文化 CULTURE

「私の神様」について 田中さとみの歌声に想う

2013.05.25
 田中さとみは「スター誕生!」出身の九州美人で、一時期「モーニングサラダ」に出演していたアイドルである。リリースしたシングルは、1984年5月の「私の神様」のみ。作詞は岡田冨美子、作曲は網倉一也である。倉橋ルイ子のアルバム『Rolling 〜哀しみのバラード〜』の5曲目のカバーで、正直、地味な選曲としかいいようがない。ただ、これがよく出来た名曲で、私の記憶にも30年近く錨を下ろしている。

 この歌詞の世界観が面白い。何しろ冒頭のフレーズが「私の神様はひねくれていて、私が淋しそうだとご機嫌みたい」なのである。歌詞の主人公は、ややパラノイア気味のようだ。さらに彼女は、好きな人が振り向いてくれない、嫌いな人が追いかけてくる、ロマンティックな恋人を見ると人間やめたくなる、とぼやき、挙げ句の果てに、猫や鳥や花や蝶になりたい、と夢のようなことをいいはじめる。

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 しかし、サビに差しかかると、網倉メロディーが劇的な展開を見せる。「だけど、だけど......さか立ちしたって私は私」と歌いあげるのだ。この「だけど」のフレーズが忘れられない。自分以外の誰かや何かを羨んで、失望の中に沈潜しても仕方ない。自分であることを変えるのは不可能なのだ。とにかく今は、やり切れなさや不満や諦めを踏み越えよう、自分を少し肯定してみよう。ーーそんな意思の表白を感じさせる美しさである。歌詞全体を活字で読むと鬱々としているが、音楽とそれに相応しい歌声を纏うことで、こうも印象が変わるものなのだ。

 この世には100%同じ感性を持つ人間などいない。その人にしか感じられないこと、その人にしか見えないもの、その人にしか聞こえない音、というのが必ずある。それらの体験は、自分の人生だけに贈られたささやかな宝物であり、他人には手に入れられないものなのだ。だから、その感性が流行や思潮にさらされて錆び付くことがないよう磨かなければならない。田中さとみの混じり気のない澄んだ美声は、そういう熱い自己肯定の感情を刺激してくる。

 感性は千差万別だから人は孤独を抱えて生きるしかない、といいたいわけではない。それぞれが異なる引き出しを持つからこそ、感性の一部を共有できた時の喜びはひとしおなのである。そしてお互いの感性を認め合うことで、「和」が生まれる。
 昔から日本で愛されている白楽天の詩に「琴詩酒の友は皆我を抛つ 雪月花の時最も君を憶ふ」というのがあるが、これも感性の在り方をしみじみ感じさせる名文である。この詩について山本健吉は次のように述べている。

「雪月花のときというのは最も美しいとき、最も快適なときと言ってもいいわけで、それを独り占めにするのは忍びがたい。このときにおまえがいてくれて、おまえと二人でこれを楽しむことができればなあ、という気持なんです。だから、この至上の悦楽はだれかほかの人と一緒に味わいたい、という気持があるわけです」
(山本健吉、栗田勇「花鳥風月の世界 その源流について」)

 いくら仲が良くても、信頼関係が築かれていても、自分が素晴らしいと感じるものを、相手も同じように感じてくれるかどうかは分からない。その時のシチュエーションや相手のコンディションにもよるだろうし、うまく共有出来ない可能性もある。ただ、このように「だれかほかの人と一緒に味わいたい」と思うことが尊いのである。

 田中さとみはアイドルとしては薄幸なイメージがあるため、「私の神様」も悲しい曲と思われかねないが、そうではない、ということを強調しておきたい。これは歌詞、メロディー、歌声が三位一体となり、自分は現実世界に合っていないのではないかという違和感の堂々巡りから僅かな一歩を踏み出すドラマを、しっとりと描いた名曲である。ちなみに、倉橋ルイ子のオリジナルには少しロックテイストが入っている。田中さとみの方はソフトな仕上がりだ。聴き比べてみるのも一興だろう。
(阿部十三)


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