文化 CULTURE

高野素十 純正の客観写生

2013.06.15
 高野素十は純写生派の俳人である。『ホトトギス』で活躍していた頃は、いわゆる「四S」の1人として、水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝としのぎを削っていた。ちなみに「四S」という呼称は、1929年に山口青邨が、
「この四人は何と言っても今日俳壇の寵児であり流行児であります。東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」
 といったのを、高濱虚子が「東西の四S」と換言したことに由来している。

 素十は東京帝国大学医学部時代、水原秋桜子と出会い、そのすすめで俳句をはじめたという。『ホトトギス』に投句したのは1923年からで、徐々に頭角をあらわし、写生の才を虚子に認められ、愛弟子となった。虚子は「写生ということ」(1929年)の中で、次のように評している。
「此四君(素十、秋桜子、誓子、青畝)のうちで、純写生派と目すべきものは素十君一人で、他は何れも純写生派ではありません。それも比較的の話で素十君に較べると何れも多少理想派がかった色彩を持って居ます。然し何れも熱心な写生信者であります」

 この時期、『ホトトギス』の内部では対立関係が生まれていた。端的にいえば、主観派と客観派の対立である。前者の代表は秋桜子、後者の代表は素十(というか、師の虚子)。虚子に「熱心な写生信者」といわれた秋桜子だが、実際は「心を養い、主観を通して見たものこそ文芸上の真で、これを尊ぶ者が詩人である」と考えていた。想像力や創作力を重んじる彼には、素十の句は些末な客観写生に終始する「草の芽俳句」でしかなかった。ただ、虚子が一貫して素十を擁護していたこともあり、作風の異なる秋桜子にとって『ホトトギス』は窮屈な場所となっていく。

 素十を評価する際、しばしば自分の句が引き合いに出されるのも、秋桜子には不愉快だったに違いない。中田みづほ、浜口今夜による「秋桜子と素十」(1930年)も明らかに素十を贔屓している。みづほの「秋桜子君はもてはやされることは慣れて居られる故......」といった発言の節々にも、他意を感じざるを得ない。
 結果的に、この「秋桜子と素十」に怒った秋桜子は『ホトトギス』を離れて、『馬酔木』で反『ホトトギス』の立場をとることになる。『馬酔木』に掲載された「『自然の真』と『文芸上の真』」を読むと、主義の問題以上に感情問題なのではないか、と勘ぐりたくなるが、そういう人間臭いところも含めて秋桜子の魅力につながっているのだろう。

 素十自身はというと、誰から評価されようと、誰から批判されようと、不用意な発言をすることなく、自分のやり方で虚子の教えを守り続けた。秋桜子に噛みつかれても表面上は平静を保った。あくまでも自分は俳句を作るのみ、俳句の道はただこれ写生、というスタンスである。

 その作句法はどのようなものだったのか。素十は次のように説明している。
「ところで私の句というものは、外界から或る纏った景色、感じというものが出て来るのを待っているので、この点は秋桜子君のように豊かなる詩情を以て練り上げるのとは違う。従っていい句を作ろうという段になると大へん時間がかかる。手間というより時間がかかる」
 そして、作句の際の心のありようについては、「ある言葉を使うのは使うだけの心の要求がある」と前置きした上で、「私としてはいつも句を作る場合に、先ず自分の心を静かにする正しくするということが一番焦眉の急務であって、その他のことはあまり考えた事がない」と述べている。つまり、心の涵養も必要なのである。秋桜子は、客観写生は単に自然を描くだけで心の涵養を必要としない、というような見方をし、素十の作品を「やってみればなんでもないので、少し俳句的の表現を心得ればすぐにでもできる程度のものである」と断じたが、明らかに不当な批評といえよう。

