『タイタス・アンドロニカス』 封じられた言葉、封じられない言葉 [続き]
2012.09.01
言葉を封じ込めようとする力の世界で、エアロンだけは別格的存在として扱われている。彼は言葉を武器にして、相手をとことん挑発する。誰もこの悪魔を黙らせることはできない。彼の邪悪ぶりが最も明確にあらわれているのは、「それだけ凶悪なことをしてきて、後悔していないのか」とルーシアスに問われた後の答えだろう。
「後悔してるよ。もっとやっておけば良かったってな。今でも呪ってるぜ、めざましいほどの悪事をしないで過ごした日のことを」(第五幕第一場)
悲劇の真相を話してやるから、代わりに子供は殺さないと神に誓え、とルーシアスに迫るところも見逃せない。エアロンは言葉の持つ力を信じているのである。そして実際、ルーシアスは神に誓い、そのせいでエアロンの子供に手出しができなくなる。別に、エアロンから真相を聞くだけ聞いて、約束を破ってしまえばいいものを、エアロンの前では誓いの言葉が異様なほど重みを持ってしまうのだ。エアロンはそういう風に口から発せられた言葉、すなわち「パロール」が起こす効果まで見越しているのである。
先に私は「暴力の前では言葉など風の前の塵に同じ」と書いたが、これは言葉の無力を描いた劇というわけではない。むしろ逆である。言葉を封じようとする人々の姿勢は、極度に言葉を恐れる心理から生まれている。言葉が耳に入ることで、人は何かしら影響を受け、心を動かされる。共感できる言葉であれ、できない言葉であれ、いったん心に引っかかってしまえば、言葉のしみは残るものだ。それが怖いのである。だから潔癖症のようになり、共感できない言葉、煩わしい言葉を早めに封じる。ただし、エアロンだけは言葉を操ることを許可され、周囲の人々に黒い影響を及ぼし続けるのだ。これを書いたシェイクスピア自身の意図は知る由もないが、結果として、ほかのどの登場人物よりもエアロンが生き生きしているように見えることは否定しようがない。
エアロンにいい渡される刑も生ぬるい。残虐な死の連鎖がここでぴたりと止まる。
「胸まで土に埋めて、飢えるにまかせ、いくら食べ物を求めて喚こうと放置しておけ」(第五幕第三場)
ルーシアスにこういわれると、エアロンは「心が怒り狂っている時に、口が黙っていられるか」といい放つ。しかし、怒り狂うほどのことだろうか。ひとことも言葉を発する余裕を与えられずに死んでいった登場人物たち(主役のタイタスですら死ぬ間際に何の台詞も与えられていない)に比べ、エアロンに対する扱いはずいぶん丁重である。上半身が地上に出ている以上、エアロンはしゃべり続けることができる。どんなに喚こうが自由なのである。ルーシアスはなぜ暴力によってその口を封じようとしないのか。エアロンは土に埋められただけで本当に絶命するのだろうか。悪魔のようなしぶとさと奸計によって脱走に成功するのではないか。
いろいろと考えさせられる終わり方である。
ただ、忘れてはならないことがひとつある。この悲劇の元凶はエアロンやタモーラではなく、タイタス・アンドロニカスなのだ。タイタス自身もそれを自覚している。その点でも感情移入しにくいところがある。
「ああ、ローマ! そうだ、お前をみじめにしたのはこの俺だ。皇帝推挙の時、俺は民衆の賛同をあの男に投げ渡した。その暴君が俺を苦しめている」(第四幕第三場)
そもそも、タイタスがサターナイナスでなくバシエーナスを皇帝に選んでいれば、こんなことにはならなかった。元を辿れば、ただそれだけの話なのである。
ところで、『タイタス・アンドロニカス』には『ハムレット』に通ずる要素がある。タイタスが狂気を演じるところはハムレットとだぶるし、復讐神に変装してタイタスに調子を合わせるタモーラの滑稽さはポローニアスを思い出させる。ラヴィニアの変わり果てた姿を見て呆然とするマーカスは、発狂したオフィーリアと再会したレアティーズを彷彿させる。
