竹内仁論 その人生と批評と死 [続き]
2013.09.14
竹内仁の立場
竹内は「リツプスの人格主義に就て ー阿部次郎氏のそれを批評する前にー」の中で、テオドール・リップスが理想とした人格の条件について次のようにまとめている。
まず第一に、「それ(人格)を構成する一々の内容(内面的性質)が悉く強烈を極めたもの」であること。
「弱小なる内容を有して秩序整然たるを得る『虫も殺さぬ善人』よりも、高き動機と低き動機とがともに強烈を極めて、激甚なる角逐の果て、遂に後者が前者を血みどろになりつつ征服する悲劇的罪人の方に遥かに多くの人間らしさと道徳的偉大とを認める點に於て、彼(テオドール・リップス)は、ギュヨオとニイチェとの意味に於ける『力』の讃美者である」
第二に、強烈を極めながらも、内面的統一を保っていて自由であること。第三に、正しい意思決定を行うために「人生に起こり得るあらゆる場合のあらゆる動機の體驗を嘗め盡」していること。この三点ーー第一の「強烈」、第二の「自由」、第三の「豊富」ーーにおいて「完全なるものでなければならない」という。その観点に立って、阿部次郎の人格主義を眺めた時、あまりの生ぬるさに苦笑したであろうことは容易に想像がつく。では竹内自身の人格はどうだったのかというと、忌憚なくいって、第一の条件しか満たしていなかった。ただ、第二、第三の条件も満たそうと努めていた様子は日記や手紙から窺える。
権威に楯突くような形で論壇に躍り出た以上、注目されると同時に、批判を受けるのは当然の成り行きである。「精一杯からかはうと思つて汗をかいてもがいてゐる者の態度」「血迷へる狂燥者」「雜誌の上での勇士」ーーこれらの非難に対し、竹内は相手のレトリックを逆手に取る形で応じた。論戦するのではなく、関節技で返すのである。上から目線に対抗して、より上から目線で「貴方たちの御高説から得られるものは何もない」といわんばかりに。そして、彼は自分の主張を補強し、ますます尖鋭化させていく。
「精確深刻なる事實の認識と現状の否定とをその立脚地とし實現の要求をその核心とする理想は、それを一刻も早く最も完全に實現するために爲すべき事を愼重に熟慮せしめ眞劍に實行せしめるに至つて、始めて生活の指導原理としての意義を完うする。換言すれば、理想がその名に値するものである限り、それは必ず如何にしてそれを實現すべきであるかの熟慮とその熟慮の結果の實行とに向つて、人を内面的に驅らずには止まぬであらう」
「パリサイ人の復活」は、1922年7月号の『新潮』に掲載された(同号には「文壇の沈滞の大部分は批評家に人のゐないためである」と吐き捨てた芥川龍之介の「文壇の沈滞」が載っている)。竹内はこの中で「硬化した觀念の外殻に執着する人々」を散々皮肉っているのだが、「硬化」の二文字は竹内が好んで用いた言葉である。阿部次郎の人格主義批判で世に出る前から、竹内は自分を認めない年長者や世間を硬化した壁のように疎んじていた。それを崩すことは、いわば彼の宿願だったのだ。
「吾々の行爲や言論は屢々年長者から掣肘せられる。世の中は理窟通りには行かないと言ふのが彼等の常套語である。お前の言ふことは成る程理窟ではあるがそれでは世間に通用しないと言ふのが彼等の定り文句である。......道理が世間に通用しないならそれは世間が間違つてゐるので私が間違つてゐるのぢゃない。正しい私が正しくない世間に屈服する必要は無い。正しくない世間のために正しい私を曲げる必要はない。寧ろ不正の世間を矯(た)めて私の方へ屈服させなければならないと思ふ」
