モダンガールは今日も微笑む 龍膽寺雄再考・中篇
2011.04.02
再評価の動きが出始めたのは1970年代のことである。川端康成の死(1972年4月16日)から1年ほど経った1973年3月、中央大学の古俣裕介氏が論文「龍膽寺雄ノート」を発表。その辺りから見直しが進み、1980年代半ばには昭和書院から全集が出た(全集といっても完全なものではなく、いわゆる〈カストリ雑誌〉に書いたものは収録されていない)。
この全集の月報で、若き村上春樹がこんなことを書いている。彼は川本三郎の勧めで龍膽寺を読み始めたらしい。
僕が好きなのは「アパアトの女たちと僕と」で、これはやはり何度も読み返されるだけの価値のある作品だと思う。主人公の僕が「とある仏具商の飾窓の、支那出来らしい紫檀の仏龕」に見入っているファースト・シーンから、フォークの先で不揃いに切られたこんにゃくを転がしているラスト・シーンまでいささかの無駄もない見事な短編である。文章の切り口も瑞々しいし、リズムもあるし、何よりも視線が良い。
月報では、ほかに佐藤春夫に師事していた井伏鱒二が、師が絶賛する龍膽寺の才能を羨望の目で見ていた頃の思い出を綴っている。また、吉行淳之介は、〈新興芸術派〉の作品群は読めたものではなかったが龍膽寺の小説だけはしっかりと読んだ、と書いている。
消費社会を背景に書かれた田中康夫の「なんとなく、クリスタル」(1980年)に龍膽寺の作風と同じにおいを感じると言う人もいたが、そういう時代の流れのようなものも、もしかすると龍膽寺再評価の動きに結びついたのかもしれない。
状況は変わりつつあった。これでテレビ番組に取り上げられ、文芸誌で大特集でも組まれれば、大きな流れを作ることも出来ただろう。が、残念ながらそういう展開にはならなかった。ノーベル賞まで獲って日本を代表する作家になった川端康成の恥部をこのアウトサイダーに好き放題さらされたらかなわない、と疎んじられたのだろうか。
今、書店で普通に売られている書籍で龍膽寺作品が読めるのは、講談社文芸文庫だけである。収録されているのは「放浪時代」「アパアトの女たちと僕と」「M・子への遺書」の3編。これが出た時(1996年)は喜んだものだが、結局文庫本一冊どまりで先へつながらず、せっかく興味を抱いた人も全集を古本屋で買わない限り、「魔子」も、「珠壷」も、戦後の「不死鳥」も読めない、という状況が続いている。文学研究の領域でも、21世紀に入ってからは注目すべき論文が発表されていないように見受けられる。
龍膽寺の評価が定まらないのは、戦後の小説をどう扱えばいいか分からないからだ、と聞いたことがある。「M・子への遺書」の後はパッとせず、戦後はエロ小説家に身を堕し、作品の質は劣化した、というのが定説だったのである。しかし、これは偏見である。少なくとも「不死鳥」(1951年)、「美人館異聞」(1951年)、「妻と別れる」(1952年)を読む限り、質の劣化や筆力の衰えは感じられない。今回は良い機会なので、滅多に顧みられることのないこの3作の概要を解説しておきたい。
まず「美人館異聞」は、ものすごい美人ばかりが住んでいる銀座の〈あけぼの荘〉なる館で、東京へ出張に来た若いサラリーマンが偶然の運びで夢のような一夜を過ごす、という話。戦後こういう場所が実際にあったかどうか分からないが、享楽主義的な内容に見せかけて、危険な世界に生きる日陰の女たちの悲哀もそれとなく匂わせる、なかなか読み応えのある作品だ。
「不死鳥」の設定はユニークである。隅田川に面して建っている計画出産相談所、御楯性科学研究所の所長、御楯氏は常々こう考えている。
人間のあらゆる生理の年齢による萎縮は、無為と無刺激からまずはじまり、興奮のない弛緩と灰色の中で睡ってしまって、そのマンネリズムに反省をなくしてしまうことにある。
そして36歳の貞淑な妻、美穂子の美しさを保つため、20歳そこそこの性欲旺盛なチンピラ青年、真琴を相手に、半ば無理やり浮気させる。これは生理実験である。
自身の花粉だけでは決して受精しないのに、他の花粉が柱頭につくと、それに刺激されて、受精能力が高まり、あるはずのない自家受精が行われる。