ちなみに、『ハムレット』は1598年から1602年までの間に書かれた作品である。よって、『ハムレット』が『タイタス・アンドロニカス』に何らかの作用を及ぼすことはあり得ない。ただし、『ハムレット』にはベースとなる作品があった。遅くとも1589年までに、『ハムレット』というセネカ風の悲劇が何者かによって書かれていたことがわかっているのだ。この幻の作品は『原ハムレット』と呼ばれている。『原ハムレット』が今日まで未発見である以上、確言はできないが、『タイタス・アンドロニカス』から『ハムレット』と似た匂いを嗅ぎ取るのは難しいことではないと思う。むろん、『原ハムレット』には『タイタス・アンドロニカス』につながるような要素が一つもない、という可能性もある。その場合は、シェイクスピアが『タイタス・アンドロニカス』のアイディアを『ハムレット』に応用した、とみるべきだろう。
私は『タイタス・アンドロニカス』の舞台を一度しか観たことがない。上演される機会が少ないので、なかなか観ることができないのである。せめてすぐれた映像作品が残っていればよいのだが。たとえば、ローレンス・オリヴィエがタイタスを演じ、ヴィヴィアン・リーがラヴィニアを演じた、ピーター・ブルック演出による舞台(1955年)の記録。『タイタス』再評価のきっかけを作った伝説的公演なのに、映像がないのは惜しい。少なくとも日本で目にしたことはない。オリヴィエのタイタス、これ以上のキャスティングはないだろう。ピーター・ブルックの回想録によると、ブルックとオリヴィエの関係は必ずしも良好とはいえなかったようだが、「今回は、たまたま私たちは同じ方角に進んでいて、互いを信じて共に歩むことができた。私は彼の驚くべき才能を理解し、賞賛できたのみならず、彼の主役の演じ方によって、当時ほかのどんな俳優も生み出せないような強さとリアリティがプロダクション全体に備わった」という。
ジュリー・テイモアによる映画版は、忌憚なくいって、お薦めできる代物ではない。独創的な映像と評する人もいるが、私には独創的どころか、ケン・ラッセルになり損ねたような作品にしかみえなかった。ただ、『タイタス・アンドロニカス』への様々なアプローチ法をおさえておきたいという人は観ておくべきだろう。
【関連サイト】
『タイタス・アンドロニカス』 封じられた言葉、封じられない言葉
『タイタス・アンドロニカス』(白水社)
The Complete Works of William Shakespeare
日本シェイクスピア協会
「後悔してるよ。もっとやっておけば良かったってな。今でも呪ってるぜ、めざましいほどの悪事をしないで過ごした日のことを」(第五幕第一場)
悲劇の真相を話してやるから、代わりに子供は殺さないと神に誓え、とルーシアスに迫るところも見逃せない。エアロンは言葉の持つ力を信じているのである。そして実際、ルーシアスは神に誓い、そのせいでエアロンの子供に手出しができなくなる。別に、エアロンから真相を聞くだけ聞いて、約束を破ってしまえばいいものを、エアロンの前では誓いの言葉が異様なほど重みを持ってしまうのだ。エアロンはそういう風に口から発せられた言葉、すなわち「パロール」が起こす効果まで見越しているのである。
先に私は「暴力の前では言葉など風の前の塵に同じ」と書いたが、これは言葉の無力を描いた劇というわけではない。むしろ逆である。言葉を封じようとする人々の姿勢は、極度に言葉を恐れる心理から生まれている。言葉が耳に入ることで、人は何かしら影響を受け、心を動かされる。共感できる言葉であれ、できない言葉であれ、いったん心に引っかかってしまえば、言葉のしみは残るものだ。それが怖いのである。だから潔癖症のようになり、共感できない言葉、煩わしい言葉を早めに封じる。ただし、エアロンだけは言葉を操ることを許可され、周囲の人々に黒い影響を及ぼし続けるのだ。これを書いたシェイクスピア自身の意図は知る由もないが、結果として、ほかのどの登場人物よりもエアロンが生き生きしているように見えることは否定しようがない。
エアロンにいい渡される刑も生ぬるい。残虐な死の連鎖がここでぴたりと止まる。
「胸まで土に埋めて、飢えるにまかせ、いくら食べ物を求めて喚こうと放置しておけ」(第五幕第三場)
