竹内仁論 その人生と批評と死
2013.09.07
竹内仁の生涯
竹内仁(たけのうちまさし)は、1898年8月8日、松山に生まれた。評論家の片上伸は14歳上の兄である。1905年5月、6歳の時に母を亡くし、北海道の根室に移住。その後上京して片上家に住み、早稲田中学校を卒業。1916年、仙台の第二高等学校に入学し、竹内家の養子となる。当時から頭脳明晰で知られていた。
1919年、東京帝国大学法学部政治学科に入学(※)。演説会用にニーチェを題材にした「ディオニソスかアポロか」の原稿をまとめた後、ボルシェヴィズムの研究に没頭し、喀血。療養後、文学部倫理学科に転科する。1921年、『地上の子』に掲載された論文「ギュヨオとニイチェ」が周囲で好評を博す。片上伸の紹介で、1922年2月号の『我等』に「リツプスの人格主義に就て ー阿部次郎氏のそれを批評する前にー」が掲載、同月号の『新潮』に「阿部次郎氏の人格主義を難ず」が掲載される。これにより気鋭の若手評論家として脚光を浴びた竹内は、「竹内仁氏に答ふ」(『改造』1922年3月号)で反論してきた阿部次郎に対して、「再び阿部次郎氏に」(『新潮』1922年4月号)で再攻撃、さらに知名度を上げた。
彗星のように論壇に現れた竹内仁のことを難ずる向きもあったが、学内では将来を嘱望される存在だった。その後、竹内はヨセフ・ディーツゲンを経て、新実在論にも接近し、最終的にはフィヒテを卒論のテーマにしようと考えていた。しかし、1922年11月10日、彼の人生は衝撃的な幕切れを迎える。許婚の両親を殺害し、自らも縊死を遂げたのである。
なぜこういう形で人生を終わらせたのか。遺書によると、許婚の両親に絶縁宣言されたことが直接の原因のようである。この事件は、最高学府の現役学生であり、年のはじめに『新潮』で華々しく世に出たばかりの評論家でもある24歳の若きインテリが起こした前代未聞の惨劇として大きく報じられた。秋田雨雀(加害者とも被害者とも知り合いだった)の戯曲『手投弾』、臼井吉見の小説『安曇野』でも、この悲劇が取り上げられている。
竹内仁に惹かれた評論家に、大宅壮一、平野謙、小田切秀雄といった人たちがいる。しかし、現在では、竹内仁の名前はほとんど忘れ去られている。いってしまえば失恋して凶行に及んだ犯罪者なのだ。一顧の価値もない存在とみられても仕方ない。竹内自身、親友の留岡清男に宛てた遺書(11月9日朝執筆)でこのような心情を吐露している。
「なまじい僕が近頃コンミュニストとして、ちつとばかり世間の一部に名前など知られかけてゐたので、僕の凶行と主義とが結びつけて考へられさうだ。これは全く主義のために、すまないことだ。僕は主義者の面汚しだ。親兄弟にかける迷惑を思ふと恐ろしい。それを思つて、何とかして生きて行かうと今まで一と月の間努めて来たが、もうどうしてもダメだ。君を始め友人たちにも迷惑をかけることと思ふ」
ここまで自覚していながら、「僕の心を根こそぎ裏切つた者を安閑として生かして、生きてゐる譯に行かない」と書いて、翌日殺人を犯したのである。
平野謙は『さまざまな青春』で、「その激情的な心臓と阿部次郎批判にみられるような緻密な頭脳とは、ひとつの人間像として、どうしても私の頭のなかでうまく重なりあわなかった」と感想を述べ、竹内仁私論を綴ったが、考えがまとまらないまま擱筆している。
竹内仁の仕事
その「緻密な頭脳」を持つ評論家、竹内仁の仕事とは何だったのか。端的にいえば、日本でいち早くボルシェヴィズムを研究した上で、プロレタリア側に立ち、阿部次郎の人格主義にひそむ階級意識を浮き彫りにし、「ブールジョアジーに現状維持の口實を與へるもの」とみなして、実践的に無価値だと論難したところにある。攻撃のポイントはいくつかあるが、代表的なものを挙げておく。