風吹いて蝶々迅く飛びにけり

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる

おほばこの芽や大小の葉三つ

甘草の芽のとびとびのひとならび

 いずれも賛否両論を巻き起こした句で、素十を論ずる際に必ず引用される。こうした一見平明な言葉の組み合わせは相当の技術を修得した後でなければ生まれてこない。風の音や水滴の具合や草の匂いまでも伝わってきそうな喚起力を備えている。ただ、「たったそれだけのことか」と思わせる面もあり、素十の最高傑作とすることにはやや抵抗を感じなくもない。
 それよりは、次の4句を、自然との間に障壁のない素十の感性と、他の追随を許さぬ着眼点と、磨き抜かれた言語感覚の賜物として賞揚したい。

柊の花一本の香かな

翠黛の時雨いよいよはなやかに

方丈の大庇より春の蝶

芦刈の天を仰いで梳る

 「翠黛の......」は、秋桜子が褒めた句でもある。「古来時雨と云うと私の嫌いな寂びだとか侘びだとか云うものに作者も読者も結びつけたがるのであるが、此句はその俳句初まって以来の趣味を破ったーー穏当に云えば趣味をひろげた句であって甚だ異色のあるものと云いたい」という評価の仕方は、いかにも秋桜子らしい。
 「芦刈の......」については、山本健吉が「素十の成功した句は他の誰よりも俳句という文学ジャンルの固有の方法をつかんでおり、いわば俳句そのものと言うべきであって、現代俳句の大高峰をなしている」と評しているが、たしかに仰ぎ見たくなるような句である。「梳る」にもうならされる。

 すぐれた俳人はすぐれた鑑賞者でもある。五・七・五の中に広がる世界を深読み出来ない人は、そもそも俳句に向いていない。虚子は、「解釈上の苦心が足りないというのは、作者の苦心を酌み取る同情の足りないのをいうのである」と明言しているが、俳句の鑑賞とは、作者の姿勢だけでなく、鑑賞者の姿勢を問うことも含んでいるのだ。
 それでは秋桜子はどうだったかというと、おそらく、彼は素十の人間性や作風を最も知悉していた同人の一人だったのではないか。しかし自分と同等の存在として認めることは出来なかった。それでも動向が気になって仕方ない。そんな複雑な心理が、秋桜子による素十評に見え隠れしているように私には思える。

 虚子の愛弟子として客観写生の道を歩んだ素十だったが、最晩年(1976年)にはこのような句も詠んでいる。

わが星のいづくにあるや天の川

 およそ写生の鬼らしからぬ句である。山本健吉や森澄雄も、「主観的」とか「抒情派になってしまっている」と否定的な受け止め方をしている。
 かくいう私はこの句から素十の世界に足を踏み入れた。これは虚子の「われの星燃えてをるなり星月夜」を念頭に置いた一種の辞世の句であり、自分の中に溜めていた熱い感情を濾過せず、こぼれ出るままにした記録である。この句を以て自分の才能を認めてくれた虚子に最後まで殉じた、ともいえるだろう。

 晩年の素十は感情表現に傾斜しがちで、友人の死や自身の病気の影響により、それまで堰き止めていたものが流れ出たかのようである。倉田紘文氏が『高野素十研究』(1979年)で指摘しているように、「悲し」、「惜し」、「さびし」、「なつかし」といった言葉も増えている。それまで「先ず自分の心を静かにする正しくするということが一番焦眉の急務」と考えて、巧まざる一閃の写生句をものしていた孤高の人が、そうやって竟に真情をあらわにする時の言葉の選択の余地のなさ。その心境がひしひしと伝わってきて切なくなる。

 俳句は短い言葉の組み合わせにすぎないが、取り上げるテーマや選択される言葉によって、作者の才能、心理、人間性、主張、見解、趣味がどうしても見えて来る。主観的な句であれ、客観的な句であれ、そこは同じである。その言葉に織り込まれたものを読み取るのが、俳句の醍醐味である。そして、言葉を感受する力を解き放つ機会でもある。私には作句の心得はないし、模範的な鑑賞者でもないが、素十の俳句を目にしていると、五感が醒めるような心地になる。と同時に、言葉に対する意識も引き締まるような思いがするのである。
(阿部十三)


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