ただし、ニーチェに傾倒する若者には特別珍しくもない「ディオニソスかアポロか」の心境と、自分への批判者を「パリサイ人」呼ばわりするヒロイックな心境の間には隔たりが感じられる。彼の選ぶ言葉が強度を増し、そこから性急さが漏れ出ているのは、治安維持法の制定(1925年)に至るまでの時代の不穏な動きに触発されてのことだろう。が、それと同時に、彼自身が有名になるに伴い、「雜誌の上での勇士」でないことを証明するために己の社会的立場を鮮明に打ち出す必要を感じていたのも間違いない。
竹内仁の性格
1928年9月に非売品として刊行された『竹内仁遺稿』には日記も書簡も収録されているが、それらを読むと、竹内仁の人間像が浮かび上がってくるように思える。彼は義母に対して本当の母親の愛情を求めて、「淋しい」と繰り返し書く人である。親友に自分の心の何もかもを打ち明けて、最大限求め得る友情を求める人である。単に淋しがり屋というのではなく、まるで言葉の示す本来の意味がそのまま実践されなければ承服出来ないかのように、「母」には母みたいなものの愛ではなく、母そのものの深い愛を求め、「友人」には無防備なまでに友情を表現し、同じ重さの友情を求めるのである。極端といっていいほど、言葉と実践の関係を純粋に捉えようとしていたのだ。
竹内は「知行合一」の使徒だった。知ることは行うこと。知っていても行動が伴っていなければ知っていることにはならない。彼は「パリサイ人の復活」の中で、「王陽明の所謂る『知の眞切篤實なる處即ち是れ行』となる程にまで『知』(認識)の『眞切篤實』(精確深刻)を極むる者」をあるべき姿としたが、それは自身の投影でもあったろう。一方で、「自分の此の變態かと思へる程の感情過剰が、自分の理性でどうにも始末出來ぬ限り、僕は決して生存競争の適者ではない。平常たはむれに誇稱する様な、『合理性的動物』では決してない」(1922年10月20日、有澤廣巳宛書簡)と漏らしながらも、「知行合一」によって自分の性格や主張を律していたのである。
性格面では、竹内は「怒」に支配されやすい人であった。彼は親友宛の手紙で、このように自己分析している。
「君が善悪の問題に苦しむように、僕は怒といふことで苦しむ。實際僕にとつて最も除き去りたいものは、この怒といふ感情だ。......形の上に表れぬ怒(内心での怒)も苦しい。形の上に表れた怒に至つては更に甚しい。一度怒を形の上に表せば、數日の生活は消えて失ふ」
この傾向は、4年後も変わっていなかったといえる。竹内にとって知識と感情と行動は密接な関係を持っていた。早い話が、「知行合一」から「知情行合一」に変容する萌芽を常に有していた。それが倫理的に誤っている時は、誤っていると判断することも出来たが、自分を圧迫したり傷つけたりするような建前や偽善や嘘に直面すると、それによって生じた怒りを抑えることが出来なかった。その怒りが彼の頭脳を驀進させ、執筆のエネルギーへと還元されることもあったが、陰惨な心理状態の底に沈めることもあったのである。
とはいえ、竹内仁は「殺意を抱いたら、殺害しなければならない」とまで考えるような人間ではなかった。それどころか、議論で喧嘩別れした相手と和解しないまま死なれたら嫌だと寝る前に悔やむ気弱さがあった。にもかかわらず、越えるべきではない一線を越えるべきものと判断したのである。「怒りが鎮まるのを待つべきだった。普通なら将来のキャリアを選ぶはずだ。もっと魅力的な恋人にだって出会えたに違いない」と第三者がいったところで、何の意味もない。