阿部次郎は、生存、保険、教養の三権は「外部的階級的特權」によって得られるべきものではなく、有能なる人間が他人に先んじて享受すべきであるとした。一方で、その実践については、「資本家に對する憎惡の氾濫による勞働運動に加擔することが出來ない」と表明し、「人格主義の使命は差當り直接に新世界の下ならしに參加するところにあるのではなくて、血腥き階級鬪争の戦場に於いては赤十字」となるべしとする。それに対して、竹内はこう反駁した。
「現在この三權を享受してゐる特權者の中に、自ら無能者又は低能者と自覺して進んで有能者に三權を讓る様な謙遜な心の持主を見出すことは恐くは至難である。然らば有能者は暴力を以てこれを特權者から強奪すべきであるか。これも亦多分阿部氏の人格主義の潔癖の許さざる所である。然らば阿部氏の主張せられる高尚にして而も空虚なる標準は畢竟實践的に無價値ではないか。加之、己れを有能者と自負するブールジョアがこの高尚なる標準の名に於て現在の特權維持を主張することになれば、人格主義はこれに對して道徳的責任を負ふ必要はないのであるか」
阿部次郎は「人生批評の原理としての人格主義的見地」の中で、「私達の社會問題は、衣食住の奴隷の間に行はれる贅澤權爭奪の問題ーーこの餓鬼道の問題であるべきではない」と諭し、『北郊雜記』では、「絶對に必要なのは愛と公正との精神である」と説き、実力行使を否定し、階級闘争に難色を示す。しかし、竹内にしてみれば、贅沢権がブルジョア側にある限り、こうした物言いはプロレタリア側に自制を促す役割しか果たさない、と受け取れたのである。
「愛と公正との精神の必要であることは今あらためて言ふまでもない。現代にとつて特に必要なのは、この精神の高唱ではなくして萬人がこれを實行し得るための經濟的條件を先づ確保することである。この條件を確保すべき一つの制度を創造することである」
だから、その「制度創造」のために「第一線に立つて勇敢に」戦う人々を「横目で睨む様なこと」をしている人格主義に、竹内は共鳴し得ないのだ。さらに彼は、阿部次郎が『北郊雜記』で、ソクラテスとルターの名前を引き合いに出して自分の態度を正当化していることも見逃さず、「ソクラテスとルーテルとの態度がいかに立派であつたにしたところで、それは、阿部氏の態度の正當であることを直ちに證據立てるものとはならない」とし、その言辞を「卑怯にして狡獪なる論客の好んで用うる似而非推理」と一蹴する。
同じく『北郊雜記』で、「富と享樂の權利とは奪還して自己の神となすべき或物であるといふ物質的社會主義」という表現を用いたことも、読者に「社会主義=悪」のイメージを植えつける印象操作として非難する。
「......私は寡聞にして未だそんな主義を何處で誰が唱へ出したのか知らない。思ふに、これも亦阿部氏が自分の頭の中で獨創的に案出せられた假想敵に過ぎないのではないだらうか。若しさうとすれば、かういふ口吻を漏らすことは、間接に社會主義者を讀者に誣(し)ふる卑怯な態度と言はなければならない」
そして、阿部を「激烈な強迫觀念症的獨創癖を多分に有する」と診断し、「的無き空に矢を放つ者は、その矢がやがて己れの頭上に歸り來ることを知らぬ者である」と皮肉り、阿部次郎流の人格主義的態度を批判している。
もともと、竹内は阿部次郎の『三太郎の日記』(1914年)の愛読者であったが、1921年1月号の『中央公論』に掲載された「人生批評の原理〜」以降の阿部の主張に幻滅し、「阿部氏獨得の明快なる論理と豐富なる語彙と洗練せられたる文章」を排撃することを目論んだ。両者が考える「目的」はともかく、「手段」が違いすぎたのである。
竹内の批判方法は、論理的に攻撃する以上に、心理的間隙を突くものである。相手の意識や無意識を見透かすように、レトリックを切り裂き、塩を塗り込むのだ。阿部次郎が師と仰ぐテオドール・リップスを研究した上で、阿部の人格や心理を己の掌中におさめながら周到に攻撃した、といっても過言ではない。そこには、相手の主張を内側から腐らせていくような怖さがある。