人間も植物と同じだと考える御楯氏は、「異種の液交換によるホルモンの刺激」で人間の生理も変わるはず、というのだ。しかし美穂子がどんどん真琴とのセックスにのめり込んでゆくにつれ、御楯氏は「喪家の犬に似たわびしさ」を覚えるようになる。そしてついに妻に別れ話を切り出す。作中には「Sperma」「Penis」「Clitoris」「Onanie」といったきわどい言葉が出てくるが、医学的な要素を盛り込むことによって、いやらしい感じを与えないようにしている。
「妻と別れる」は「不死鳥」の応用で、若い男と浮気している妻と、それを放っておいた夫の心理劇である。この設定に精神病の娘を配置することで、物語に思わぬ奥行きが生まれている。病院内の描写も秀抜だ。この作品はかつての根城だった『新潮』に掲載されたもので、それだけ力を込めて書かれたことがはっきりと分かる。その自信のあらわれだろうか、「この一編を川端康成氏並に林髞氏に贈る」とある。林髞とは、推理作家であり医学博士でもあった木々高太郎のこと。龍膽寺にとっては慶応大学医学部の先輩にあたる。川端康成の名前を出したのはなぜだろう。「俺はまだここまで書けるのだ」と言いたかったのだろうか。
夫、妻、妻の愛人という三角関係。妻の浮気に干渉しない夫。このパターンは81歳の頃(1982年頃)に書かれた未発表の長編「猫」でも踏襲されている。この三角関係に、かつて彼が描き続けた無邪気なモダンガールを彷彿させる少女、悠子が絡んでくる。
主人公は大人の女に興味がない教授。奥さんは甥と浮気中だ。ある日、教授はひょんなことで知り合った娘に惹かれ、義理の父親に性的な悪戯をされている彼女を不憫に思い、自分の家に引き取ることにする。が、結局自分でも悪戯をしてしまう。
老人の少女愛を臆面もなくさらけだしたような作品だが、筆力はしっかりしている。とくに褒める気もないが、80歳を超えてもここまで書ける作家に対して、身を堕したとか、質が劣化したとか、ろくに読んでもいないのにそうやって簡単に片付けようとするのは横暴すぎる。そんな偏見に満ちた評価だけが当然のように受け継がれているのは、残念としか言いようがない。
【関連サイト】
モダンガールは今日も微笑む 龍膽寺雄再考・後篇
この全集の月報で、若き村上春樹がこんなことを書いている。彼は川本三郎の勧めで龍膽寺を読み始めたらしい。
僕が好きなのは「アパアトの女たちと僕と」で、これはやはり何度も読み返されるだけの価値のある作品だと思う。主人公の僕が「とある仏具商の飾窓の、支那出来らしい紫檀の仏龕」に見入っているファースト・シーンから、フォークの先で不揃いに切られたこんにゃくを転がしているラスト・シーンまでいささかの無駄もない見事な短編である。文章の切り口も瑞々しいし、リズムもあるし、何よりも視線が良い。
(村上春樹「『龍膽寺雄作品』を読んで」)
月報では、ほかに佐藤春夫に師事していた井伏鱒二が、師が絶賛する龍膽寺の才能を羨望の目で見ていた頃の思い出を綴っている。また、吉行淳之介は、〈新興芸術派〉の作品群は読めたものではなかったが龍膽寺の小説だけはしっかりと読んだ、と書いている。
消費社会を背景に書かれた田中康夫の「なんとなく、クリスタル」(1980年)に龍膽寺の作風と同じにおいを感じると言う人もいたが、そういう時代の流れのようなものも、もしかすると龍膽寺再評価の動きに結びついたのかもしれない。
状況は変わりつつあった。これでテレビ番組に取り上げられ、文芸誌で大特集でも組まれれば、大きな流れを作ることも出来ただろう。が、残念ながらそういう展開にはならなかった。ノーベル賞まで獲って日本を代表する作家になった川端康成の恥部をこのアウトサイダーに好き放題さらされたらかなわない、と疎んじられたのだろうか。
今、書店で普通に売られている書籍で龍膽寺作品が読めるのは、講談社文芸文庫だけである。収録されているのは「放浪時代」「アパアトの女たちと僕と」「M・子への遺書」の3編。これが出た時(1996年)は喜んだものだが、結局文庫本一冊どまりで先へつながらず、せっかく興味を抱いた人も全集を古本屋で買わない限り、「魔子」も、「珠壷」も、戦後の「不死鳥」も読めない、という状況が続いている。文学研究の領域でも、21世紀に入ってからは注目すべき論文が発表されていないように見受けられる。