ルーシアスにこういわれると、エアロンは「心が怒り狂っている時に、口が黙っていられるか」といい放つ。しかし、怒り狂うほどのことだろうか。ひとことも言葉を発する余裕を与えられずに死んでいった登場人物たち(主役のタイタスですら死ぬ間際に何の台詞も与えられていない)に比べ、エアロンに対する扱いはずいぶん丁重である。上半身が地上に出ている以上、エアロンはしゃべり続けることができる。どんなに喚こうが自由なのである。ルーシアスはなぜ暴力によってその口を封じようとしないのか。エアロンは土に埋められただけで本当に絶命するのだろうか。悪魔のようなしぶとさと奸計によって脱走に成功するのではないか。
いろいろと考えさせられる終わり方である。
ただ、忘れてはならないことがひとつある。この悲劇の元凶はエアロンやタモーラではなく、タイタス・アンドロニカスなのだ。タイタス自身もそれを自覚している。その点でも感情移入しにくいところがある。
「ああ、ローマ! そうだ、お前をみじめにしたのはこの俺だ。皇帝推挙の時、俺は民衆の賛同をあの男に投げ渡した。その暴君が俺を苦しめている」(第四幕第三場)
そもそも、タイタスがサターナイナスでなくバシエーナスを皇帝に選んでいれば、こんなことにはならなかった。元を辿れば、ただそれだけの話なのである。
ところで、『タイタス・アンドロニカス』には『ハムレット』に通ずる要素がある。タイタスが狂気を演じるところはハムレットとだぶるし、復讐神に変装してタイタスに調子を合わせるタモーラの滑稽さはポローニアスを思い出させる。ラヴィニアの変わり果てた姿を見て呆然とするマーカスは、発狂したオフィーリアと再会したレアティーズを彷彿させる。
ちなみに、『ハムレット』は1598年から1602年までの間に書かれた作品である。よって、『ハムレット』が『タイタス・アンドロニカス』に何らかの作用を及ぼすことはあり得ない。ただし、『ハムレット』にはベースとなる作品があった。遅くとも1589年までに、『ハムレット』というセネカ風の悲劇が何者かによって書かれていたことがわかっているのだ。この幻の作品は『原ハムレット』と呼ばれている。『原ハムレット』が今日まで未発見である以上、確言はできないが、『タイタス・アンドロニカス』から『ハムレット』と似た匂いを嗅ぎ取るのは難しいことではないと思う。むろん、『原ハムレット』には『タイタス・アンドロニカス』につながるような要素が一つもない、という可能性もある。その場合は、シェイクスピアが『タイタス・アンドロニカス』のアイディアを『ハムレット』に応用した、とみるべきだろう。
私は『タイタス・アンドロニカス』の舞台を一度しか観たことがない。上演される機会が少ないので、なかなか観ることができないのである。せめてすぐれた映像作品が残っていればよいのだが。たとえば、ローレンス・オリヴィエがタイタスを演じ、ヴィヴィアン・リーがラヴィニアを演じた、ピーター・ブルック演出による舞台(1955年)の記録。『タイタス』再評価のきっかけを作った伝説的公演なのに、映像がないのは惜しい。少なくとも日本で目にしたことはない。オリヴィエのタイタス、これ以上のキャスティングはないだろう。ピーター・ブルックの回想録によると、ブルックとオリヴィエの関係は必ずしも良好とはいえなかったようだが、「今回は、たまたま私たちは同じ方角に進んでいて、互いを信じて共に歩むことができた。私は彼の驚くべき才能を理解し、賞賛できたのみならず、彼の主役の演じ方によって、当時ほかのどんな俳優も生み出せないような強さとリアリティがプロダクション全体に備わった」という。
ジュリー・テイモアによる映画版は、忌憚なくいって、お薦めできる代物ではない。独創的な映像と評する人もいるが、私には独創的どころか、ケン・ラッセルになり損ねたような作品にしかみえなかった。ただ、『タイタス・アンドロニカス』への様々なアプローチ法をおさえておきたいという人は観ておくべきだろう。
(阿部十三)
【関連サイト】
『タイタス・アンドロニカス』 封じられた言葉、封じられない言葉
『タイタス・アンドロニカス』(白水社)
The Complete Works of William Shakespeare
日本シェイクスピア協会
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