とはいえ、竹内はあくまでも阿部次郎の人格主義を批評したのであって、「現代にとつて特に必要」とされる制度を具体的な形で創造してみせたわけではない。理想とする社会がどのようなものなのか、その社会でプロレタリアはどうあるべきなのか、細部にわたりシミュレーションして論じたわけでもない。とにかく彼が優先したのは、まず壊すこと。現状打破の力となり得ないにもかかわらず読者を懐柔しかねない思想を批判的に検証し、葬ることだったのである。
もうひとつ注目しておきたいのは、「再び阿部次郎氏に」が掲載された同じ誌上(『新潮』1922年4月号)に、早稲田出身の細田民樹の「プロレタリヤ文學宣傳者に」が載っていることである。ここで細田は、「實行を閑却した論理」の代表として阿部次郎の人格主義を挙げ、「今のままでは白い手のプロレタリヤ意識者も、大方この學者に似たことを言はねばならないであらう」と述べている。まるで阿部次郎批判キャンペーンである。
細田の論旨は、いわば経験偏重型。プロレタリアのことを愛し、理解するにはプロレタリアと同じ経験をする必要があると考えている。
「プロレタリヤ文學宣傳者が、眞にプロレタリヤの爲に、プロレタリヤの世界出現の爲に、引いてはそれに對する合理的な自己完成の爲に、プロレタリヤを熱愛するなれば彼等は是非とも、筋肉勞働に從事しなければならないであらう。筋肉勞働そのものが絶對なのではない、それが唯一の主眼ではない。筋肉勞働することに依つて、これらの宣傳者自身が、始めてプロレタリヤに對する深い愛を知るのである。行ふのである。その世界に自分の身を挺することに依つて、血に繋がる同胞を愛することが出來るのである」
この時、もし細田と竹内の間で議論が行われていたら、両者は意見の一致をみることが出来ただろうか。お互いのインテリ性や苦労体験を突き合う形で終わったのではないか。こうした仮定は無意味かもしれないが、それでも興味は尽きないのである。
※1920年(大正9年)に東京帝国大学に入学したとする資料もあるが、それは誤り。
【関連サイト】
竹内仁論 その人生と批評と死 [続き]
竹内仁(たけのうちまさし)は、1898年8月8日、松山に生まれた。評論家の片上伸は14歳上の兄である。1905年5月、6歳の時に母を亡くし、北海道の根室に移住。その後上京して片上家に住み、早稲田中学校を卒業。1916年、仙台の第二高等学校に入学し、竹内家の養子となる。当時から頭脳明晰で知られていた。
1919年、東京帝国大学法学部政治学科に入学(※)。演説会用にニーチェを題材にした「ディオニソスかアポロか」の原稿をまとめた後、ボルシェヴィズムの研究に没頭し、喀血。療養後、文学部倫理学科に転科する。1921年、『地上の子』に掲載された論文「ギュヨオとニイチェ」が周囲で好評を博す。片上伸の紹介で、1922年2月号の『我等』に「リツプスの人格主義に就て ー阿部次郎氏のそれを批評する前にー」が掲載、同月号の『新潮』に「阿部次郎氏の人格主義を難ず」が掲載される。これにより気鋭の若手評論家として脚光を浴びた竹内は、「竹内仁氏に答ふ」(『改造』1922年3月号)で反論してきた阿部次郎に対して、「再び阿部次郎氏に」(『新潮』1922年4月号)で再攻撃、さらに知名度を上げた。
彗星のように論壇に現れた竹内仁のことを難ずる向きもあったが、学内では将来を嘱望される存在だった。その後、竹内はヨセフ・ディーツゲンを経て、新実在論にも接近し、最終的にはフィヒテを卒論のテーマにしようと考えていた。しかし、1922年11月10日、彼の人生は衝撃的な幕切れを迎える。許婚の両親を殺害し、自らも縊死を遂げたのである。
なぜこういう形で人生を終わらせたのか。遺書によると、許婚の両親に絶縁宣言されたことが直接の原因のようである。この事件は、最高学府の現役学生であり、年のはじめに『新潮』で華々しく世に出たばかりの評論家でもある24歳の若きインテリが起こした前代未聞の惨劇として大きく報じられた。秋田雨雀(加害者とも被害者とも知り合いだった)の戯曲『手投弾』、臼井吉見の小説『安曇野』でも、この悲劇が取り上げられている。