竹内が、許婚の両親に何といわれたのかは分かっていない。『竹内仁遺稿』にその部分が載っていないのである。秋田雨雀の戯曲『手投弾』も事件当夜の不穏な雰囲気を伝えるばかりで、具体的なことは何も書かれていない。遺書からはっきり分かるのは、1922年10月5日以降許婚と会えなくなったということ、11月8日(遺書を書く前日)に偶然出会った許婚とその母親の態度に傷ついたこと、くらいである。竹内は10月20日の有澤廣巳宛の手紙で、ある助教授のおかげで「卒業後のパンの心配はまづ無くなつた」と報告しているが、喜んでいる様子は微塵もない。頭には殺意と自殺願望と擦り切れた抑制心しかなかったのだ。そのような状況下、11月3日に書かれたレポート「認識論と實生活」は、明らかに精神的に疲弊していることを窺わせる内容である。認識論に見切りをつけながらも、その対抗馬として持ち出した新実在論の紹介がいつになくおざなりで、エッセイ以上のものになっていない。
竹内仁とは何か
竹内仁がもう十年も生き延びたら、素晴らしいプロレタリア批評家になっていただろう、と大宅壮一は惜しんだが、1923年に大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が甘粕正彦によって殺害されたり、1925年に治安維持法が制定されたり、1930年代前半にプロレタリア文学運動が衰退したり......という顛末をみても、竹内が望むような歩み方は出来なかっただろうと推察される。また、大学を卒業して急進的なコミュニストになったとしても、プロレタリア側の人々は気性が激しく精神的に打たれ弱い竹内のことを短気なインテリ学生評論家上がりとみなしたのではないだろうか。エッカーマン著『ゲーテとの対話』の中で、ゲーテは「大事なことは、すぐれた意思をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだ」と語っているが、その技能と忍耐力が竹内にあったのか。想像するに心許ないものがある。
竹内による人格主義批判を、平野謙は「マルクス・レーニン主義という新兵器」を用いたものと評し、小田切秀雄は「大正期と昭和期との實質上の轉換」を行ったものと捉えた。しかし私自身は、政治的ないし歴史的文脈の中で竹内の評論を捉えるよりも、王陽明流の「知行合一」の賜物と評する方がしっくりくる。そもそも社会主義の理想的な実現というものに、リアリティを感じることが出来ないからである。
建前や偽善や嘘を毛嫌いする竹内は、権威とされている思想の間隙や矛盾を看破する眼力を持ち、鋭いペン先で相手のレトリックに切り込み、敵の心理をえぐる批評を行った。彼はテオドール・リップス、ジャン=マリー・ギュヨー、オットー・ワイニンゲル(ヴァイニンガー)、ヨセフ・ディーツゲンの思想を自分なりに咀嚼し、自分の言葉で紹介することが出来たが、自身は思想家として熟す前の批評家であり、哲学の実際的有効性を重んじ、思考や言葉の遊戯を拒絶する潔癖な番人であった。大正時代の極めて野心的な少壮評論家として、私にとっては忘れられない人物である。
【参考文献】
留岡清男編『竹内仁遺稿』(イデア書院 1928年9月)
阿部次郎「人生批評の原理としての人格主義的見地」(『中央公論』 1921年1月号)
テオドール・リップス(藤井健治郎訳)『リツプス氏 倫理學の根本問題』(同文館 1921年11月)
阿部次郎「竹内仁氏に答ふ」(『改造』 1922年3月号)
細田民樹「プロレタリヤ文學宣傳者に」(『新潮』 1922年4月号)
阿部次郎『北郊雑記』(改造社 1922年)
大宅壮一「大正批評壇大観」(『日本文学講座 第十三巻』 改造社 1935年)
『現代日本文学全集 第94巻 現代文芸評論集1』(筑摩書房 1958年)
秋田雨雀「手投弾」(『日本国民文学全集 第三十三巻 現代戯曲集』 河出書房新社 1958年10月)
臼井吉見『安曇野』(筑摩書房 1965年6月)
平野謙『平野謙全集 第六巻』(新潮社 1974年11月)
オットー・ヴァイニンガー(竹内章訳)『性と性格』(村松書館 1980年1月)
竹内は「リツプスの人格主義に就て ー阿部次郎氏のそれを批評する前にー」の中で、テオドール・リップスが理想とした人格の条件について次のようにまとめている。
