尖らせる癖が身に着く。展示法は言わずもがなだが、照明の当て方、展示会場の空調、順路の回り易さと回り難さ、就中、肝要なのは、学芸員や職員さんたちの接客態度、監視員の佇まい。もっと細かな要素を挙げればキリがないが、千葉市美は、筆者がそれまで行ったどの美術館よりも、それら全ての条件において心地好かった。そして今なお、浮世絵や大和絵を鑑賞する空間として、最も愛してやまない美術館であり続けている。

 確かに、横浜市民からすれば遠い。千葉市美行きは、ちょっとした小旅行気分だ。JR千葉駅から徒歩15分ぐらいでも行けるが、駅前から千葉市美近くまでのバスも出ているし、モノレールでも行ける。逆に言えば、駅からは少し遠いということ。にもかかわらず、千葉市美の前に到着した瞬間、自分が遠くまで来ている現実をすっかり忘れてしまう。妙な言い方かも知れないが、〈来た〉というより〈また戻って来た〉という感覚にも似て......。そしてこれから目にする展示会に、心躍らせるのだ。その感覚は、幾たび行っても変わらない。否、同美術館を訪れる毎に、胸の高鳴りが増していくような気さえする。それほど、筆者は千葉市美に深く魅せられているのだ。だから遠くても行く。少々、体調が悪くても、観たい展示会を年に一度は必ず開催してくれるから、「これは絶対に見逃せない」と思った展示会には、体調の悪さを押して這ってでも行く。筆者の気持ちをそこまで駆り立てる美術館は、千葉市美をおいて外にない。

 千葉市美創設のきっかけは、浮世絵研究家で、筆者の最も敬愛する絵師、溪斎英泉のコレクター兼研究者としても知られた故・今中 宏氏(1928年〜1997年/和菓子の老舗として有名な、大阪に本店のある「鶴屋八幡」にお生まれになり、旧制中学時代は、あの手塚治虫氏と同期だったという)の英泉コレクション=通称〈今中 宏コレクション〉が、千葉市の所蔵品に収まったことである。同美術館創設のちょうど10年前、即ち1985年から、いずれ美術館を創設するという構想のもと、千葉市は浮世絵収集を開始したのだった。その記念すべき収蔵品第一号のほとんどの作品は、去る2012年5月29日〜7月8日に開催された『浮世絵師 溪斎英泉〜蘇る、江戸の媚薬。』に出品されていた。同展示会を、原点回帰、とでも呼べばいいだろうか。〈初心忘れるべからず〉をここへきて千葉市美が標榜してくれたような気がして、込み上げる熱い思いを抑え切れなかった。

 初代館長は、日本美術界の重鎮であらせられる辻 惟雄氏(現MIHO MUSEUM館長)、2代目は浮世絵研究家の第一人者である小林 忠氏(現学習院大学名誉教授)、そして今年4月に就任されたばかりの3代目館長は、海北友松(かいほう・ゆうしょう/国宝「松林図屏風」で知られる、長谷川等伯と同時代の安土・桃山〜江戸初期にかけて活躍した絵師)の研究家としても高名な日本美術史研究家/慶應大学名誉教授の河合正朝氏である。また、数年前まで学芸課長を務めておられたのが浮世絵研究家の浅野秀剛氏(現大和文華館館長/特に喜多川歌麿の研究で名高い)だった、ということも、千葉市美での浮世絵展を中身の濃いものにしてくれた。浮世絵や大和絵の愛好家ならば、その名を見聞きしただけで思わずひれ伏してしまうような、錚々たるお歴々の方々が千葉市美を盛り立ててこられたのだから、展示会の内容の素晴らしさは推して知るべし、である。

 現在、学芸課長でいらっしゃる田辺昌子氏(学習院大のご出身)は、2代目館長の小林氏の門下生であり、千葉市美で最初に手掛けられた展示会は、ご自身が卒論のテーマに選んだという鈴木春信(展示会名は『青春の浮世絵師 鈴木春信』/2002年9月14日〜10月20日に開催)だったとの由。過去に、あそこまで内容の充実した大々的な春信展を、筆者は未だかつて観たことがないし、この先も二度とないであろう。そしてその日(10月18日)は、たまたま千葉市の「市民の日」だったため、入館料が無料だったのだ。筆者は知人がくれた招待券を持っていたのだが、非千葉市民であるにも拘らず、何と春信展を無料で観られる、という予想だにしていなかった僥倖に遭遇したのである。よって、春信展の招待券は、今でもミシン目の切り取り線を切り離さないまま大切に保管してある。「市民の日」に、千葉市民であるか否かを問わず全入館者が無料とは......! 他にもそうしたサービスを行っている美術館があるかも知れないが、筆者にとっては初体験の予期せぬ嬉しい配慮だったため、益々、千葉市美に惚れ直した次第である。