龍膽寺の評価が定まらないのは、戦後の小説をどう扱えばいいか分からないからだ、と聞いたことがある。「M・子への遺書」の後はパッとせず、戦後はエロ小説家に身を堕し、作品の質は劣化した、というのが定説だったのである。しかし、これは偏見である。少なくとも「不死鳥」(1951年)、「美人館異聞」(1951年)、「妻と別れる」(1952年)を読む限り、質の劣化や筆力の衰えは感じられない。今回は良い機会なので、滅多に顧みられることのないこの3作の概要を解説しておきたい。
まず「美人館異聞」は、ものすごい美人ばかりが住んでいる銀座の〈あけぼの荘〉なる館で、東京へ出張に来た若いサラリーマンが偶然の運びで夢のような一夜を過ごす、という話。戦後こういう場所が実際にあったかどうか分からないが、享楽主義的な内容に見せかけて、危険な世界に生きる日陰の女たちの悲哀もそれとなく匂わせる、なかなか読み応えのある作品だ。
「不死鳥」の設定はユニークである。隅田川に面して建っている計画出産相談所、御楯性科学研究所の所長、御楯氏は常々こう考えている。
人間のあらゆる生理の年齢による萎縮は、無為と無刺激からまずはじまり、興奮のない弛緩と灰色の中で睡ってしまって、そのマンネリズムに反省をなくしてしまうことにある。
(『不死鳥』)
そして36歳の貞淑な妻、美穂子の美しさを保つため、20歳そこそこの性欲旺盛なチンピラ青年、真琴を相手に、半ば無理やり浮気させる。これは生理実験である。
自身の花粉だけでは決して受精しないのに、他の花粉が柱頭につくと、それに刺激されて、受精能力が高まり、あるはずのない自家受精が行われる。
(『不死鳥』)
人間も植物と同じだと考える御楯氏は、「異種の液交換によるホルモンの刺激」で人間の生理も変わるはず、というのだ。しかし美穂子がどんどん真琴とのセックスにのめり込んでゆくにつれ、御楯氏は「喪家の犬に似たわびしさ」を覚えるようになる。そしてついに妻に別れ話を切り出す。作中には「Sperma」「Penis」「Clitoris」「Onanie」といったきわどい言葉が出てくるが、医学的な要素を盛り込むことによって、いやらしい感じを与えないようにしている。
「妻と別れる」は「不死鳥」の応用で、若い男と浮気している妻と、それを放っておいた夫の心理劇である。この設定に精神病の娘を配置することで、物語に思わぬ奥行きが生まれている。病院内の描写も秀抜だ。この作品はかつての根城だった『新潮』に掲載されたもので、それだけ力を込めて書かれたことがはっきりと分かる。その自信のあらわれだろうか、「この一編を川端康成氏並に林髞氏に贈る」とある。林髞とは、推理作家であり医学博士でもあった木々高太郎のこと。龍膽寺にとっては慶応大学医学部の先輩にあたる。川端康成の名前を出したのはなぜだろう。「俺はまだここまで書けるのだ」と言いたかったのだろうか。
夫、妻、妻の愛人という三角関係。妻の浮気に干渉しない夫。このパターンは81歳の頃(1982年頃)に書かれた未発表の長編「猫」でも踏襲されている。この三角関係に、かつて彼が描き続けた無邪気なモダンガールを彷彿させる少女、悠子が絡んでくる。
主人公は大人の女に興味がない教授。奥さんは甥と浮気中だ。ある日、教授はひょんなことで知り合った娘に惹かれ、義理の父親に性的な悪戯をされている彼女を不憫に思い、自分の家に引き取ることにする。が、結局自分でも悪戯をしてしまう。
老人の少女愛を臆面もなくさらけだしたような作品だが、筆力はしっかりしている。とくに褒める気もないが、80歳を超えてもここまで書ける作家に対して、身を堕したとか、質が劣化したとか、ろくに読んでもいないのにそうやって簡単に片付けようとするのは横暴すぎる。そんな偏見に満ちた評価だけが当然のように受け継がれているのは、残念としか言いようがない。
続く
(阿部十三)
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