まず第一に、「それ(人格)を構成する一々の内容(内面的性質)が悉く強烈を極めたもの」であること。
「弱小なる内容を有して秩序整然たるを得る『虫も殺さぬ善人』よりも、高き動機と低き動機とがともに強烈を極めて、激甚なる角逐の果て、遂に後者が前者を血みどろになりつつ征服する悲劇的罪人の方に遥かに多くの人間らしさと道徳的偉大とを認める點に於て、彼(テオドール・リップス)は、ギュヨオとニイチェとの意味に於ける『力』の讃美者である」
(「リツプスの人格主義に就て ー阿部次郎氏のそれを批評する前にー」)
第二に、強烈を極めながらも、内面的統一を保っていて自由であること。第三に、正しい意思決定を行うために「人生に起こり得るあらゆる場合のあらゆる動機の體驗を嘗め盡」していること。この三点ーー第一の「強烈」、第二の「自由」、第三の「豊富」ーーにおいて「完全なるものでなければならない」という。その観点に立って、阿部次郎の人格主義を眺めた時、あまりの生ぬるさに苦笑したであろうことは容易に想像がつく。では竹内自身の人格はどうだったのかというと、忌憚なくいって、第一の条件しか満たしていなかった。ただ、第二、第三の条件も満たそうと努めていた様子は日記や手紙から窺える。
権威に楯突くような形で論壇に躍り出た以上、注目されると同時に、批判を受けるのは当然の成り行きである。「精一杯からかはうと思つて汗をかいてもがいてゐる者の態度」「血迷へる狂燥者」「雜誌の上での勇士」ーーこれらの非難に対し、竹内は相手のレトリックを逆手に取る形で応じた。論戦するのではなく、関節技で返すのである。上から目線に対抗して、より上から目線で「貴方たちの御高説から得られるものは何もない」といわんばかりに。そして、彼は自分の主張を補強し、ますます尖鋭化させていく。
「精確深刻なる事實の認識と現状の否定とをその立脚地とし實現の要求をその核心とする理想は、それを一刻も早く最も完全に實現するために爲すべき事を愼重に熟慮せしめ眞劍に實行せしめるに至つて、始めて生活の指導原理としての意義を完うする。換言すれば、理想がその名に値するものである限り、それは必ず如何にしてそれを實現すべきであるかの熟慮とその熟慮の結果の實行とに向つて、人を内面的に驅らずには止まぬであらう」
(「パリサイ人の復活」)
「パリサイ人の復活」は、1922年7月号の『新潮』に掲載された(同号には「文壇の沈滞の大部分は批評家に人のゐないためである」と吐き捨てた芥川龍之介の「文壇の沈滞」が載っている)。竹内はこの中で「硬化した觀念の外殻に執着する人々」を散々皮肉っているのだが、「硬化」の二文字は竹内が好んで用いた言葉である。阿部次郎の人格主義批判で世に出る前から、竹内は自分を認めない年長者や世間を硬化した壁のように疎んじていた。それを崩すことは、いわば彼の宿願だったのだ。
「吾々の行爲や言論は屢々年長者から掣肘せられる。世の中は理窟通りには行かないと言ふのが彼等の常套語である。お前の言ふことは成る程理窟ではあるがそれでは世間に通用しないと言ふのが彼等の定り文句である。......道理が世間に通用しないならそれは世間が間違つてゐるので私が間違つてゐるのぢゃない。正しい私が正しくない世間に屈服する必要は無い。正しくない世間のために正しい私を曲げる必要はない。寧ろ不正の世間を矯(た)めて私の方へ屈服させなければならないと思ふ」
(「ディオニソスかアポロか」)
ただし、ニーチェに傾倒する若者には特別珍しくもない「ディオニソスかアポロか」の心境と、自分への批判者を「パリサイ人」呼ばわりするヒロイックな心境の間には隔たりが感じられる。彼の選ぶ言葉が強度を増し、そこから性急さが漏れ出ているのは、治安維持法の制定(1925年)に至るまでの時代の不穏な動きに触発されてのことだろう。が、それと同時に、彼自身が有名になるに伴い、「雜誌の上での勇士」でないことを証明するために己の社会的立場を鮮明に打ち出す必要を感じていたのも間違いない。