竹内仁に惹かれた評論家に、大宅壮一、平野謙、小田切秀雄といった人たちがいる。しかし、現在では、竹内仁の名前はほとんど忘れ去られている。いってしまえば失恋して凶行に及んだ犯罪者なのだ。一顧の価値もない存在とみられても仕方ない。竹内自身、親友の留岡清男に宛てた遺書(11月9日朝執筆)でこのような心情を吐露している。
「なまじい僕が近頃コンミュニストとして、ちつとばかり世間の一部に名前など知られかけてゐたので、僕の凶行と主義とが結びつけて考へられさうだ。これは全く主義のために、すまないことだ。僕は主義者の面汚しだ。親兄弟にかける迷惑を思ふと恐ろしい。それを思つて、何とかして生きて行かうと今まで一と月の間努めて来たが、もうどうしてもダメだ。君を始め友人たちにも迷惑をかけることと思ふ」
(「遺書」)
ここまで自覚していながら、「僕の心を根こそぎ裏切つた者を安閑として生かして、生きてゐる譯に行かない」と書いて、翌日殺人を犯したのである。
平野謙は『さまざまな青春』で、「その激情的な心臓と阿部次郎批判にみられるような緻密な頭脳とは、ひとつの人間像として、どうしても私の頭のなかでうまく重なりあわなかった」と感想を述べ、竹内仁私論を綴ったが、考えがまとまらないまま擱筆している。
竹内仁の仕事
その「緻密な頭脳」を持つ評論家、竹内仁の仕事とは何だったのか。端的にいえば、日本でいち早くボルシェヴィズムを研究した上で、プロレタリア側に立ち、阿部次郎の人格主義にひそむ階級意識を浮き彫りにし、「ブールジョアジーに現状維持の口實を與へるもの」とみなして、実践的に無価値だと論難したところにある。攻撃のポイントはいくつかあるが、代表的なものを挙げておく。
阿部次郎は、生存、保険、教養の三権は「外部的階級的特權」によって得られるべきものではなく、有能なる人間が他人に先んじて享受すべきであるとした。一方で、その実践については、「資本家に對する憎惡の氾濫による勞働運動に加擔することが出來ない」と表明し、「人格主義の使命は差當り直接に新世界の下ならしに參加するところにあるのではなくて、血腥き階級鬪争の戦場に於いては赤十字」となるべしとする。それに対して、竹内はこう反駁した。
「現在この三權を享受してゐる特權者の中に、自ら無能者又は低能者と自覺して進んで有能者に三權を讓る様な謙遜な心の持主を見出すことは恐くは至難である。然らば有能者は暴力を以てこれを特權者から強奪すべきであるか。これも亦多分阿部氏の人格主義の潔癖の許さざる所である。然らば阿部氏の主張せられる高尚にして而も空虚なる標準は畢竟實践的に無價値ではないか。加之、己れを有能者と自負するブールジョアがこの高尚なる標準の名に於て現在の特權維持を主張することになれば、人格主義はこれに對して道徳的責任を負ふ必要はないのであるか」
(「阿部次郎氏の人格主義を難ず」)
阿部次郎は「人生批評の原理としての人格主義的見地」の中で、「私達の社會問題は、衣食住の奴隷の間に行はれる贅澤權爭奪の問題ーーこの餓鬼道の問題であるべきではない」と諭し、『北郊雜記』では、「絶對に必要なのは愛と公正との精神である」と説き、実力行使を否定し、階級闘争に難色を示す。しかし、竹内にしてみれば、贅沢権がブルジョア側にある限り、こうした物言いはプロレタリア側に自制を促す役割しか果たさない、と受け取れたのである。
「愛と公正との精神の必要であることは今あらためて言ふまでもない。現代にとつて特に必要なのは、この精神の高唱ではなくして萬人がこれを實行し得るための經濟的條件を先づ確保することである。この條件を確保すべき一つの制度を創造することである」
(「再び阿部次郎氏に」)
だから、その「制度創造」のために「第一線に立つて勇敢に」戦う人々を「横目で睨む様なこと」をしている人格主義に、竹内は共鳴し得ないのだ。さらに彼は、阿部次郎が『北郊雜記』で、ソクラテスとルターの名前を引き合いに出して自分の態度を正当化していることも見逃さず、「ソクラテスとルーテルとの態度がいかに立派であつたにしたところで、それは、阿部氏の態度の正當であることを直ちに證據立てるものとはならない」とし、その言辞を「卑怯にして狡獪なる論客の好んで用うる似而非推理」と一蹴する。