 千葉市美が浮世絵と大和絵の展示会に主に力を入れているのは事実だが(2012年4月10日〜5月20日に開催された『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち』は筆舌に尽くし難いほど素晴らしかった)、決してそれだけに固執しているわけではない。年に一度は、必ず『千葉市民美術展覧会』なる地元密着型の展示会を催しているし、例えば西洋画では、過去にシャガールやパウル・クレーの大々的な展示会も行っている。2010年には、『田中一村 新たなる全貌』を開催し、一村ファンを狂喜乱舞させるという離れ業(?)もやってのけた。遠くから千葉市美に足を運ぶ美術愛好家の人々は、〈千葉市美に〜展を観に行く〉のではなく、〈〜展を千葉市美に観に行く〉のである。換言するなら、千葉市美がどこにあろうと、同美術館の、時に奇想天外な、時に直球勝負でありながら必ず新しい発見を用意してくれる展示会を、人々はわざわざ足を運んで観に行くのだ。もちろん、筆者もそのうちのひとりであるのは言うまでもない。

 最も居心地が悪いのは、絵に近づく度に脱兎のごとく駆け寄ってきて「お客様、絵から離れて下さいッ!」と、怒鳴り散らすように言う監視員がいる美術館である。また、〈看板に偽りあり〉的な展示会ーー展示会のタイトルだけは大仰でありながら、中身がスカスカのものーーを平然と催して高額な入館料をブン獲る美術館などは論評にすら値しない。某美術館などは、ミュージアム・ショップの閉店5分前に入店して買い物をしようとした筆者を制して追い返した。さらに同美術館の受付嬢は、展示会を観終わって階下のトイレに行こうとする筆者を呼び止め、「お客様っ! どちらへ行かれるんです?!」と、物凄い形相で訊いてきた。「お手洗いをお借りしたいんですが......」と怒りを抑えて言う筆者に、今度は「だったらチケットの半券を見せて下さいッ!!」ときたもんだ。あの美術館では、一体全体どのような職員教育を施しているのか? 近年では、よほどのことがない限りその美術館には近づかない。行く度に、決まって何かしら不快な思いをさせられるからだ。

 翻って千葉市美である。何よりも感心させられるのは、学芸員や職員のみなさんのひとりひとりが、来館者に対して親切極まりなく、また、細やかな気遣いをして下さる点。もちろん、展示会場の居心地の良さも抜群だ。さすがは光に弱い浮世絵を多く所蔵しているだけあって、照明の当て方も過不足なし。順路もとても観て回り易い。そしてどの季節に訪ねても、空調が程よく効いている。至れり尽くせり、とは、こういうことを言うのだろう。今では上階に移動したミュージアム・ショップだが、開館当初のそれよりも約3倍のスペースで、オリジナル・グッズも充実している。何にも況して素晴らしいのは、図録の懇切丁寧な作りと良心的な価格。加えて、特別展のポスターのそれの、驚くほどの安さ。だから千葉市美で特別展を観る度に、最も大きなB1サイズのポスターを買わずにはいられない。拙宅の居間には、常に千葉市美で催された特別展の特大ポスターを額装して飾ってあるが、いずれ褪色してしまうため、必ず2枚以上は買うことにしている(時には3枚も買ってしまうことも)。どのぐらい良心的プライスかと言えば、都内某所の美術館で売られている同サイズのポスターの半値以下(!)である。そして千葉市美が作成する特別展のポスターは、どれもデザインが秀逸だ。今まで一度たりとも〈ハズレ〉がない。図録も同様。そうして、同美術館に行く度に、特大ポスター数枚と、図録、絵ハガキやグッズなどを心ゆくまで買い漁り、東京を越えて遥々と横浜まで持ち帰るのである。まさに至福のひと時。初めて行った時にはあんなにも遠く感じられた千葉駅←→拙宅の最寄駅間の距離が、今では少しも苦にならない。

 浮世絵好き、大和絵好きなら、決して避けては通れない美術館のひとつ、それが千葉市美である。その分野の展示会を企画させたなら、最高峰のものを来館者に見せて(魅せて)くれる美術館だと断言しても決して過言ではないだろう。

 人生50年と言われた江戸時代の人々は、この世はどうせ憂世(=憂鬱な世界)だと諦めて暮らすよりも、浮かれて楽しく過ごしたいという思いを込めて、錦絵(=浮世絵の別称)を〈憂世絵〉ではなく〈浮世絵〉と称したのだと、昔、物の本で読んだ。それに倣って言うならば、先の見えない憂世の現代社会に生きる浮世絵鑑賞歴20年余の筆者にとって、千葉市美は、文字通り唯一無二の〈浮世〉空間なのである。
(泉山真奈美)


【関連サイト】
千葉市美術館
千葉市美術館(動画)

月別インデックス