竹内仁の性格
1928年9月に非売品として刊行された『竹内仁遺稿』には日記も書簡も収録されているが、それらを読むと、竹内仁の人間像が浮かび上がってくるように思える。彼は義母に対して本当の母親の愛情を求めて、「淋しい」と繰り返し書く人である。親友に自分の心の何もかもを打ち明けて、最大限求め得る友情を求める人である。単に淋しがり屋というのではなく、まるで言葉の示す本来の意味がそのまま実践されなければ承服出来ないかのように、「母」には母みたいなものの愛ではなく、母そのものの深い愛を求め、「友人」には無防備なまでに友情を表現し、同じ重さの友情を求めるのである。極端といっていいほど、言葉と実践の関係を純粋に捉えようとしていたのだ。
竹内は「知行合一」の使徒だった。知ることは行うこと。知っていても行動が伴っていなければ知っていることにはならない。彼は「パリサイ人の復活」の中で、「王陽明の所謂る『知の眞切篤實なる處即ち是れ行』となる程にまで『知』(認識)の『眞切篤實』(精確深刻)を極むる者」をあるべき姿としたが、それは自身の投影でもあったろう。一方で、「自分の此の變態かと思へる程の感情過剰が、自分の理性でどうにも始末出來ぬ限り、僕は決して生存競争の適者ではない。平常たはむれに誇稱する様な、『合理性的動物』では決してない」(1922年10月20日、有澤廣巳宛書簡)と漏らしながらも、「知行合一」によって自分の性格や主張を律していたのである。
性格面では、竹内は「怒」に支配されやすい人であった。彼は親友宛の手紙で、このように自己分析している。
「君が善悪の問題に苦しむように、僕は怒といふことで苦しむ。實際僕にとつて最も除き去りたいものは、この怒といふ感情だ。......形の上に表れぬ怒(内心での怒)も苦しい。形の上に表れた怒に至つては更に甚しい。一度怒を形の上に表せば、數日の生活は消えて失ふ」
(1918年3月15日、留岡清男宛)
この傾向は、4年後も変わっていなかったといえる。竹内にとって知識と感情と行動は密接な関係を持っていた。早い話が、「知行合一」から「知情行合一」に変容する萌芽を常に有していた。それが倫理的に誤っている時は、誤っていると判断することも出来たが、自分を圧迫したり傷つけたりするような建前や偽善や嘘に直面すると、それによって生じた怒りを抑えることが出来なかった。その怒りが彼の頭脳を驀進させ、執筆のエネルギーへと還元されることもあったが、陰惨な心理状態の底に沈めることもあったのである。
とはいえ、竹内仁は「殺意を抱いたら、殺害しなければならない」とまで考えるような人間ではなかった。それどころか、議論で喧嘩別れした相手と和解しないまま死なれたら嫌だと寝る前に悔やむ気弱さがあった。にもかかわらず、越えるべきではない一線を越えるべきものと判断したのである。「怒りが鎮まるのを待つべきだった。普通なら将来のキャリアを選ぶはずだ。もっと魅力的な恋人にだって出会えたに違いない」と第三者がいったところで、何の意味もない。