同じく『北郊雜記』で、「富と享樂の權利とは奪還して自己の神となすべき或物であるといふ物質的社會主義」という表現を用いたことも、読者に「社会主義=悪」のイメージを植えつける印象操作として非難する。
「......私は寡聞にして未だそんな主義を何處で誰が唱へ出したのか知らない。思ふに、これも亦阿部氏が自分の頭の中で獨創的に案出せられた假想敵に過ぎないのではないだらうか。若しさうとすれば、かういふ口吻を漏らすことは、間接に社會主義者を讀者に誣(し)ふる卑怯な態度と言はなければならない」
(「阿部次郎氏の人格主義を難ず」)
そして、阿部を「激烈な強迫觀念症的獨創癖を多分に有する」と診断し、「的無き空に矢を放つ者は、その矢がやがて己れの頭上に歸り來ることを知らぬ者である」と皮肉り、阿部次郎流の人格主義的態度を批判している。
もともと、竹内は阿部次郎の『三太郎の日記』(1914年)の愛読者であったが、1921年1月号の『中央公論』に掲載された「人生批評の原理〜」以降の阿部の主張に幻滅し、「阿部氏獨得の明快なる論理と豐富なる語彙と洗練せられたる文章」を排撃することを目論んだ。両者が考える「目的」はともかく、「手段」が違いすぎたのである。
竹内の批判方法は、論理的に攻撃する以上に、心理的間隙を突くものである。相手の意識や無意識を見透かすように、レトリックを切り裂き、塩を塗り込むのだ。阿部次郎が師と仰ぐテオドール・リップスを研究した上で、阿部の人格や心理を己の掌中におさめながら周到に攻撃した、といっても過言ではない。そこには、相手の主張を内側から腐らせていくような怖さがある。
とはいえ、竹内はあくまでも阿部次郎の人格主義を批評したのであって、「現代にとつて特に必要」とされる制度を具体的な形で創造してみせたわけではない。理想とする社会がどのようなものなのか、その社会でプロレタリアはどうあるべきなのか、細部にわたりシミュレーションして論じたわけでもない。とにかく彼が優先したのは、まず壊すこと。現状打破の力となり得ないにもかかわらず読者を懐柔しかねない思想を批判的に検証し、葬ることだったのである。
もうひとつ注目しておきたいのは、「再び阿部次郎氏に」が掲載された同じ誌上(『新潮』1922年4月号)に、早稲田出身の細田民樹の「プロレタリヤ文學宣傳者に」が載っていることである。ここで細田は、「實行を閑却した論理」の代表として阿部次郎の人格主義を挙げ、「今のままでは白い手のプロレタリヤ意識者も、大方この學者に似たことを言はねばならないであらう」と述べている。まるで阿部次郎批判キャンペーンである。
細田の論旨は、いわば経験偏重型。プロレタリアのことを愛し、理解するにはプロレタリアと同じ経験をする必要があると考えている。
「プロレタリヤ文學宣傳者が、眞にプロレタリヤの爲に、プロレタリヤの世界出現の爲に、引いてはそれに對する合理的な自己完成の爲に、プロレタリヤを熱愛するなれば彼等は是非とも、筋肉勞働に從事しなければならないであらう。筋肉勞働そのものが絶對なのではない、それが唯一の主眼ではない。筋肉勞働することに依つて、これらの宣傳者自身が、始めてプロレタリヤに對する深い愛を知るのである。行ふのである。その世界に自分の身を挺することに依つて、血に繋がる同胞を愛することが出來るのである」
(「プロレタリヤ文學宣傳者に」)
この時、もし細田と竹内の間で議論が行われていたら、両者は意見の一致をみることが出来ただろうか。お互いのインテリ性や苦労体験を突き合う形で終わったのではないか。こうした仮定は無意味かもしれないが、それでも興味は尽きないのである。
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