竹内が、許婚の両親に何といわれたのかは分かっていない。『竹内仁遺稿』にその部分が載っていないのである。秋田雨雀の戯曲『手投弾』も事件当夜の不穏な雰囲気を伝えるばかりで、具体的なことは何も書かれていない。遺書からはっきり分かるのは、1922年10月5日以降許婚と会えなくなったということ、11月8日(遺書を書く前日)に偶然出会った許婚とその母親の態度に傷ついたこと、くらいである。竹内は10月20日の有澤廣巳宛の手紙で、ある助教授のおかげで「卒業後のパンの心配はまづ無くなつた」と報告しているが、喜んでいる様子は微塵もない。頭には殺意と自殺願望と擦り切れた抑制心しかなかったのだ。そのような状況下、11月3日に書かれたレポート「認識論と實生活」は、明らかに精神的に疲弊していることを窺わせる内容である。認識論に見切りをつけながらも、その対抗馬として持ち出した新実在論の紹介がいつになくおざなりで、エッセイ以上のものになっていない。
竹内仁とは何か
竹内仁がもう十年も生き延びたら、素晴らしいプロレタリア批評家になっていただろう、と大宅壮一は惜しんだが、1923年に大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が甘粕正彦によって殺害されたり、1925年に治安維持法が制定されたり、1930年代前半にプロレタリア文学運動が衰退したり......という顛末をみても、竹内が望むような歩み方は出来なかっただろうと推察される。また、大学を卒業して急進的なコミュニストになったとしても、プロレタリア側の人々は気性が激しく精神的に打たれ弱い竹内のことを短気なインテリ学生評論家上がりとみなしたのではないだろうか。エッカーマン著『ゲーテとの対話』の中で、ゲーテは「大事なことは、すぐれた意思をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだ」と語っているが、その技能と忍耐力が竹内にあったのか。想像するに心許ないものがある。
竹内による人格主義批判を、平野謙は「マルクス・レーニン主義という新兵器」を用いたものと評し、小田切秀雄は「大正期と昭和期との實質上の轉換」を行ったものと捉えた。しかし私自身は、政治的ないし歴史的文脈の中で竹内の評論を捉えるよりも、王陽明流の「知行合一」の賜物と評する方がしっくりくる。そもそも社会主義の理想的な実現というものに、リアリティを感じることが出来ないからである。
建前や偽善や嘘を毛嫌いする竹内は、権威とされている思想の間隙や矛盾を看破する眼力を持ち、鋭いペン先で相手のレトリックに切り込み、敵の心理をえぐる批評を行った。彼はテオドール・リップス、ジャン=マリー・ギュヨー、オットー・ワイニンゲル(ヴァイニンガー)、ヨセフ・ディーツゲンの思想を自分なりに咀嚼し、自分の言葉で紹介することが出来たが、自身は思想家として熟す前の批評家であり、哲学の実際的有効性を重んじ、思考や言葉の遊戯を拒絶する潔癖な番人であった。大正時代の極めて野心的な少壮評論家として、私にとっては忘れられない人物である。
【参考文献】
留岡清男編『竹内仁遺稿』(イデア書院 1928年9月)
阿部次郎「人生批評の原理としての人格主義的見地」(『中央公論』 1921年1月号)
テオドール・リップス(藤井健治郎訳)『リツプス氏 倫理學の根本問題』(同文館 1921年11月)
阿部次郎「竹内仁氏に答ふ」(『改造』 1922年3月号)
細田民樹「プロレタリヤ文學宣傳者に」(『新潮』 1922年4月号)
阿部次郎『北郊雑記』(改造社 1922年)
大宅壮一「大正批評壇大観」(『日本文学講座 第十三巻』 改造社 1935年)
『現代日本文学全集 第94巻 現代文芸評論集1』(筑摩書房 1958年)
秋田雨雀「手投弾」(『日本国民文学全集 第三十三巻 現代戯曲集』 河出書房新社 1958年10月)
臼井吉見『安曇野』(筑摩書房 1965年6月)
平野謙『平野謙全集 第六巻』(新潮社 1974年11月)
オットー・ヴァイニンガー(竹内章訳)『性と性格』(村松書館 1980年1月)
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